第13話 マルタの話③
「お前が決めろ」とオジは言って、いつものようにこちらの返答を聞くこともなく電話を切った。「やるよ」という返事がたとえ即答であっても、既にオジの耳には届かない。
一件の仕事と一件の余計な厄介払いを済ませ、明日は絶対に休んでやる、と意気込んで昨日は公園からの帰り道に書店で本を五冊も買っていた。以前より気になっていたミステリーの新刊三冊と好きな作家の絵本が一冊、それから高校生向けの数学の参考書。最後の一冊は単なる俺の趣味だ。一瞬たりとも家を出なくて良いように、コンビニでおよそ三食分とは言えない量のカップ麺や弁当やスナック菓子を買い込んでいたのに、朝早くにオジに起こされた。
夏至は二カ月先だとしても日の出は早くなってきていて、それでもまだ太陽の気配すら感じられない時間帯。オジに言わせれば、それはもう朝なのだ。そんな朝にオジから電話があり、前回と同じカフェに行くように言われた。カフェ、である。俺の眠りを妨げ俺の休日を台無しにする仕事とはどんな緊急事案なのかと思えば、カフェを打ち合わせ場所に指定できる程度の顧客ということで、かなりの高確率で安い仕事になると思われた。
ぐっすりと寝直してから起床してもまだ七時ちょっと過ぎである。これが俺にとっての朝だった。
昼、カフェに到着する。今週で二度目だ。頻度としては、平均と比べて多いと言える。殺し屋稼業には
駐車場に車を入れると、これぞまさに、という雰囲気を醸している黒塗りの高級車が一台停められていた。オジと顧客とではオジの方が立場が優位、と勝手に思い込んでいたが、予想は外れだろうか。オジの自転車はなかったが、今回はできれば同席してもらいたかった。顧客がヤクザ関係とかだったらまだ良いが、どっかの企業のお偉いさんとかだと何となく気後れしてしまって上手く話ができないことがあり、苦手意識を持っている。相手が人間である場合、殺すことよりも会話をすることの方が断然難しい。
普段よりもたっぷりと時間をかけて階段を上りながら、手のひらに「人」の字を書いて飲み込んだ。
店内には、しかしオジはいた。今回の顧客と思われる男性一名と、店の一番奥でテーブルを挟んで座っている。その他には、出入り口の正面にあるカウンター席に一名、やけに色素の薄い初老くらいの男性が座っていた。薄いのは、髪の色と少しだけ見えるうなじの肌色と、上下のスーツだ。マスターも合わせれば、合計五名の店内を、オジに向かって歩く。オジは後頭部しか見えない。先日学習したビジネスマナーの上では、顧客は上座、つまりオジよりも立場が上となる。殺し屋業界に上座下座の概念が通用すればの話だが。
「毎度どうも」とオジの横に立って声を掛けると、「……座れ」と、いつものようにオジからの暖かな歓迎を受ける。こちらを見上げることすらしない。促されるまま座るが、入店してから終始鋭い眼光で熱烈に見つめてくる顧客と視線を交わさざるを得なくなるため、意思が座ることに対して少しだけ難色を示してはいた。
オジが俺を指して「……マルタです」と言い、俺の方へ首を向けて「……カミナガさんだ」と耳打ちをした。先日学習したビジネスマナーでは、ここで互いが改めて自己紹介をしたり、名刺の交換をしたりするのだが、それはない。一応俺だけが「マルタです」と言った。
「オジさんよ、ごねるつもりはねえんだけど……」
「いつもみんな最初はがっかりするんです。でも最後はきちんと満足してくれますよ」
「……おかしいな。なあオジさん、俺今この若僧に発言を許可したか?」
「マルタ、黙ってろ」
これだけで、オジとカミナガとの優位性が明らかになる。黙るの得意なんですよぅ、というジョークがジョークとして扱われる気がしなかったので、大人しく自重することにした。
「まあ良いや。あんだけ名をはせたスピッツがおススメする奴なんだからそれなりにやる奴なんだろう。百パーセントの後払いで、失敗したら楽しい楽しいお仕置き付き、ってんなら、報酬はさっき言った額から一円だって値切らねえよ。どうだ?」
「…………どうだ?」
カミナガはオジに、オジは俺に言った。イージーモードの伝言ゲームだろうか。オジの質問に対しては、黒目を上にして首を軽く左右に揺らす、というジェスチャーで返答する。意味は、「しゃべっちゃ駄目なんでしょ?」が花丸で「なんのこっちゃ」が三角だ。伝言ゲームに比べれば、ちょっとだけ難しかったかもしれない。でもオジは俺のファニーなクイズなど完全に無視し、代わりに彼の前に置いてあった封筒をこちらに滑らせた。中身をあらためる。
