第27話 コオロギの話⑩

 僕がフワにしたように、オジも僕の接近する速度を活かして放ってきた。但し、僕が石を投げたのに対して、オジは僕を引き付けるだけ引き付けておいて、あと三歩という距離で急に首を前に突き出す。たったそれだけの挙動。僕よりも数段上手の技で、弾丸みたいな何かを口から吹いた。走る動きで振っていた左腕が運よくその弾丸を払える軌道にあったので、速度は落とさずオジからの初撃を避ける。手のひらにぶつかった弾丸は、僕の眼球を逸れて頬をかすめていった。

 僕の動きは走行から変化しない。速度だけでなく、フォームも進行方向もキープし、オジの真正面にまで迫った。右か、左か。必ずオジは片方の足を軸にして最小限の動きで横に避けるはず。何故なら、僕ならそうするからだ。オジの足元が自分のまぶたの死角になって見えない、顔と顔の間隔が数十センチメートルの距離で、思った通り、オジはわずかに右肩を下げた。

 オジの残影が右側へ伸びる。

 瞬きはしてはならない。避ける動作のついでに僕に攻撃を仕掛けてくるはず。後頭部へ手刀、もしくはがら空きの胴への殴打。それはしかし、来なかった。

 身体の位置関係が変わった瞬間から僕はオジから離れる動きをしているので、おそらく僕の左脇腹を狙って打ち込んだであろうオジの右フックは、空を切ってとんでもない音を出しただけ。それでも脇腹の細胞が必死で危険信号を発している。今の、命中していたらあばら骨に届いていた威力だったぞ、と背筋を凍らせ鳥肌を立たせてくる。

 その信号は無視。

 代わりに右フック後のオジの体勢を想定。バランスを崩しているような好機は見出せない。反撃は今ではない。オジをすり抜け、直進した。足が悲鳴を上げているが、そんなのに応えている暇なんてない。次の場面を急いで予測する。

 台風が過ぎた直後ということもあり、地面はどこもぬかるんでいた。せめて砂利敷きの場所であればこの後の動きの成功率が高まるのだが、ないならば走りながら探すしかない。身体は走行を、目は計画に最適な地理的条件の選定を、頭では、その計画が成功か失敗かした後のシミュレーションをしている。後方からオジが何か言っていたが、同時に後を追ってくる圧を強く感じた。今の僕では一分間、いや、三十秒間とかからずにオジに追い付かれるだろう。それまでに丁度良い場所が見付かることを祈る。

「正しい逃げ方だってきちんと教えたはずだぞ」とすぐ後ろから聞こえた。

 三十秒間という見立てでもまだ全然甘すぎたようだ、十秒間も走っておらず、それでも尚余裕を感じるオジの声色が絶望感を連れて来るが、恐怖だとか焦燥だとかに対応している暇もない。

「逃げてないし」

 正面の木に向かって飛び上がった。

 わずかしか与えられていない時間で妥協するしかなかった木は、思っていたよりかは強く根を張っていて、僕の跳び蹴りの衝撃に耐えてくれた。左足が木に触れる瞬間、全身に分散していた触覚をその足に集め、瞬時に木の強度を測る。計算して、木に体重が沈み込んだタイミングを見計らい、左膝を曲げて上方へ視線を動かした。

 靴の裏が木の肌を削る感触。

 滑ることなく僕を支えてくれた木に感謝をしながら右足を踏み出し、一歩目と同じ動作を木に耐えてもらう。三歩目、木を蹴り、上体を反らして頭頂部へ意識を移す。オジの足音が許容範囲内にまで近付いていることを確認し、今度は伸ばした両腕に意識を移した。

 浮遊する感覚。

 三半規管が揺れる、感覚。

 宙返りをしながら、伸ばした腕の末端でオジの頭部を探し、触れ、彼の今の態勢を思い描き、右手は顎へ滑らせ左手は額辺りを押さる。重力に協力してもらって、オジの首を捻り落とした。

 遠心力を受けていた両足が地面に触れた瞬間、慣性の法則に逆らうことなく後方へ転がる。一回転して再び地面に足が着いた時、蹴って、後方へ跳ぶ。はずだった。最後の動きだけは、太もものエネルギー不足により失敗し、不格好に地面で転げ回ってしまう。回転運動が落ち着き、地面に膝をついて前方の様子を伺う。八歩分ほど空いてオジの姿が見え、即座に焦点を調節させた。実際には散乱しているはずのない微細な粒子がちかちかとそこかしこにうねっているが、これは地上を転がった際に脳を網羅する神経の一部が視神経と混線したことで発生した不思議現象だ。気にせずオジを見る。

