第16話 マルタの話⑥
あまり正規の雰囲気を感じられない事務所には『ガタ探偵事務所』の看板が掲げられていた。
驚くべきは、事務所に入ったすぐの受付と思しき小部屋の壁に『探偵業届出証明書』が掲示されているということだ。正規の雰囲気を感じられない探偵事務所は、きちんと正規だった。
事務所の代表はオガタと名乗った。バランスの取れた体格と重心がブレない綺麗な歩き方は、無駄に白い歯と相まって、トライアスロンとか趣味でやっていそうな爽やかな印象をまき散らしている。ここの外観から想像していたイメージを裏切ったのは、証明書の存在よりもオガタの出で立ちであることは言うまでもない。今にも「ハロー」とか言い出しそうだ。あのカミナガが本当にタシロの調査をこんなところに依頼したのだろうか。もっとこう、ダークな探偵を想像していただけに、雑居ビルの外観を見たときの「ここだ!」という感覚との落差が激しかった。
恋人候補の女性の身辺調査の相談に来た、という嘘を用意してまでここに入り込んだのに無駄足だったかもしれないな、と少しずつ不安になっていた。が、結果から言えば、カミナガが至高会という企業の幹部であることとその至高会についていくつか知ることができた。
さすがに証明書を取得している普通の事務所だけあって個人の詳しい情報は馬鹿正直に教えてはくれなかったが、そもそもカミナガ本人がこの事務所に足を運んだわけではなく、それがかえって都合が良かった。カミナガも至高会も直接の顧客ではない、という条件のおかげでオガタの職業倫理の働きが抑制され、噂話としてならいくつか聞くことができたからだ。
カミナガの部下だと思われるが、タシロの調査依頼をしに来た人物についてはオガタはその名前すら口を割らず、タシロについては聞けば怪しまれる恐れもあって、それらについては情報ゼロだ。ともあれ、知り得た至高会についてだけでも充分な収穫だ。
「まずは友達としてお近付きになってみて、恋人になる展開になったらまた来てみます」
「そうそうそれが一番! 話したこともない女性が恋人候補だって言われた時には正直お客さんにストーカーであることをどう気付かせてあげるか悩んだけど、ちゃんと正気の人で良かった良かった」
「え、恋に落ちた瞬間から人って正気じゃなくなるのでは?」
「まあ、そういう古風な考えは好きだよ。でも一般受けはしないだろうから気を付けてね」
最後にオガタは「ABCの順番は守った方が無難だよ、頑張れ!」と事務所の出入り口までご丁寧に見送りに立ちながら無邪気にエールを贈ってくれたが、ABCの順番、が何を意味するかは分からなかった。
ガタ探偵事務所を出発して適当に車を走らせ、目に付いた牛丼のチェーン店に入った。少し早い昼食にしながら、インターネットで至高会までの道順を検索した。関東、関西、東北地方の主要都市に一件ずつ営業所はあるようだが、本社がここからは最も近い距離にあり、高速道路を活用しない方が早く到着するような地理条件である。
聞いたところによると、至高会は、簡単に言えばベンチャーキャピタル。もしくは出資もする経営コンサルタント会社、ということだった。
未上場の新興の企業や学生などの事業計画を見て成長が見込めそうな箇所に資金を落とし、その事業が成功を収めるか一定水準以上に成長して上場した時に株式売却益を得るのが表向きだ。もともとは、現在代表を務めるアザミという人物が学生時代に仲間内のみで興した単なるデイトレーダー集団だったようで、でも多種多様な専門分野に首を突っ込んでは学習を重ねていくアザミの個性が熟成されるにつれ、彼個人が異分野間のシナジー役として有名になっていった。次第に各分野の実力者たちがアザミの元に集まるようになっていき、精度の高さと異業種とのコンタクトを売りにしたコンサルタントを目玉商品として今の至高会が設立された。至高会が業界で著名になることで、投資を受けた側も至高会のネームバリューによって金融機関からの融資を受け易くなるという付加価値も生まれ、顧客も自然と多く集まるようになっている。
しかし、全くの純粋に、人一人の才能だけで、一つの企業が勝ち続けることは難しい。その成功には必ず裏側が存在する。それは例えば、一般論だが、たゆまぬ努力だったり、革新的で継続的な新技術の発明、だったり、法律の網を巧みに潜り抜けた違法すれすれの裏技的合法手段だったり。至高会の場合はそれが、カミナガが幹部を務める非公表の後ろ暗い組織の保有ということ。オガタはその組織を、暗躍部隊と呼んでいた。
