第26話 コオロギの話⑨

「百人はいそうです。村の周囲をぐるりと囲っていて、リーダーと思われる人物の目星もつけられません」とヘイワは薄く息を吐き、これは……、と言って力なく笑った。

「特定の誰かを狙う布陣ふじんではありませんね。この村の人間を一人も逃がさない気概きがいが伺えます」

「つまり……、どういうことですか?」

「そうですね、ピンチってやつではないでしょうか」

 終始のんびりとしたたたずまいを崩さないヘイワから出る言葉は、僕の脳みそを通過する速度も緩やかで、数秒後にようやく「一人も逃がさない」という言葉が残忍なイメージを映像として目の裏側に投影させてきた。その瞬間、足の下にあった石が僕の後方にぱつんと弾ける。思考と感情をヘイワとクロカワの前に置き去りにして、僕は駆け出していた。

 ヘイワが何か叫んでいたが、彼と僕とを結ぶ直線状には既に何本もの木々がはだかかっていて、僕の背中に届く前にその声は木々に反射してベクトルを乱していった。でももう立ち止まらない。立ち止まる動きを選択する思考は僕の頭にはなかった。走る。それのみ。


 全速力で走った。

 並ぶ木の景色も、

 木片を脇に抱える同僚たちも、

 飛び回る羽虫も、

 荒い呼吸音も、

 空気だって、

 その石みたいに、

 僕の後方にすごい勢いで吹っ飛んでいく。

「一人も逃がさない」というヘイワの台詞が音声となって連続していて、先程の残忍なイメージとリンクしていた。思考と感情がヘイワとクロカワの元をって僕の脳みそに戻ってくるまでの間、それらの不吉な想像だけがぐんぐんと大きく濃く膨らんでいき、足がちぎれそうになっても更に加速を強制してくる。


 そして、道に迷った。


 木の根につまずいていなければ、道に迷ったことを永遠に気付けなかったかもしれない。身体中の痛みをやけに遠くに感じながら、無理がたたった足を使わずに腕と背中だけの力で起き上がった。

 辺りを見回し、見知った景色がないか探した。先程までたまにすれ違っていた同僚たちの姿も、気配も、今は全く感じない。遅れていた思考がようやく僕に追い付いて脳みそに格納されると、先走ってふんだんに溜め込んだ体内の熱を下げるために身体中の汗腺が一斉に稼働を開始し、雑巾を絞るような物凄い勢いで汗を流し始める。胸では心臓が暴れ、その振動が骨を伝って鼓膜を共鳴させていた。荒い息遣いがうるさい。とても苦しい。

 でも、あの老婆。

 名前も知らないお話し好きの老婆のことが、何故か無性に心配だった。

「一人も逃がさない」が映し出すイメージは、のんびりしたこの村の人たちが至高会の暗躍部隊に非道な暴力を振るわれているシーンであり、特に印象深く記憶していたお話し好きの老婆が、頭の中で痛々しい悲鳴を上げていた。単なるイメージであるにも関わらず、込み上げる怒りが抑えられない。同じくらいに焦りも歯止めがきかないでいた。思考と感情が脳みその隅々に行き渡っても尚、否、感情が戻ったが故に、頭が空回るばかりだった。

 どちらに行けば南区方面なのか全然分からなかったが、とにかく進もうと考え、でも走ることは足に拒絶されてしまったので、歩き始める。ふらついて頼りない足の代わりに、ぐるぐると目を動かして必死に見慣れた景色を探した。が、思い出したようにぽつぽつと表れる建物はクチナシ村らしいものばかりなのに、周囲の木々には見慣れた配置が一切ない。酸素が行き渡らない脳みそがこの村をクチナシ村ではない全くの別物に見せてきていて、南区どころか、ここがクチナシ村のどの地点なのかも見当が付かなかった。声を張って人を探したいが、村を囲っている至高会の人間に自分の居場所を教えてしまう恐れがあり、声は出せない。発見した建物のいずれにも村民はいなかったことからこの辺りはクチナシ村全域の廃棄されたエリアなのだろうと予想する。

 登れば良いのか下れば良いのか、それすらも判断がつかず、戻ろうにも、考えなしに走ってきてしまったので振り返った林道がやけに他人行儀だった。クロカワたちの所に辿り着ける気がしない。

 細かく震える足にどうにか頑張ってもらったけれど、さすがに限界が近い。少し離れた場所に比較的多く木漏れ日が差している場所があったので、そちらへ向かう。明るい所に自然と足が向くのは、電灯に吸い寄せられる蛾の心理と同じだろうか、と現状にはおよそ似つかわしくないことを考えていると、それまで角度的に見えなかった建物の人工的な造りが見えた。何となくほっとするのは猫が捉えた獲物をお気に入りの場所で食べる習性に似ているのかもしれない、などと、またもどうでも良いことを思い付く。朝からの労働と先程の全力疾走であちこちの筋肉に乳酸が蓄積していたが、動きが制限されることでかえって脳への酸素の運搬がスムーズにいったようだ。無駄なことを考えることができるくらいには思考にゆとりができていた。

