第12話 マルタの話②
こちらがへりくだって「それじゃあこれ着けてもらえますか?」とお願いすると、男性は、それが当然の権利だとでも言いそうな
こんなでは友達はできないだろうな、と余計なお世話を思ってしまうが、敵意や
「
俺の説明をどこまできちんと聞いたか分からないが、男性は「あぁ分かった分かった!」と手をひらひらしてみせた。え、本当に分かったの? と言いそうになるのを堪える。説明している俺でさえ何を言っているか適当過ぎて分からないってのに、という本音も伏せておく。
「本当にその何とか波ってやつを取らせるだけで一万も出すんだな」
「超高密度アポジロトライ波、です。はい、正式な手続きを取るには相当時間と手間がかかるものですから、ある意味口止め料のようなものです」
「本当に数分で終わるんだろうな。この後出かけるんだよ」と、ガスマスクの装着に手こずりながら、男性はぼそぼそと文句を垂れた。
無計画にもガスマスクより先にグラブを着けるから手こずるんですよ、とは教えてやらない。その代わり、今の男性の文句に聞き捨てならない台詞が混じっていたので、世間話を装いながら「どんなご予定が?」と尋ねた。
「ああ? パチンコだよ。今日イベントの日だからな」
「イベントの日には必ず行くんですか?」
「なに食い付いてんだよ面倒臭えな。いいからさっさとやれよ」
マスク越しからも男性の苛立ちが伝わってくる。完全な安全は確かめられなかったが、特定の人物と会う予定でないことは確認できたので、予定通りに仕事を進めることにした。
「すぐ終わりますから」と言いながら玄関の鍵を閉める。ガチ、という音は、ガスマスク越しでは聞き取りづらいことだろう。
靴を脱ぎ、そこに立つ男性とすれ違った瞬間、右足を軸に百八十度反転して彼の背後に張り付くようにピッタリと身体を寄せた。ガスマスクの不快感が彼の感覚を鈍らせてくれているので、俺の気配を察知する素振りは一切してこない。
革のベルトを丁度良い長さで持って男性の頭上からくぐらせ、彼の胸元辺りにベルトが当たる手ごたえを感じたと同時に膝を前方に突き出した。突然のことに戸惑う、なんて暇すら与えず、前方にすとんとひざまずいた男性の膝裏に自分の右足を挟み込み、後方に持ち上げるベクトルで思い切り力を入れる。確実に頸動脈洞を圧迫するようにしていたが、非力な俺では男性はなかなか意識を手放すことができず、可哀想なことに、とても苦しそうにしていた。でも、首に何が巻き付いているのかガスマスクに視界を限定されて把握することもできないことだろう。それにグラブがはまった手では首とベルトの隙間に指をねじ込むこともできない。悲鳴だか怒号だかはマスクの内側にこもって部屋の隅々に行き渡ることすらなかった。
男は必死に抵抗を示そうとする。単純な力勝負では、俺に勝ち目があるとすれば女子供くらいだ。でも、人体の構造上、膝裏を強く地面に抑えられた状態で身体が後方へ引っ張られていては、立つことはおろか、足をばたつかせることも腕で真後ろにいる俺を捕まえることもできない。密着している状態なので体当たりをされても力は十分に伝わってこない。こうなってしまえば力関係など意味はなさないのだ。男性が少しでも冷静であれば、後方に身体を倒してどうにか俺を剥そうとするだろうけれど、そうなったらなったで素早く男性の前方に回り込み、胸板を踏みながらベルトを左右に引けばいい。
しかしそうはならず、唐突に、ころん、と男性の緊張が解けた。念のためそのままの姿勢で数分間待つ。これにて、呆気なく、仕事は完了した。「ね、すぐだったでしょ」と声を掛けるべき相手はもういない。
革ベルトを持つ片方の手を離して踏ん張っていた右足を抜くと、支えを失った元々男性だった物が力なく横に倒れようとする。魔法のリンゴを食べてしまったお姫様を扱うように、ゆっくりと、優しく、横に寝かせた。余計な傷を負わせては自殺に見せかけるのに具合が悪いため、ここからが割と慎重な作業になる。玄関脇に置いていた道具箱から二つ折りのキャスター付きの板を取り出し、組み立てた簡易台車で男性をリビングルームまで運んだ。グラブを外し、ガスマスクを外す。口にはよだれが泡になっていて、血走って見開いた眼球が光を反射させずにこちらを見ていた。