 オジの首は、こちらを向いていた。

 身体は、……身体も、同じくこちらを向いていた。

 オジの首を折った手応えは、気持ち悪いくらいに、なかった。僕の手の動きに合わせてオジも身体を捻じったようだ。

 失敗……。を鼻からの一息で吐き出し、次に用意していた手段を実行に移す。足に力が入らないので、想定に多少修正を加えた。

 半身になり、軽く握った両手はオジの動きをいなし易い高さに構えた。重心を悟られないように、すり足で間合いを詰めていく。というよりも、すり足しかできそうにない。実践訓練とは異なり、何手も失敗を繰り返してはいられない。動けば動く程に、失敗を重ねれば重ねるほどに、その次の一手は成功確率が大きく下がったものしか選べなくなっていく。少なくともあと二、三回の手数で僕の全身が機能を停止させることだろう。すり足しか選択できない今は、まだ辛うじて上半身が動くので、これでどうにか仕留めるしかない。

「意外性だけで攻めたな」とオジは言った。「決定力に欠ける。今のじゃ俺の首は折れない。その後の追撃で勝負をするべきだったな……あぁ、すまん。お前、ひ弱だからそんな体力ないか」と、僕の呼吸を乱す目的で、オジはあえて師をかたどった言葉を投げてくる。

「…………」

「おい、聞いてんのか?」

「……あれ? 今何かしゃべってました?」

 左から僕の顎を狙ってグローブが振られた。背筋で肩をやや後方に引っ張りながらオジの右肘に手を添えてその攻撃をいなす。強張った背筋にはそのまま回ってもらい、いなすのに使った左手をオジの耳に目掛けて振った。これは宙を切る。

 次いで反対側から脛が肩に迫ってきたので中腰になって回避。目の前でオジが勢いよく回転しており、後ろ蹴りに身構える。しかし僕の視線を読んだのか、足ではなく手の甲が飛んできた。回避は間に合わず、折り曲げた腕でオジの裏拳を防御。とてつもく重い打撃を受け、たまらず左側に吹き飛ぶ。踏ん切りがきかないため、地面に膝をついてしまった。

 追撃の見本、とばかりにオジは更に回転させた身体から今度こそ長いリーチの後ろ蹴りを放ってくる。土下座の姿勢で大砲みたいな風圧をやり過ごし、起き上がった背中でオジの伸び切った足を跳ね上げる。が、こんなではオジはバランスを崩しすらしない。オジはこれみよがしにたっぷりと時間をかけて体勢を整え、四つん這いになっていた僕の首を踏みつけてくる。咄嗟に寝転びこれを回避。続けて三回、隕石みたいな足裏が降って来る。これらは横に転がりながら回避。距離を取るため余計に三回転してから起き上がる。

 身体がくの字に曲がった。

 腹にオジのグローブがめり込んでいる。でもダメージはない。くの字は僕の随意ずいいの動きで、そのグローブの威力を殺すための反射行動だ。肩越しに睨むオジの目には殺意が爛々らんらんと光っていた。

 オジの喉元に両腕でクロスを作り、なけなしの力を使って、押す。反動で自分も下がる。五歩、という僅かなものだが、間合いが取れた。

「もう一つあったな、お前が俺に勝てない理由。……お前、知らないもんな、俺の戦い方」

「なるほど確かに。それに比べて僕の戦闘はオジさんにはバレバレですね。どうしよう」

「後悔は死んでからいくらでもさせてやる」

「マルタならもう死んでますけどね」

 オジは一気に間合いを詰めた。今の僕の五歩を、たったの二歩で。ダンプカーみたいな鉄の塊は、でも人体の急所目掛けて緻密に精密に攻撃を仕掛けてくる。首の付け根、鳩尾、へそ、とオジは両手を交互に突きながら、最後に股間を蹴り上げた。鳩尾への打撃は当たり所を少しずらすにとどまってしまい、四段攻撃を捌いてからたまらず後ずさりをしてしまうが、この距離は相当不味い。

「そうじゃない」と聞こえたかと思うと、僕の三倍もありそうな長さの足が、まるで槍かのように鋭く深く突いてきた。これは身体を捻って肩で受ける。本当は半歩前に乗り出してその足が伸び切る前に受けたがったが、足は既に動かない。踏ん張れずに思い切り吹き飛ばされた。飛ばされながら、「それも違う」と遅れて聞こえる。「知ってるよ」とは上手く声にできなかった。