至高会の暗躍部隊は、表側事業の維持と発展を低リスク且つ高効率で行うことを目的とし、暗躍などと物騒なフレーズが
インターネットやテレビ、新聞、雑誌などの各種メディアを使ったネガティブキャンペーンで競争相手をつぶす、などはまだぬるい部類で、競争相手の社内の有望人材や管理職をかなり乱暴なやり口で退場させるとのこと。この退場がヘッドハントや濡れ衣を着せて刑務所送りにするくらいならば可愛げがあるが、薬漬けや監禁、どこか遠くの危険な国へ強制的に一人旅をさせたりもあり、オガタは声を落として「殺しとかも……」とも言っていた。
これらの噂話は、ある程度暗い生き方を知る人種たちからすれば割と有名な話のようだが、それでも普通ならば、あくまで噂だ、と一笑に付すところだ。俺は実際にカミナガから殺しの依頼を受けているので、オガタの言葉に驚いてみせたのは演技ということになる。殺しすら事実ならば、オガタから聞いた裏側の噂話はそのほとんどに信ぴょう性があると言えるかもしれなかった。
牛丼を胃袋に収めたら至高会の本社へ向かおうと決めていた。インターネットで公開されている住所なのでカミナガにつながっている確率は少なかったが、今は細い糸を手繰り寄せることしかできない。せめて糸が切れないように丁寧に、でも時間も限られているので迅速に。行動の選択を誤れば、今夜のカミナガへの報告が修羅場になる可能性だってある。
正直なところ自分の選択が正しいか不安だった。オジの「一人でやれ」の命令に反するが、事態が事態だったので、至高会のホームページの表示を消してオジを呼び出してみた。しかし、オジは電話に出ない。苛立ちと心配と落胆と安堵が程よくブレンドされた溜息を吐きながら携帯電話をテーブルに戻すと同時に、今度は電話がかかってきた。
オジからの折り返しかと思って表示も見ずに電話に出ると、「まだ生きてたぁ」というあっけらかんとした聞き慣れない声がした。声の主は、「義理はないけどさ、一応忠告しておこうと思って電話してやったよ」とも言った。
「……えっと、どなた様?」
「どなた様って何、冷たいな。スズキだよスズキ」
「……えっと、どのスズキ様?」
「あ、しまった。本名で名乗ったことなかったんだった。ごめん今のなし。……ほら俺だよ、半年くらい前に一緒に仕事した鬼瓦だよ」
「鬼瓦……? あぁ赤っ鼻か。俺をターゲットと間違えちゃったお茶目な赤っ鼻。何か用?」
「悪口? ねえそれ悪口? ……良いのかなぁ折角人が親切に電話してやってるってのに」
「ごめんごめん。……で、何?」
「態度も悪いな。でも許す。俺は余命いくばくもない人間には優しいんだ」
「だから何だっての」
「マルタさぁ、不味いやつに命狙われてるよ」
「なんだ、そんなの今更だよ。最近だってフワって若者とセイメイって素人を返り討ちにしたし。その二人のどっちかのこと?」
「そんな奴ら知らん。俺が知ってるのは、アザミって人だ」
「アザミ……。それって、至高会の社長の名前じゃ?」
「あれ、知ってるんだ。ビジネス雑誌も読むようにしたの?」
「アザミ……カミナガって奴じゃなくて?」
「へえ、その名前も知ってるんだ。ってことは至高会のダークサイドも知ってるってことだよね。なら話は早い。確かにマルタの殺しを依頼してきたのはそのカミナガってやつだ」
レジで牛丼の代金を支払いながら「今夜まで待てないってか……」と舌を打つ。しかしその後に「社長に相当恨まれてるみたいだけどさ、お前何したの?」と聞かれ、え、と思った。
「アザミに? そんな大物がどうして俺なんか……。カミナガには仕事の進捗が悪くて殺されちゃうかもって思ってたんだけど、堅気では大人しくしてるつもりだし、はっきり言って身に覚えがないなぁ」と言いながら、カミナガの短気に呆れていた。今夜まで待たずに俺を消そうとするとは……。わざわざアザミが俺を恨んでいるなどとでっち上げるのは合点がいかないが。
ただまあ、一生懸命タシロを探していたこれまでの努力が無意味になったのは残念だけれど、ある意味では気が楽になったとも言える。タシロ探しでこの先も努力をする必要がなくなったからだ。
「何それ。仕事の進捗が悪いってだけで人一人を殺すはずないって」という鬼瓦の能天気な突っ込みには丁寧に反論をする気にもなれなかった。
「オーダーを受けたのは俺の連れだからカミナガが実際にどう言ったか分からないけど、でもアザミの命令で間違いないみたいだよ。それより思い出したんだけどさ、マルタさっき、セイメイ、って言わなかった?」
どうして今のタイミングでセイメイの名前が出てくるのか