 建物は朽ちていた。台風の被害ではなく、経年劣化だ。歴史は感じ取れるが風格はない。台風でとどめを刺されていないのが不思議な程度の朽ち方である。かつては木の板で封をしていたであろう建物の出入り口には湿った穴が開いていて、出入り口の向いている方角も関係してはいるだろうが、頭上の葉にろ過された日光の品の良い光量だけでは室内を十分な明るさにするに足りていない。普段であれば中でくつろぐ意味もないと考えるだろうが、でも今はどこまで至高会の手が及んでいるか知る術はなく、周囲に気を巡らす分の集中力も体力回復に充てたいと考え、ぬるい空気を我慢することにした。

「お邪魔します」と、いたとしたら白骨死体くらいだろうが、そんな仮想の住民に一応進入の表明をする。

 横になってしまえばたとえ目を開けていたとしても熟睡までできそうな状態だった。いつの間にか眠っていて、そのまま永遠に目を覚ますことはなかった、なんて事態を避けるために、罠をセットした。罠と言っても、複雑なものなど作っている暇も材料も道具も気力もないので、ひどく単純な造りだ。今着ている服の繊維を細くほどき出入り口の地面から五十センチメートルほどの高さに張って、その近くに拳大の石を括り、誰かが建物に入ったら石が落下して音で気付く、というコンビニエンスストアとかの入店時のチャイムの原始版、みたいな罠がせいぜいである。

 建物の奥に進み最もましな柱に背中を預ける姿勢で、地面に腰を下ろした。

 そして、半分だけ眠った。

 半分だけ眠る、の半分とは、片方が脳みそで、片方が身体、である。眠らせているのはもちろん身体の方だ。脳はむしろ活発で、全身の神経を操作するようなイメージで自己暗示をかけるのに忙しい。壊れた細胞の交換、切れた筋繊維の補修、枯渇こかつしたエネルギーの再分配、それらを鮮明に想像し、さも自分の身体でそういったことが起きていると自分を騙す。身体が疲れている時の、いわゆる末梢性疲労がひどい場合に効果的な仮眠で、これは僕の得意技だ。厳密にいえば、仮眠が得意なのではなく、僕は、僕の思った通りに身体を操ることができる。他の人間の身体を操縦したことがないので完全な客観的評価ではないけれど、少なくともオジからはこのことだけは褒められていた。フワの投げナイフも、身体を動かす理想像さえ思い描ければ、それを全身を走る神経と筋肉に過不足なく正確に再現してもらうだけなので、訓練などせずにフワと同等の技術でナイフを投げられる。重火器の使用は自分の身体を動かすわけではないので苦手ではあるけれど、ナイフなどの単純な武器であれば一度見れば達人の心得まである程度理解できた。惜しむらくは、筋力が必要な動きは再現性が著しく低下する、という部分で、それがオジからは課題とされていた。自分ではトレーニングを怠っているつもりはないのだが、肉の付きにくい体質は、成長期の前後でも改善されなかった。とはいえ、脳内の動きと実際の動きとの乖離かいりをゼロに等しくできる特性は、僕の殺し屋としての奥義である。

 観察と予測を徹底し、筋力ではなくことわりを重視し、それらをもって、思い描いた通りに動く。これで今まで生き残ってこられた。得意技の仮眠は、この極意から派生したものだ。

 どうして今こんなことを考えていたのかというと、理論的な根拠はないが、きっと、凶悪な悪意を予感していたからだと思う。

 仮眠が良い具合に効果を表し体温が徐々に上がり始め、状態の改善はこれからだ、という頃合いに、この建物の出入り口に音もなく立つオジから、「寝ているところ悪いが」と声を掛けられた。


「どうして……」

 ここにいるんですか? という質問は、あまりの驚きで声にすることができなかった。

「聞かせてくれ」

「……はい」言いながら、姿勢はそのままに意識だけ臨戦態勢を整える。

 オジがした質問は、しくも「どうしてここにいる?」という僕がしようとした内容と同じだった。さすが師弟、だとは絶対に思わないように、自分で自分を律する。オジは俺の憎むべき存在だ。理由は何にしろ、僕の命を殺し屋に狙わせた、裏切り者だ。「答えるとでも?」と言う自分の目に、微塵も女々しさがないことを願う。

「ほう……、俺への態度としては不適切だな」

「いいえ。今までが間違ってたんです。自分を作品扱いする人間に対して、恩を感じたり信頼したりする方が明らかに可笑しい。違いますか?」

「違わないな。そうか、やはりあの地下室での会話を聞かれていたわけだ」

「謝るなら少しくらいは考慮しましょう」

「……何をだ」

「お仕置きの重さ」

「調子に乗るな」と言うなりオジの身体が巨大化した。

 いや、オジがまき散らす圧が、彼の身体を何倍にも大きく見せていた。めちゃくちゃ怖えぇ……、と思ってしまう。少しでも気を抜けば、身体が音を立てて震えだしそうなところを堪え、弱気を払拭するために怒りを脳内に解き放った。冷静でいられなくなる寸前に怒りの量を調節する。

