第22話 マルタの話⑪

「今日はあれを飲みたい気分です。あの、前に出してくれた……」とだけ言えば事足りた。

 マスターは控えめなお辞儀をし、うやうやしい手運びでカップを出してくれた。カップの中では、飾り気のない澄んだ金色の液体がゆらゆらと天井の明かりを反射している。どうぞ、という一言の代わりに優しい目元と指が綺麗に揃えられた右手のひらが添えられた。「どういうご気分で?」とか、マスターはそういった言葉など口から出さないでいてくれる素敵な紳士だ。

 カップは以前にコンソメスープを入れていたものと同じで、暗めの茶褐色の土を細い金色で継いだものだ。茶褐色を下地にしているのにコンソメスープが金色だとはっきり分かるのはどうしてだろう、というつまらない疑問は、立ち昇る湯気さえ金色に感じさせる濃厚なコクの香りにすっかりに覆われた。

 湯気が鼻に当たり、空っぽの腹が音を立てて摂食せっしょくを促す。スプーンを使わずに一息に飲み干す。丸一日ぶりの栄養分かと思われ、細胞が歓喜している声が聞こえてきそうだった。それもまた、自分が生きていることを実感させられる事に他ならず、美味しい溜息に混じって灰色の嘆息も口から漏れ出る。これまで生きてきた時間が自分のものだと馬鹿みたいに錯覚できていた一昨日以前の自分であれば、素直に美味しいと思えただろうが、錯覚を錯覚だと知ってしまった今の俺にとっては単なる味覚と単なる栄養分だった。

 俺の時間は、俺の身体は、人生は、俺のものではなかった。オジのものだった。そして至高会の、暗躍部隊のものだった。

 空になったカップの底にささやかに刻まれた模様を眺めながら、昨晩のことを思い出す。


 フワは俺のことを「至高会のお抱え」と、そう言った。衝撃を伴う現実は、連動する疑問や合点などを一気に引き連れて、それまで思考とか感情の通り道を頑なに細く絞っていた頭にせきを切ったようになだれ込んできた。

 混乱極まる俺がその後フワとどういった話をして終話したか、混線がひどい記憶領域の不具合により、あまり覚えていない。その時点でフワとの通話時間を無意味に引き延ばす理由はなかったので、そんなに長くは話していなかったと思われる。ただ、どうして自分を殺さなかったのか、というような主旨の質問をフワがしてきたことは覚えている。「可愛い後輩だから」という答えにフワがどういった反応を示したかは覚えていない。

 電話をポケットにしまったことを覚えていないのも、周囲の静寂に気付けないくらい、ずっと、頭の中がやかましかったからだ。オジは、至高会の犬。そして彼に師事する自分も立場は同じ。オジは、それを俺に黙っていた。俺が聞かなかったからか? いや、それを伝えるだけの価値が俺になかっただけということだろう。オジは俺にとって師であり上司であり指揮官だった。だが、彼にとっての俺は、単なる道具、に過ぎなかった。

 現実との直面を避けるために封をしていた地下室での盗み聞きの記憶を呼び起こすと、オジは「手塩に掛けて育ててきた俺の作品」と言及しており、その真意と「単なる道具」とは同義で、更にマルタという自分自身ともイコールであると認めざるを得なかった。

 それからフワの、「目星、付いてんじゃん」という発言は、依頼人が誰かを尋ねる俺がスピッツの名前を出したことに対しての発言だった。このことから、フワも三組の殺し屋同様にスピッツが依頼人であると容易に推察できる。いや、今回の一件がなかったとしても、少し考えれば可笑しいと気付けたはずだ。同業者に命を狙われることなど日常的すぎていて疑問に感じることすらなかったけれど、本来は滅多にないことなのだ。命を狙われる理由などないからだ。俺が殺した対象者の復讐? いや、俺が誰を殺してきたかなど、俺自身と依頼人と、オジしか知らないトップシークレット。先日までの三組の刺客についてはセイメイの復讐という大義名分はあるだろうが、それ以前の、例えばフワなどに命を狙われる理由など、それがオジの教育方針だから、以外の正解はない。それだって到底正気とは思えないものだが、オジならばやりかねない。オジは殺し屋を雇っては俺を殺すよう仕向けたが、それがオジの育て方であり、俺が今までしてきた同業者との戦闘、同業者との命のやり取り、それらは全てただの「実践訓練」だったのだ。

 そう考えれば、三組の殺し屋が俺の居場所を正確に把握していた理由も頷ける。三組の殺し屋はカミナガから聞いた。そのカミナガはオジから聞いた。そしてオジは、俺から聞いた。俺から、「今は家に帰ってる最中です。家だったら戦いやすいので」と、電話口でご丁寧に教えてもらっていた、それだけのこと。ありもしない発信機などいくら探しても無意味だったわけだ。