男性のズボンからベルトを引き抜き、それは一旦自分のポケットに入れる。手に持っていた方の革ベルトを輪にして近くのドアのノブに引っ掛けた。ドアに背を預けるように男性の上体を持ち上げ、ノブに掛けておいたベルトに首を通す。ポケットに入れていたベルトを、絞殺するのに拝借していた革ベルトがもともと下がっていたフックに戻すため、キッチンに通じる方のドアから出て二階の寝室に向かった。寝室での作業を終えてから、次はすぐ隣の書斎に入る。パソコンを起動させて検索エンジンのアイコンをクリックし、『自殺』『楽』『方法』のワードを入力して、適当なページをディスプレイ最前面に表示させておく。階下に戻り、ガスマスクとグラブはリュックにしまう。室内を見回して、特に首を絞めた場所付近の乱れや不自然な傷などの確認をした。
最後にぐるりと周囲を見回し、部屋を出た。玄関から堂々と、施錠の必要もない。自殺を演出するのに密室である必要など一切ない。
男性宅から歩いて五分間の所にある公園に来ると、それまで俺をつけていた足音が、ようやく「さすがに手際が良いですねマルタさん」と話し掛けてきた。振り返り、十メートル程離れた位置で拍手をしているフワと目が合う。俺の表情が笑顔だったことが意外だったらしく、拍手を止めて急に心外そうに顔をしかめた。
「あれ、全然驚いてないっすね。もしかしてバレてました?」
「驚いてるに決まってるよ。まさか可愛い後輩が同業者だったなんてね、全然笑えない。仕事の直後だったからさ、さすがに尾行に気付かないなんてことはないけどね」
「そすか。でも尾行してただけで俺が同業とは限らないんじゃ?」
「まさかこんなド田舎の別荘地で偶然会ったなんてことは言わないよね。だから今こうしてここで対峙してるってだけで立派な証明になってる」
る、の発声にタイミングを合わせてフワは腕を振り上げた。
瞬間、目の前に点の光源が見える。落ち着いて、顔を左に傾けた。ほぼ同時に耳元を風切り音が通過する。
「それに俺の手際の良さを知ってるってことは、仕事の際中も盗み見してたったことでしょう? 窓とかから直接見られてたらさすがに気が付くから、盗撮かなんかしてたんじゃない? だとすると、前もって俺があそこで仕事をするって知ってなきゃだから、そりゃもうプロってことだよね」だから同業者って思いました、と答え合わせを続けている間にも、二回、前方からナイフが飛んでくる。
フワの位置は変わっていない。腕は、一度の動作だけでナイフを放っていた。どういったフォームからでも精確に相応の威力で俺の
「あのさ」と言いながら四本目のナイフを避ける。「俺を殺そうとした、っていうか殺そうとしてる今のことはすっぱりと忘れるからさ、その代わりにさっき盗み見してたことを忘れてくれないかな」と提案した。説得、ではなく提案だ。フワは一瞬だけ呆れたような顔つきになり、次第に、馬鹿にされていると思い始めたのか、「こんの……」と顔を赤くした。本心で以前の関係に戻りたいと思っていたが、やはりそれは俺だけの一方的な希望である。寂しい気持ちを排気するように、フワに気付かれないように細く溜息を吐いた。
こうなってはもう事態の終わらせ方は限られていて、本当に残念だけれど、どちらかの行動不能か、その場しのぎの逃亡しかない。職場の先輩と後輩という楽し気な関係性、という意味では、
気を取り直して、こちらに注意しながら慎重に体勢を変えているフワを改めて観察した。
右手を隠すように半身にし、軽く突き出している左手は、きちんと血管を自分の方に向けて首の高さになるようにしていた。少しだけ腰を落として重心をやや左脚に傾けている。彼の筋肉の収縮する音、骨と関節がこすれる音が止み、フワの構えの完成を知る。この時点で
投げナイフの技術は素晴らしいものだった。フォームを選ばずにここまで高い命中精度を維持できる技術は今までお目にかかったことがない。きっと、横にたくさん並べた空き缶とか、無秩序に飛び回る風船とかシャボン玉とかをめがけて、何度も何度も連投を反復するなんて涙ぐましい努力をしてきたに違いない。その甲斐あってか、フォームを選ばない、つまり、ナイフを放つまでの無駄な挙動をゼロにでき、最短で対象物にナイフを届けられ、こちらとしては避けるタイミングが非常に取りづらいものに仕上がっている。でも、フワの特出した技能はそれだけのようだった。
自身の獲物をこちらに見せないどっしりとした構えは未熟で、しかも俺の後手を狙うそれは十メートルも距離が離れた今の状況に適したものとは言えない。つまり、四本のナイフを失い、高確率で残数はゼロか、あっても奥の手として一本を残すのみなのだろうと予想できる。フワの短く浅い呼吸が、打つ手が限られてきた焦りを表しており、俺の予想の妥当性の裏付けになっていた。心理状況を相手に知られることがどれほど危険かも理解していないようで、これらを
もっとも、そんな夢みたいな未来はないだろうけれど。
「このまま続けたら間違いなくフワが死ぬわけだけどさ、それでもやる?」と、こうなったらとことん挑発するに限る。