「セイメイって、生まれるに明るいで、セイメイって読んでるでしょ? 学がまだまだ足らないマルタ君に教えてあげるけどさ、それって、アザミって読むんだよ」
「…………あれま」
「はいはい、一つの謎が解明したね。じゃ、教えた代わりに俺の願いを聞いてもらおうかな」
「……学のあるスズキさんに大人しく殺されてくれないか、とか?」
「あぁそれも良いな。でもどうせノーでしょ? っていうかスズキは忘れて。違くて、あのさ、悪いんだけど俺の連れが請けちゃってさ、今度マルタん所に殺しに行くと思うんだよね」
「遊びに行くと思うんだよね、と同じ言い方……」
「そん時さ、見逃してくれないかな。半殺し位までだったらしても良いからさ。あ、でも後遺症が残るようなやつは勘弁ね」
「お前も一緒に俺を狙えば良いじゃんか。連れなんでしょ?」
「俺が? マルタを? 無理だよ。俺が十人束になっても敵いっこない」
鬼瓦が十人束になったら絶対に俺の方が逃げる。無駄に暑苦しい巨体が、赤鼻で太い眉の同じ顔で複数体も迫ってきたら、それはもう誰でも逃げる。
はじめはお節介と思っていた鬼瓦からの電話だったが、セイメイの正体と自分がとるべき行動をはっきりさせてくれたことには感謝だったので、連れの特徴とシャチホコという呼び名を聞いて、彼の願いを聞き入れる了承の返事とした。「んじゃもし誰かに殺されることがあったらなるべくシャチホコに手柄やってくれなぁ」と、最後まで軽い口調の鬼瓦に、「スズキは俺の分まで長生きしてね」と言って電話を切る。
自分がとるべき行動をとるため、至高会に向かう予定をキャンセルし、帰宅する方向へハンドルを回す。イヤホンマイクを耳にはめ、オジに電話をかけた。鬼瓦との通話中に着信があったので、その折り返しだ。「一人でやれ」の命令を無視したことに対してまずは訓示があると覚悟したが、電話に出たオジはいつものように無言だった。元はこちらからの電話だったので、俺が用件を話すまではオジは待機モードとなる。礼儀礼節を重んじているわけではないけれど、ここは筋かと感じ、「一人でやれって言われてたのに電話なんてしてすみませんでした」と自ら謝罪する。それに対してもまだオジは待機モードのままだったので、続けて用件を話すことにした。
「オジさん、もう一つ謝らなきゃなんですが、ちょっとしくじっちゃったみたいで、カミナガから命を狙われる側になっちゃいました」
「……それで?」
久しぶりに聞くオジの声は、何となく、いつにも増して冷たく感じる。オジが言葉に感情を乗せるなんて器用な真似ができるとは思えないので、冷たいと感じるのは、謝罪したい自分の心理を介して聞いているからだろう。喉が縮まるのをどうにか堪える。
「昨日のことですが、俺、尾行をされてまして。それがカミナガの会社の社長の息子だか孫だかだったみたいで、そんなこと知らないから拘束しちゃったんです。あげくは拷問みたいな真似までやっちゃいました。しかも、その後警察に渡しちゃったっぽくて、それでその社長の怒りを買ってしまい……。あの、もしかしたらオジさんにも迷惑が掛かるかもしれないんです」
「今どこにいる?」
「今は家に帰ってる最中です。家だったら戦いやすいので」それに、どうせ場所は割れているだろうから、逃げ疲れるより返り討ちにした同業者たちを片っ端から締め上げてカミナガの居場所を聞く方が得策と考えたからでもある。
分かった、の一言で電話が終わると思ったが、予想に反してオジは電話を切らず、「俺が着くまで無茶はするな」と言ってきた。これには面食らう。あのオジが、まるで人間みたいに他人を心配するような発言をするからだ。声は間違いなくオジだが、それを疑うくらいに驚いた。「すみません」と自分では返事したつもりだったが、きちんと発声できていただろうか。できていなかったとしても、既に電話は切れていた。この辺はいつものオジで、思わず吹き出した。
オジの人間味は俺の死亡の予兆かもしれないな。と、他人事みたいにやけに冷めた感情で自分の将来が危うくなっている状況を眺めていた。これまで多くの命を奪ってきた自分が、自身の命の危険の時にだけ慌てふためくのは道理ではない、と感じ、それで冷めているものと思われる。それに、普段の仕事をしながら常に死の存在を傍らに置いていたし、この業界で生きようと決めた瞬間から心の準備も済んでいた。
「結局ヘイワには会えずじまいかぁ……」という小声で、車内の空気が少しだけ揺れた。
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