 そもそももし発信機にて俺の居場所を把握していたとしたらカイロギが俺より先に家にいることなど不自然なことで、そんなことを一瞬も疑問に感じられなかった過去の自分が哀れになるくらいに滑稽である。

 否、俺が俺を哀れむべきは、自分のことを道具としてしか見ていないオジを、心より慕っていたということ。それを、もう、認めるしかない。「手塩に掛けて育ててきた俺の作品」という無味乾燥な発言が、俺の記憶にあるどのオジよりも人間味を帯びていた事実に、戦慄せんりつするしかない。

 言葉が少なく自らに関して決して口にしないオジ。課題の成功時に褒めることはなくミスには厳格なオジ。同じ台詞を二度とは言わないオジ。俺の身を案じて駆け付けるよう言ってくれたオジ。それらのオジは全て、俺が俺にとって都合の良いように解釈をしたオジで、実際のオジとは全然違っていた。明らかに、俺が悪い。都合の良い解釈は、オジからは強要されておらず、だから俺が俺に勝手に騙されていただけで、俺がオジを責めるのは道理ではない。でも、頭か、心か、それともそれ以外の何かがずっと、オジを激しく憎むように仕向けている。それは、コンソメスープの優しい温度が腹に満ちた今でも、改善されることはなかった。

 空になったカップをどれほどの時間凝視していたのか分からないけれど、固まって動かなくなった俺を心配してくれたのか、「おかわり、お注ぎしましょうか?」とマスターは聞いてきた。スープは遠慮し、コーヒーをもらうことにした。「はあ……。美味い」という溜息は、焼石みたいな灼熱の感情にコーヒーを浴びせて瞬時に気化した水蒸気だ。漏れるように身体の色々から抜けていく。


「ここのコーヒーには魔力がありますね」

「そうですか? 恐れ入ります」

「どうしたらこんなコーヒーになるのかな。……豆ですか? それとも淹れ方?」

「両方でしょうか。でもその他にもう一つ、魔力があるとしたらきっとそれでしょう」

「へえ……なんだろう。カップ? 値段?」

「なるほど、広義であればそれも正解です。つまり、飲む人の価値観、ということですね。美味しいと思えば美味しいし、その逆もまた然り。……ふふ、ご納得いただいておられないご様子。こういった精神論はおいやですか?」

「あ、いやあ……凄い答えを期待しちゃってたんで、え? って感じはありますけど、まあでも確かに間違いではないと思います」

「とはいえ、豆も淹れ方もスープのレシピなどもみんなこのお店のマスターの意匠ですから、それをなぞっているだけの私が偉そうに言うのも気恥ずかしいことですけれど」

「ん? マスターがこの店のマスターでは?」

「いえ、私は単なる雇われの非常勤です。マスターは別におりますよ。あぁそう、マルタさんもマスターにはお会いしていますよ。少し前の事ですが、丁度そちらの席にマスターが座っていらした時に、マルタさんの方からタシロさんがどうとかお声掛けされていたのを覚えておいでですか? あの方です」

「ああぁ……そうだったんだ。でもマスターしかマスターをやってるところ見たことないですけどねえ……あれ、日本語おかしい? 言ってること分かりますか?」

「大丈夫ですよ。……非常勤と言ってもほとんどの日は私がこちらに立たせていただいておりますので、他のお客様も本当のマスターをご存じない方は少なくないと思います」

「殺しの依頼が入った時に本当のマスターがそちらに立つ、ってことですか?」

 伝説の殺し屋ヘイワさん。と、付け足す。

 対面するマスター、もといヘイワは、目線を下方に傾け、少し困ったような表情で「私は」と口を開いた。

「私は……、殺しなど致しません」

「へえ、そりゃ驚いた」と、自分の声とは思えないくらいに抑揚がない驚きの表明だ。それに続く「伝説の殺し屋、ってみんなに呼ばれていますよね」もいたって冷静な口調で、それに呼応してか、「周囲が私をどう呼ぶかに私の意思はありません。ただ、ヘイワと呼ばれれば返事します」というヘイワの弁明も淡々としたものだった。

「……そうですか」と、五百円硬貨くらいの大きさに残った底のコーヒーを啜る。この上なく丁寧に、カップをソーサーに置いた。

 ずっと探していたヘイワをこの目で捉えたとしたならば、昨日までの俺ならこんなに静かな心境ではいられなかっただろう。それは自分から父親を奪った張本人に対して、父の生死、せいならばその行方、死ならそうなった経緯や理由、殺害方法、最期の父の姿、そんな多くの質したいことと、それにより最終的に成形される自分の意思に向けての下拵したごしらえに意識と無意識が騒然となるからだ。