避けられない戦闘なのであれば、自身の生存を最優先とし、そして生き残る可能性は高ければ高いほど良い。俺の思惑に、可愛げを感じてしまうくらいに素直に乗っかってきて、フワは今にもこちらに向かってきそうな形相になっていく。投げナイフを自分のものにするくらいだから、さすがに間合いの重要性は知っているだろう、と思っていると、挑発の効果が彼の理性を上回ったようで、猪みたいに真っ直ぐこちらに駆けてきた。しかも、折角隠していた右手の獲物もこちらに丸見えだ。思わず「おいおい」と突っ込みを入れる。スローイング用とは別に持っていたようで、逆手に握る近接格闘用のナイフは、刃先が猫の爪のように湾曲したものだ。それにも思わず「おいおい」と言いたくなる。先程まで「近付くな」と言わんばかりの威嚇目的の構えをする人間が、扱いに技術を要するカランビットナイフを十分に使いこなせるとは思えない。
「ま、使えたとしても近付けなきゃ怖くない」と呟いて、右手に握っていた石を投げた。
投げるのは得意ではなく、当然フワ程精確で強力ではない。でも、物凄い速度で直線に近付いてくる対象を戦闘不能にするのに、それほどの力は必要ない。相手が頭に血が上った猪であれば尚更で、鼻息の色すら見て取れそうなくらいに興奮しているフワには俺の動作が見えておらず、投げた石に気付きすらせずに右目に見事命中する。ボクシングで言うところのカウンターパンチのように、俺の投石の力が不十分でも、そこにフワの近付く速度が加わって、相当の打撃になった。
勢いよくのけ反ったフワは後頭部からその場に転倒する。右手のナイフが宙に浮いた。「カランビットの握り方すら知らんでどうするの」と、嘲笑と失望が混ざった複雑な心境になる。
カランビットナイフは、ハンドルと呼ばれる持ち手部分のお尻に施された輪っかに人差し指を通してハンドルを握るため、普通は手を開いてもナイフがその手を離れるなんてことはないはずだが、その握り方すら知らなかったらしい。使いこなすどころか、どうやら洒落かお洒落かで身に着けていたようだ。本当に投げナイフ一筋でこれまでやってきたようだ。
「こんなんじゃどうせこの先長くは生きられないよ」と言いながら地面に転がっているナイフを拾う。右目を両手で押さえながら後頭部を地面に擦り付けるようにくねくねと悶絶しているフワに近付いた。頭の上の地面に先程拾ったナイフを刺し、代わりに彼の身体をまさぐってスローイング用のナイフが残っていないかチェックする。思っていた通り、一本だけ残った両刃のダガーナイフを小さな腰袋から見付けた。それは拝借する。
身体をまさぐってみて分かったが、両手首に手作りと思しき革製のホルダーが巻かれていた。普段はナイフをそこに忍ばせているのだろう。手首を返すような動きでホルダーに隙間ができ、拘束を失ったナイフが手に落ちる仕組みのようだ。暗器使いとでも言うのか、もしくは忍者か、どちらにしても、漫画みたいに幼稚で、それに涙ぐましい工夫がフワをより可愛らしく思わせている。
最初の時、背後から急襲する気になればできただろうに、あえて声を掛けてくれた彼の心意気に免じ、ここは立ち去ることにした。
立ち上がって膝に着いた砂利を払い、ダガーナイフを眺める。フワの姿をよおく思い出し、頭の中の彼の動きを忠実になぞるように身体を動かした。狙った木にナイフが突き刺さる。「ごめんフワ、思いの外簡単に真似できちゃったわ」これからお前の需要激減するだろうから、早いとこ足洗って工場の社員目指せよ。と言ったが、聞こえたかどうかは分からない。右目を抑える手からは血はこぼれておらず、大事にはならないだろうと思われる。
公園から出て来た道を戻る。停車していた車の方向とは逆の見晴らしの良い公園までわざわざ足を運んでいたのは、殺した男性宅を出てすぐに誰かの視線を感じたからだ。結果的に視線の正体がフワだったわけだが、それを知れて良かったのか悪かったのか判断が付かない。とりあえず、男性宅で仕事をする、という情報が洩れていることをオジに電話をかけて文句を言った。
オジは、例によって淡白な言い方だったが、「心当たりがある。この件は俺に任せろ」と、仕事の打ち合わせ以外のことで珍しく長文を発した。情報漏洩に少しくらいは責任を感じているのだろう。稀少なオジの一面を見ることができて、フワの一件が帳消しにはならないけれど、でも少しだけ心の温度が上がり、帰り道につまらないことで悩まなくて済んだことはオジに感謝である。
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