第23話 マルタの話⑫

 薄い木の板を壁とした時代を大いに錯誤させられる建物の中からでは、屋外の音はそれはもうよく聴こえてくる。どんな素敵な詩人だろうか、と期待してしまう耳を幸せにする口笛の音色は、無粋な引き戸の開く音と同時に現れた中年男性の気色悪い口元から発せられていた。ロマンの欠片も見出せない容姿に俺よりもこじんまりとした体躯たいくで、いわゆる「おっさん」を代表するおっさんだった。先程までの神秘的な口笛が幻聴であることを心より願う。俺の横で立ったままのヘイワは、おっさんをユウサクと紹介した。

「なんだいヘイワさん、クロカワの野郎に続いてまた入村者かと思えば、今度はずいぶんと若いあんちゃんじゃないですか。あぁあぁ、そんな細っこいなりしてちゃすぐに飢え死にするぞこの村じゃ」とユウサクと紹介された男性はしゃべるが、そのだみ声は彼の風貌にとてもよく似合っており、やはり数秒前の口笛は幻聴だと確信した。

 無遠慮に俺を観察するユウサクを不気味な生き物を見る気持ちで観察し返していると、ヘイワが「ユウサクさん、こちらの方は」と言った。言ってすぐ、フリーズした。観察を中断してヘイワを見ると、少しだけ口に隙間を作ったまま困った表情をしている。程なくして「あぁ、失念していました」と話を再開した。

「あなたの名前を決めていませんでした。いやあ、諸々もろもろの手続きを省いて急いで処理を進めてしまったので、細かなところが行き届いていませんね、申し訳ありません」

「名前? いや、俺の名前は……」

 自己紹介をしかけて、ヘイワに手で制される。「クチナシ村に来る前のあなたは死にました。伝説の殺し屋とやらに殺されたんですよ」とヘイワは朗らかに物騒なことを言う。「ちなみに私のことは村長と呼んで下さい」と続けるのを聞くが、わけも分からず「はあ」と頷いていた。そのやり取りを見てユウサクが「なんだいなんだい」と口を挟んでくる。

「もしかしてヘイワさん、昨日シュウからもらった酒の差し入れの対価って、このあんちゃんの世話ってことですか」

「ふふ、そういうことです。第三者を経由しているから第三条の取引法には違反していません。ただ、ユウサクさんが断るのでしたら、私が彼の世話をすることになり、私の貴重な時間を本来の従事者であるユウサクさんから奪われたことになるわけですから、誠に残念ながらこれはもう第二条に……」

「分かった分かった、分かったよ。やるよ」

「ありがとうございます。ユウサクさんなら快く引き受けて下さると思っていました」

「快いよ。快いに決まってますって」

 と、たったこれだけの二人の会話から既にいくつも疑問が生まれた。対価? 第三条? 取引法? というか、俺はもう死んでいる? 理解が追い付かないまま「細っこいあんちゃんよ、まずはさっさと名前を決めろ」と命じられ、その投げやりな言い方が頭にきたから「名前なんて勝手に決めてくれ」と鼻で笑った。相手の容姿に対する嘲笑も含まれていたと思われる。それを察してか、突如、右上方からとてつもない圧を受けた。身体が竦む。

「立場をわきまえなさい。ユウサクさんはこれからお世話になる敬うべきあなたの先輩ですよ」と話すヘイワには、有無を言わさぬ迫力があった。

 思わず首を小刻みに縦に振っていた。可笑しなことに、ほれ見たことか、という表情をしてもよさそうなユウサクですら、その目に微かな緊張を浮かべている。そして可笑しなことに、その状況をつくっているヘイワを、この上なく格好良く思えてきた。憧れ、というやつだろうか。オジとは圧の質が全然違うということだ。

「まあ何だ、……名前は後でゆっくり考えりゃ良いわな細っこいあんちゃんよ」

「…………ホソイ」

「ん?」

「おれ……僕は、僕の名前は、ホソイ、で良いです」

「あぁ……まあそうだな、分かり易いしな。んじゃ下はコオロギだ。ホソイコオロギ」

 何故? という僕とヘイワの声が重なった。

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