 あえて受け身はとらず、後方へ作用する力のベクトルに沿って後転をし、膝で上半身を支える姿勢になる。オジの追撃に備えた。が、構えが間に合わず、「終いだ」という声と共に容赦なく踏み込んでいたオジの顎を狙う蹴り上げのモーションを、ただただ眺めるだけしかできない。


 もろに喰らう。


 景色が全て線状になって大きく揺れた。

 引きちぎれて粉々に砕けた下顎が空中に散らかる。


 が、それは、鍛えに鍛えてきた僕の想像力が見せたもう一つの結末。実際には、どうにか意識はこちらの世界にまだあった。

 頭上の木漏れ日が正面に見えていたのは、顎を蹴り上げられたからではなく、どうやら、僕の生存本能の仕業だ。咄嗟の反射で、右腕を、身体を支えるものからオジの足を逸らすものへ役割を転じさせ、仰向けに倒れ込みながらオジの足を避けていた。

 自らの状態を知ると同時に、「やるな」とかかとが降って来る。横に転げてそれを避けた。先程からずっと地面のお世話になりっぱなしで、身体中真っ黒になっていることだろう。そのことを意識すると、途端にあちこちから悲鳴が聞こえてしまい、地面にめり込んでしまいそうなくらいに全身が重く感じる。

「それで? 次はどうするんだ」

 オジの声がやけに遠い。

「満を……、持、して……超高密度アポジロ、トライ波でも。ぶっ放そうか」とうなると、その声も遠かった。勝ち目がないと悟った僕の耳は、一足先に緊急脱出を図ったのだろう。薄情な奴だ。

「どうした、休憩時間か?」と言いながら近付いてくるオジは、さすがにオジで、発言の軽さとは裏腹に目には僕の一挙手一投足を見逃すまいという鋭さがあった。こんな何十年間も着古した安物のTシャツみたいになってしまった僕にですら、一切の油断をしていない。油断をするどころか、僕の命を取ることに興奮し、長らく身を潜めていた殺し屋スピッツが呼び起こされているようだった。

「もう良いだろう」と、やはり遠くに聞こえたが、これは薄情な耳のせいではなく、実際に遠くからの声だった。いつの間にか視界が九十度角度を変えている。左半身を下にして倒れていた。そうか、蹴られたのか。どこを蹴られた? 僕の細胞、神経、教えてくれ、

 僕はまだ動けますか?


 うずくまる僕のすぐ横にしゃがみこみ、オジは顔の真ん前に携帯電話を掲げた。見覚えがある。僕の携帯電話だ。「ヘイワを呼べ」とオジは言った。これまでの激しい運動でポケットからずり落ちたのか、それとも今、僕のポケットから抜いたのか、分からない。オジにつままれてゆらゆら揺れている携帯電話を見ながら、道に迷った時にそれ使えば良かったじゃんね、などと悠長なことを考えていると、額に固くて冷たい物が当たる。ここでようやく、拳銃様のお出ましだった。

「ヘイワを呼べ」

「……こと、わる」

 僕の返事に気分を害することなく、オジは興味の対象外という手つきで僕の携帯電話を後ろに投げ捨て、「そうか」とだけ言った。立ち上がり、僕に背中を見せてくる。油断? と思ったけれど、これは好機にはなりそうにない。既に指一本すら動かせなかった。それに、遅れて気付いたが、やはりオジは油断など一ミリもしていなかった。指一本、という単語に触発されてか地面で広げている自分の手元に目線を落とすと、それまでなかった異物が地面から上方向へ伸びていることに気付く。二本あった。昆虫の標本みたいに、僕の両手が地面にはりつけにされている。まずはそれをナイフだと理解し、胸板や脇などからつむじにかけての汗腺から一気に脂汗が吹き出し、その後に痛み、というか感電した時のような神経に直接熱を流し込まれたような感覚、が漢方薬みたいにじんわりと両手から脳に届いてきた。

 声にならない声が、消化物のないさらさらした吐瀉物としゃぶつを引き連れて、肚から放出された。

 両手のひらが心臓のように脈打つ。通常よりも早い脈拍のせいで、一秒間に一・八回の頻度の激痛を強いられた。二度、咳き込む。その咳の振動により、また食道を液体が逆流する。