「オジさんこそどうしてここに?」と口を動かしながら、ゆっくりと立ち上がる。目はずっとオジを捉えていた。警戒心を剥き出しにしている僕とは異なり、僕を舐め切っているオジは、意識だけでなく身体も臨戦態勢を整えようとする僕を制することなどせずに、それどころか「お前が必死になってどこかに向かっているところを見掛けたからなぁ、ひとつ挨拶でもしてやろうか、と思ったんだ」とご丁寧にも僕の質問に答えてきた。

「それにしても鈍足だったなぁ。ヘイワは駆けっこは教えてくれないのか?」

「ヘイワ? 誰ですかそれ」

「……冗談か? 面白いな」

「へえ、僕が無事巣立ったからオジさんも人間に戻ったんですね。面白いだなんて、前は絶対口にする人じゃなかった」

「無駄な問答は嫌いだ。もう黙ってくれて良い。お前からヘイワの居場所を教えてもらおうと思っていたが、前の従順な操りお人形さんに戻すのに、まずはその反抗的な態度を治すひと手間が必要みたいだ」

 オジは反転して建物から離れた。俗に言う、「表に出ろ」とかいうやつだ。今立っている位置から出入り口までの十二歩の間に、満身創痍だと気付かれないような見掛けをどうにかして取り繕う。

 取り繕う。

 ……取り繕って、どうする?

 これから殺し合いが始まるのだろうが、僕には既に結果が見えていた。相手がオジでは、快眠後にばっちり朝食を摂った三時間後でも、勝てる気がしない。完璧な環境でも勝てないのに、その環境さえも僕に不親切な今では、半分腐っている木の壁を蹴破ってでも逃げた方が良い。逃亡に専念する、が確実に現時点における最良の策だ。それにしたって、この足と体力ではちょっとした延命が叶う、という程度だろうが。

 しかし、脳はオジを追うように身体に指令を出した。その指令に背くことをしない僕の身体も、オジの後を行くことに賛成している。客観的に見て今の僕は、「不正解」だった。オジはもう僕の行動の選択に口出しはしないので、誰に気兼ねすることなく堂々と不正解を選べる。これはある意味、自由、であり、さっきの自分の言い分ではないが、巣立ちかもしれなかった。せいぜい空中で馬鹿みたいに羽ばたいてみせよう。怒りで大半を染めてもまだ残っている冷静な自分が、自らの行動を蛮勇、と名付けた。

 オジは、戸口の死角から襲うような真似はしない。出入り口をくぐって外に出ると、二十歩ほど離れた場所で腕を組んで待っていた。

「さっき梅干しの握り飯を食った。ハイキングをして身体も良い具合に暖まっている。昨夜はまあ、今日の遠足が楽しみで多少睡眠は浅かったが、でも全体のコンディションとしては九割に近い。お前はどうだ?」

「……満身創痍」

「だろうな。そう見える。疲労度を俺に知られているくらいに余裕はないんだろうな、可愛そうに」

「オジさん、本物? 随分と饒舌じょうぜつじゃないですか」

「俺の武器は、拳銃が二丁と、あとこれ」

 言いながらオジはグローブを装着した両手の甲の方をこちらに見せてくる。グローブは指が露出したオープンフィンガーグローブと呼ばれるもので、拳銃を操作しやすいように人差し指だけ特殊な加工を施した、オジお気に入りの特注品だ。

「対してお前は、丸腰。そうだろう?」

「仰せの通りで」

「更に、お前は精神も乱している。俺が怖いか? それとも、俺たち、が怖いか?」

「怖いのもそうですけど、それよりも、ムカついてるんです単純に」

「あぁ、感情が律せていないな。今のお前の不用意な返答で、俺が一人じゃないことをお前は知っている、ということが俺にバレたぞ」

「知ってますよ。百人位で無防備な僕らを取り囲んでは優越感に浸ってるカス野郎だって」

「……満身創痍、丸腰、感情的、全部不正解だ。俺が教えたこと、一つも身になっていないじゃないか。そんなんで俺とやるのか?」

 オジは、一瞬だけ僕が教えを乞うた時のオジになる。いや、オジは変わらずずっと僕を裏切った本性丸出しのオジのままだ。僕が、僕の目が、彼を事実の通りに見ることができていない。オジの指摘通り、僕は今感情を律せていない。怒りで埋めたいのに、どうしてもこれまでの数年間の彼との時間を思い出そうとしてしまう。だが、「少しはやるようになったかと思ったが、完全に失敗作じゃないか。つまらん」と続いたオジの発言のおかげで、ようやく頭が怒りに徹することができた。

「失敗作、って台詞がトリガーなのが我ながら情けないけどね……」と呟き、


 駆けた。

 二十歩の距離を一気に詰める。

 余裕の表情でオジが「それじゃない」と言っているが、既に頭は別のことでぱんぱんで、オジをオジと認識すらしていなかった。

 ……どうする?

 勝つには、

 勝って生き残るには、

 どうしたら良い?

 それだけを考えていた。

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