写真と、どこかの探偵事務所の名前が紙面下部に薄く印字されたもの。そこには対象者についての情報がまとめられていた。報告書というやつだ。よく見ると封筒にも同じ印字がされている。探偵からの提出物をそのまま持参したようだ。報告書の一枚目に目を落とす。
「……タシロ」と、つい報告書に記載された今回の対象者の氏名を音読してしまった。
対象者の氏名を、音読、してしまった。
目の前に風を感じ、次の瞬間、店内の天井の木が
どうやらオジからお叱りを受けたようだ。後ろに折れた首を起こすと、目の前にちりちりと火花が遊んでいた。相変わらず幽霊みたいに動きが見えない人だ。これだけの至近距離だとはいえ、それなりに周囲に気を張り巡らす技術を磨いてきた俺が、しまった、と思う間も与えてもらえずに裏拳のクリーンヒットを喰らっていた。もっとも、分かっていてもそれを避ける度胸など俺にはないけれど。もしお仕置きを避けてしまったら、二人きりになってからの「教育」が追加され、そっちの方が何倍も怖い。
遅れて鼻血が垂れてくるだろうから、二人に失礼してテーブル奥に置かれている紙ナプキンを束で取る。その俺の顔を覗き込んで高笑いするカミナガに、「……すみません。きちんと教育しておきます」とオジは静かに頭を下げた。偶然だと思うが、一瞬前に思った「教育」という単語をオジの口から聞いて、身体が少しだけ縮む。
昨日オジに苦情を申し立てた情報漏洩を、今まさに、自分がしてしまった。それに対する「教育」だ。たとえ空気みたいなマスターと客一名のみの空間だとしても、パブリックな場所であることには変わりはない。そんなところで、歴とした秘密に分類される顧客が提示する対象者の名前を口にしてしまうなど、最もやってはならない行為の一つだ。先程の自分は、言葉通り、口が滑ったわけで、とはいえ、
「申し訳ありません」
「あぁ若いの、後でこの人に礼を言った方が良いな。先にやられちまったから、俺がお前を仕置きできなくなったんだ」
あっはっは、と
一瞬で消えた視線の真意をあれこれ予想していても
その後、タシロをどれだけ殺したがっているか、いつまでに殺してほしいか、実は別の同業者にも同じ依頼を出している、など、危険があるはずがないと高を括って油断し放題のカミナガが大声で打ち合わせを進めた。さすがのオジも、顧客には裏拳を飛ばさない。腹の中では俺と同じく呆れかえっていることだろうが、これについてはカミナガがいなくなってオジと二人きりになったとしても確かめることはできないだろう。そろそろ話も終わろうかというところで、オジが「別の業者とは?」と尋ねた。少しだけ場がしんとなり、自分が質問をされていると気付いたカミナガが口を開く。
「な、なんだよ。ダブルブッキングが規約違反だったりするのかよ。言っとくが、お宅ら殺し屋業界の暗黙のルールなんか俺は知らされてねえぞ」と、何となく慌てた様子に見えなくもなかったが、カミナガはあくまで不遜な態度を貫いた。
殺し屋の業界にはカミナガが言うような暗黙のルールなどはない。オジの質問はただの事務的な確認である。ただ、予め知っておくべき情報なので、もしオジが質問をしなければ俺がしていたところだ。
同業者同士が協力体制をとることは滅多にないが、互いに邪魔をして本来の目的を果たせないという最低の失敗を避けるための措置として、並行して動いている同業者がいる場合は前もって互いに連絡を取り合うこともある。牽制、という色合いが強くもあるが。何しろ獲物を横取りされた場合は実入りがなくなると共に、業界内のランク付けに差し障りが出るからだ。
「誰かは言わねえけどな、お宅らの業界ではかなりのビッグネームらしいぞ。まあ俺は実力主義だから、依頼をしてから何日も経ってるのに成果を上げねえやつなんぞ全員カスだがな」あ、そうそう、と思い出したようにカミナガは「しくじったら殺すから」と付け足した。この発言だけ俺の目を見ており、脅すには不適切なにやけた表情だったので、これも嗜虐の一環だと思われる。