 痛みに邪魔されオジの接近に全く気付けなかったが、左側に首を傾けると、先程同様にしゃがみ込んだオジが鼻息の当たる所に顔を置き、口元に人差し指を当てていた。「悪いが、今電話中なんだ。少し静かにしてほしい」とだけ言い、また背中を向けて立ち上がる。

 そのオジを改めて見ると、耳に携帯電話を当てており、「いや、問題ない」と会話を続行するよう相手に声を掛けていた。両手からのやかましい心音とその痛みのせいで半分くらいは鼓膜を揺らすだけのオジの会話だったが、どうにか現状を打開できるヒントを、と思い、聞き耳を立てた。耳が仕入れた音声をきちんと理解するようにと脳にも発破を掛ける。「ヘイワ」「分かった」「包囲」「俺が行くまで」といった具合で、断片的にだけれど、痛みに慣れた脳が徐々に音声認識に神経を割り当て始めていく。神経を割いた分、痛覚から意識を逸らせられることを発見したので、一層念を入れてオジへの傾聴を試みた。

「ああ、こっちは終わったぞ」とオジは言っていた。相手は誰だろうか。至高会、ということからカミナガを連想するが、それは僕が至高会のメンバーで知っている人物がそいつしかいなかったからだ。ただ少なくとも、電話の相手はオジが今何をしているか知っている人物ということになる。と、考えを巡らせることができるくらいは痛みを傍らに避けることに成功しつつあった。試しに人差し指の第一関節を曲げてみたが、激痛が脳に走る。やはり痛いものは痛い。強引に両手を地面から引き剥がすのは奥の手扱いとして行動の選択肢の最後尾にしようと決めた。

「GPSで追うから迎えはいらない。お前はお前の仕事に徹しろ」と言ってオジは尻ポケットに手をやり、拳銃と持ち替えた。こちらに振り返る。目が合ったが、オジのその目には僕はもうマルタとして映っていないことが分かる。彼にとっての僕は、これから拳銃で頭部を撃ち抜くだけの対象物、である。背筋が凍ってもよさそうだったけれど、殺されると知る今の方が、裏切りを知った地下室での盗み聞きよりも落ち着いていられる。いや、もう感情が疲れただけかもしれない。あと数歩でオジが僕の手の届く範囲に近付く。手は、動かないわけだが。

 再び銃口が僕の頭部に刺さる。さて、いよいよ不味いな。と思っていたら、意外にも、オジは口を開いた。

「最後に何か言うことは?」

「……さっきナイフ持ってるなんて言ってなかったですけど、これ……拾い物ですか? ちゃん、と、消毒してくれてるんですよね」

「…………で、他は?」

「ははは、……その様子だと、まだヘイワを見付けられてない、んですね。そりゃそうだ。伝説上の……生き物が、あんたらみたいな凡人の前に、姿を現わすはずないですって」

「分かった。もうヘイワのことは良い。拷問なんてのも時間の無駄だし、ここの人間を一人も逃がさず殺すことにした。その中にきっと伝説上の生き物も混じってるだろう」

「な…………」

「お前が無駄に意地を張ることでここの全員が死ぬわけだ。良かったな」

「…………」

 オジの声がどんどん白くかすんでいく。反比例して俺の中の俺の声が大きくなっていく。そして「一人も逃がさない」というヘイワの声も次第に大きくなり、件の残忍なイメージも網膜に映し出された。


 一人も逃がさず……?

 ヘイワを殺すのか?

 クロカワも、その他の同僚たちも、

 それに、村人にも手を出すっていうのか? 元居た世界で一度どこかの身勝手な誰かに命を狙われた罪のない人たちだぞ。

 あの老婆も、お話し好きのあの老婆も、殺すのか!


 最後は叫声きょうせいになった俺の声は、その間も話し続けるオジの声も一緒にして遠ざかる。

 枝葉が擦れる音も、風がかくをかすめる音も、羽虫の飛翔音も、日光が地面に当たる音も、ホワイトノイズも何もかも、音が消える。

 静かで、俺の周りは全て、眩しい白色。

 これまで幾度も体験してきた必殺の瞬間だ。いや、それをも通り越し、奥に、もっと奥に、もしくは天高く。そんな、ひどく寂しい場所に身体を放り出される感覚。意識を覆う膜みたいなものがやぶれ、意識は、無防備にも露出する。そんな、途方もなく心細くて、ほっとする、孤独。


 時間がぎゅっと固まり、

 視界が広く、狭まった。

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