 でも今はそうはならない。何故ならば、空になったカップの底に、小さく銘が打たれているからだ。銘は、絵画作品で言うところのサインと同じ意味合いで、俺の父親を示す銘だった。ヘイワなんてどうだって良いとさえ思えるのは、ヘイワに問い質すより早く、父が生きていることを知ったからだ。

 ただ、実際には、父の事すらどうでも良い、とさえ感じているのだが、それはまた別の話である。


 ヘイワは以前、「今も定期的にこの作家さんから仕入れているんです」と言ったことがあった。その時はこのカップがまさか自分の父親の作品だとは思いもよらなかった。父の作風が金継ぎを特徴とするものだと知らなかったからだ。俺の中の父の作品とは、父が失踪した際に受け取った段ボール箱に収まったたった一つの作品が全てであって、それはおそらく、父にとって唯一の「金継ぎを施していない」作品だった。いや、あくまで予想だが、遺品は未完成だったのかもしれない。結局は俺の爆破によってその作品も割れてバラバラになってしまったが。ただ、爆破で割れたからこそ、その破片がカフェで見た金継ぎの一片一片の形状に似ていると気付くことができ、子供の頃にもらった作品集の表紙をめくるきっかけになり、最終的にカフェのカップの底のデザインの意味を知ることができた。作品集に掲載されている父のどの作品にも、目の前に置かれている二つのカップと同じく、底に小さく銘が入っていた。

「俺、タマル……、リキヤって言います。マエゾノケンジロウの息子です」と言うと、ヘイワは「……なんと」と小さく驚いた。

「リキヤさんのご子息。……大きくなられた」

「え? いや、リキヤは俺の名前で、父の名前はケンジロウです」

「ふふ……そうでしたね。しかしこれはとても面白い。あぁいえ申し訳ありません、お察しの通り、あなたのお父様は生きています」

 ヘイワはそこで焦れるくらいにゆっくりとまばたきを挟んだ。紳士然とした印象をそのままに、でもなぞなぞの答えを明かす小学生のような愉快気を目元で表している。俺はと言えば、冷めた気持ちでヘイワの続きを待っていた。

「この世界では伝説の殺し屋とやらに殺されたことにしていますが、……えぇとこれを私の口から言うのはルール違反でしょうけれど、あなたのお父様は、彼ご本人の希望で、リキヤ、と改名して表社会とは隔離された場所で暮らしておいでです。……ああ、なるほど。このカップの銘でお気付きになられたのですね。今も陶芸家ですよ」

 そう話をしてくれたヘイワにお返しをしようと考え、俺は「あることがあってこの店で使われている食器が父の作品であると知りました」と静かに話し始めた。「でも父は俺が子供の頃に死んだんです。だから、死んだはずの父の作品を今でも定期的に仕入れていると言ったマスターの言葉がおかしい、って気付きました。実は俺、一度だって父が死んだとは信じていなくて、失踪したって思ってたんですが、どっちにしても、父がいなくなった真相を探る途中でどうやらヘイワって殺し屋が深く関係しているって分かり、あなたをずっと探してたんです。で、前にここでタシロって名前を口にしちゃったことがあって、店内にいたマスターと本当のマスターのいる方向から一瞬だけ視線を感じました。あの時はここに座っていたお爺さんがプロの殺し屋かと予想したんですが、でもその人は、……ここの本当のマスターだった、んですよね? そんなことを知らない俺は、でもまあこんな綺麗な目をした殺し屋なんていない、って思ったわけで、だからお爺さんを一般人と思ったんです。それで……、えっと……」

「現在も定期的に作品を仕入れている、という私の発言が時間差でヒントになり、リキヤさんと関係の深い殺し屋であるヘイワが私であると考えた、というところでしょうか」

「包み隠さず言ってしまえば、そこまで理論的じゃなかったかな。……半分は勘です。外れても、もう誰がヘイワかだなんてどうだって良い、って思ってましたしね」

 そして口には出さないが、目の前のヘイワに対して冷静でいられる理由はもう一つある。もう、疲れたのだ。父の生死、父の行方、ヘイワの正体、とにかく長い間追い求めていたものは、当然俺の人生の上に成立していることであり、その人生の多くを占めていたオジが突然憎悪の対象となってしまって、精神をやられていた。ヘイワの口から父の生存を知らされた時ですら、自分でも驚くほどに気持ちが固く動かなかった。まさに今も、俺の表情には、本来ならあって然るべき歓喜の色はないだろう。

 ヘイワと俺の他に誰もいない店内で、暖かいのか冷たいのかはっきりとしない静かな空気の中で、いつものマスターと変わらない柔らかで朗らかな物腰の、ヘイワは言った。

「幸せな村があります」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る