カミナガのこれまでの話から、オジはこの仕事を断るだろうと予想できた。カミナガの言うビッグネームが誰かは分からないが、殺し屋をかわせるだけの能力がタシロにあり、それがどういったものか不明で、それ故、顧客の期日的な要望を叶えられる保証はない。にも関わらず、最後のカミナガの脅しがどこまで本気か分からないが、それを抜きにしても失敗した時のリスクが成功報酬と釣り合っていないからだ。個人的にはそこに、カミナガの態度が気に入らない、が足されるが、オジは顧客を信用できるかどうかで検討することはあっても好き嫌いの感情は優先しない。何にしても、交渉の「こ」の字も感じられないカミナガが提示する受注条件であれば、オジに限らず、どの殺し屋もやるなんて言わないだろう。
でも、「やるよ」と「やります」が重なった。
俺はオジを、オジは俺を、互いに意外に思ったのだろう。二人ともカミナガの方を見ているが、双方が双方の意図を探るように妙な気配を漂わせ始める。
断る理由しか見出せないこの仕事を「やるよ」と答えるに至った俺の思考は、カミナガが発したビッグネームという単語によって、半ば強制的に決定づけられていた。殺し屋業界内でビッグネームと形容できる存在など限られている。俺の人生における最優先事項であるヘイワは、紛れもなくその一人だ。今すぐにでもカミナガを絞め上げてヘイワかどうかを確かめたいところだけれど、そんな狂った欲求が頭をよぎるくらいに視野が狭くなっていることを自覚する。タシロを追いながらビッグネームの正体も探り、それがヘイワじゃなかった時には、その時にカミナガを絞め上げれば良い。但しその場合の締め上げる動機は、憂さを晴らすなんて非建設的なものだったりするわけだが。いずれにしても、目的地に続いているかもしれない道は全て踏破するしかなく、現段階ではヘイワの存在を匂わせてくれたカミナガに感謝すらしていた。
一方、オジが「やります」と言ったのはどういった了見からだろうか。
言葉が少ないので勘頼りだったが、オジは俺がヘイワを追うことを快く思っていないような節がある。能動的にヘイワに関して言及しなかったり探す助力をしてくれないから、というだけでなく、何となくだけれど、そしてこれは俺の無意味な憶測だけれど、俺の身を案じているように見えなくもない。カミナガのビッグネームという発言から間違いなくオジもヘイワを連想しているだろうから、そういった側面もあって、オジは断ると思っていた。それに、今朝の電話でもそうだったが、やるかやらないかの最終的な決断をはじめは俺にゆだねていたはずなのに、一転して自身で請け負う意思表示をしている。それも変と言えば変だった。オジはどの時点で判断を切り替えたのだろうか。
そんな俺の困惑などお構いなしに、カミナガは腹を抱えて笑っていた。俺とオジを
何はともあれ、契約は締結された。オジとカミナガは俺を残して一緒に店を出て行った。
頬杖をつきくしゃくしゃに丸められた真っ赤な紙ナプキンだけが転がっているテーブルを眺めていると、焦点からわずかにそれた左側の古めかしくて格好いい窓枠の外に、黒塗りの高級車が横切って行くのが分かった。心の準備をしていなかったから見逃したが、助手席にも人が乗っていたように思える。カミナガと、オジだろう。そういえばあの二人の関係は何だったのだろうか。オジが来店する際にはいつも店先に停められているはずの彼の自転車がなかったのは、カミナガの運転する車に同乗してか、オジが運転手となってここまで来たということだ。打ち合わせでの会話から二人が初対面ではないことは分かっていた。オジの現役の頃のスピッツという呼び名を知っていたことから、カミナガとは以前から顧客と業者の関係でもあったのだろうか。
もしかするとその時からこのカフェを使っていたのかもしれない。だからカミナガの方が優位なのに打ち合わせを指定できたのか。いや、それだったらカミナガがここを指定してきたと考える方が妥当か。でもまあ、あまりオジを詮索するのも気が引けるので、これ以上は考えないことにした。
席を立ち、振り返る。初老の客が座るカウンターへ移動した。数歩の間に、頭で人の字を三回書いて飲む。緊張は表には出ていないはずだ。見慣れたマスターに視線をやり、目を合わせ、自然体を意識して「お願いします」とだけ言った。
カフェなのに、店なのに、何も頼まない客もいれば、頼まれないと水も出さない空気みたいなマスターもいて、だから、経済を回すために注文した、のではなく、気分を落ち着かせたいという純粋な理由でコーヒーを飲みたかった。だが、たっぷりと時間をかけてマスターが出してくれたのは、コーヒーではなかった。立ち昇る白い湯気から匂う香ばしさが、深くて渋いものではなくどこか甘ったるいコクのようなもので、それにカップもいつものよりもやや大きい。この店のトータルコーディネートなのか、コーヒーカップと同じような細くて金色の線が茶褐色の下地にひびのように走っているデザインだ。スプーンも一緒に出され、それに従って中の液体を
「コンソメスープです」とマスターは言った。
俺が一口を躊躇していたのを見かねての説明かもしれない。それならコーヒーではなくスープを出した理由を説明してほしいと感じたけれど、スプーンの液体を舌にのせた瞬間にそんな生意気な反論を思い浮かべてしまった自分を恥じた。コンソメスープ、と言われた上で味わっても、予想できない美味しさだった。食道を通って腹に落ちる感覚までスープは優しく、鼻と、舌と、腹と心に、まるで液状のご褒美だ。「お疲れのご様子でしたから」と、遅れて説明を加えるマスターに、とても美味しい、という笑顔を向けた。
「確かに、最近なんだか色々と疲れてたんですよ。後輩には裏切られるし、上司は怖いし、お客さんは偉そうだし」と愚痴を吐きながら、なんだか普通のサラリーマンみたいなこと言ってるな俺……、などとちょっとだけ可笑しくなった。
スプーンではじれったくなり、カップを持ち上げて一息にスープを飲み干した。愚痴ったことで自分の気分がささくれ立っていたことを認めることができたし、それも美味しいスープで一旦リセットできた気がするので、マスターのチョイスには感謝しなくてはならないな、と考えていたら、「そのカップ、素敵ですよね」と頭頂部に声が当たる。マスターには俺がまじまじとカップを眺めているように見えたようで、「今も定期的にこの作家さんから仕入れているんです」と言葉を続けてきた。見方によってはおかわりを迷いつつも一生懸命我慢する子供みたいに見られかねない自分の行動が恥ずかしくなり、何の感想もなかったカップを、さも楽しんでいましたというように目線の高さで回し始めて「金色の線から目が離せないですね」などと心にもないことを言ってみたりもする。カップの底に小さく模様の様なものが彫られているが、これについて触れるのが正しいかどうかも分からず、自分の芸術への理解のなさに泣きたくなってくる。
「金継ぎ、という技術です。本来は陶磁器の破損やひびなどを修復するものだそうですが、この作家さんは焼き上げたものをわざと割ってその姿に仕上げているみたいですよ」
「へえ、金継ぎ……」マスターの説明を聞きながらそれらしく見ていると、どういうわけだか本当に目が離せない気持ちにもなっていた。それを気味悪く感じ、慌ててカップを置いて目線を上げる。そして気持ちを切り替え、コーヒーを注文した。
コンソメスープが心に平穏をもたらすものだとすると、コーヒーは喝を入れてくれるものだ。つまり、この場所に座った本来の目的を果たそう、と気を引き締めることにした。
オジから裏拳を見舞われた原因の俺の「タシロ」という失言に反応してきた視線、その真意を確かめる。身体はそのままにし、ただ、意識は真横の初老の男性に集中させた。念のため宙で遊ばせていた両足を床に付け、体重を預ける。こっそり臨戦態勢を整えた。
物騒な気構えをしようと考えたのは、あの時の視線の在り方が、巧妙にさり気なく、微塵の粘着もなく、一見すれば平凡な人間が「知人と同じ名前が聞こえた」というだけで反応したような些細なチラ見に間違えるようなもので、その完璧な装いが余計にプロの盗み見に思えたからだ。単なるチラ見ならそれで良い。ただ、もしプロだとすると、間違いなく手練れ。テーブル上で軽く握る両拳の指の先にまで神経を通わせた。
視線の主が誰かははっきりとは分からない。でも、店内には五人しかいなかった。マスターを除けば、消去法で、全体的に淡白な印象のこの初老の客が、プロか一般人である。意を決し、首を横に捻って「ねえ、お爺さん。タシロって名前のお知り合いとかいたりしますか?」と、あえて唐突に聞いた。
振り向いた客の目は、とても綺麗だった。
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