第11話 マルタの話①

 勤続年数においても人生においても先輩ばかりのこの工場で、フワは貴重な後輩だった。

 そのフワが、周りの先輩たちを巻き込んで調子よくカウントダウンを始めた。テンカウントだが、普段はおしゃべりなフワが終業のブザーの鳴る五分前くらいからおしゃべりをピタっと止めるところを見ると、もしかしたら彼は頭で三百秒もカウントをしているのかもしれない。だとしたら、そんなに退勤が待ち遠しい職場など辞めてしまえば良いのに、と思う。昼休憩の雑談で、退勤後に異性との会食があるとかライブチケットが取れなくて死にそうだとか、出勤の際に赤信号に一度もつかまらないから今日は最高の日に違いないだとか、直視するのがはばかれるくらいにまぶしくて若々しい彼のことだから、年寄りばかりのこんな工場などではなく他にいくらでも彼の好みに合う職場がありそうなのに、と思ってしまう。これで勤務態度が芳しくなければお節介だとしても本気で転職をお勧めしてあげるところだけれど、明朗めいろう快活かいかつで礼儀正しくてそれなりに仕事覚えが早いので、先輩の立場からすればフワは貴重な頭数ではあり、テンカウントの癖くらいは大目に見ることにしていた。

「マルタさん、この後ドライブ兼お食事会兼ちょっとした異性との交流なんかしたくないですか?」と、俺に対して友人感覚で接してくれるところは好感が持てるが、「もちろんマルタさんの分は俺が出しますよ。その代わりにアルコールは飲ませてあげられませんが」と臆面おくめんもなく俺を運転手代わりとして扱ってしまうやや舐めた態度と帳消しで、そういうわけで、俺が警戒心を持たないで済む数少ない他人だった。

「ごめん。今日はこの後別の仕事入れてるんだ」

「まじすか。金の亡者じゃないっすか」

「せめて仕事の鬼、って言ってほしいな」

「仕事の鬼じゃ褒め言葉になっちゃうじゃないっすか」

「金の亡者も褒め言葉だと思うけど」

「え……、そう? そりゃ困ったな」

「ほら、いいから早く帰れ。帰って異性と交流してこい」

「はあい。……って、もしかしてマルタさんて彼女いたりするんですか? それだったら無理に誘ったりしないですけど」

 いやいないよ彼女なんて、と嬉々ききとして休憩室を出て行くフワに向けて手を振りながら、そういった一般的な楽しみとは縁遠い人生だな、などとミジンコ的な感傷に浸ってみたりする。中学生の途中から既に今の業界に身を置くようになっていたので、恋愛とか友情とか筆記試験とか、青春に区分されるような体験は限りなくゼロに近く、それ故自分の人生を良し悪しで評価をすることはなかった。

 青春など、いろはも知らない。青春が去った後の平均的な日常も知らない。だから自分の今が他人とどの程度どう異なっているのか比較ができず、比較ができなければ評価はしたくてもできない。何色か分からない他人の芝を羨めない理屈だ。要するに、自分が自分で自分の人生の価値を設定すれば良いだけのこと。

 俺はでも、この人生の価値をどうとも設定しない。そんな無駄なことなど、最終目的を果たした後に持て余した時間を使ってすればいい。

 工場での副業で稼いだ金も同じだ。一般人を演じるという目標は就業している時点で達成しており、おまけで得られる使い道のない金の用途など、全てを終わらせた後にじっくり考えることにしていた。それに、使い道がないから、という理由だけで金が貯まっているわけではなく、メインの殺し屋稼業の収入が安定してきたから、というのでもなく、そもそも両親からそれぞれ相続した遺産だけで、物欲がなく学費の支払いも不要の独身男性一人がつつましく暮らしていくには全く問題ない資産状況ではある。

 帰り支度をしていると、「タマルさん、この前のオーディション、結果どうだったんですか?」と先輩社員に声を掛けられた。おそらく、俺とフワの年齢差を俺の年齢に加えたくらいの、比較的若いと思しき女性社員である。勤務時間内は事務室でパソコンに向かっていることが多い。

「いやあ、門は狭いですねやっぱり」と返事をした。これはいつものことだ。つまり、毎回同じ定型の台詞だ、ということ。こう言っておけば大体の場合、「そっか、頑張ってね。応援してる」と、会話がそれ以上展開することがなく、オーディションを受けているという嘘に更に嘘を上塗りする必要がないのだ。

 人の良さそうな女性社員に挨拶をして、フワに続き、茶を啜ったり談笑したりする先輩たちに挨拶をしてから休憩室を出た。

 休憩室は、住居で言うところのリビングルームであり、そこから廊下に出てすぐ左手が玄関、つまり工場の出入り口になっている。この工場は、行われている作業内容が工場的であるから工場と呼ばれているだけで、実際には二軒の平屋を連結増設改装した、広めの住居と呼んで差し支えない外観だった。少し違うのは、材料であるシリカ繊維の特大ロールの搬入と加工が完了した高耐熱耐火シート製品の搬出用として、間口が広いシャッターで駐車場側の一辺の壁まるまるを閉じているところだ。軽トラックくらいであれば悠々と屋内に進入できる広さで、実際に搬入出口の屋内側には荷下ろし用のフォークリフトが一機駐車してある。

 建物の出入りで靴を脱着するのも住居の面影の一つだ。三和土に所狭しと並んだ靴群から自分の物を探しながら、手探りでバッグの中の携帯電話を取り出した。育ての親兼マネージャーである『小路琢磨』の表示がずらっと着信履歴画面に並んでいる。俺に連絡をする人間など彼しかいないので、しつこく電話をされているのか一度だけかけてきたのかを、いちいち着信日時で確かめなくてはならない。三十分程前に一度だけ着信があったので、オジはまだ、俺からの折り返しを待っていられるくらいの心理状況だと予想ができた。少しだけほっとし、でもすぐに心を正し、携帯電話を耳に当てる。

「仕事だ」オジは、電話に出るなりそうとだけ言った。

 殺し屋稼業を生業にして人命を奪う技術ばかり磨きながら、コミュニケーション能力もある程度の習熟が必要だと教えてくれたオジ。彼はとても優秀な反面教師だった。もちろん殺し屋の教師としても優秀だが、これは教え子である俺が客観視はできないことなので、同業者からの意見だ。長命なベテランなど数えるくらいしかいないこの業界で、中学校を中退してからずっと俺は生存できており、それがオジの伝承する殺しの技術が優れていることを如実にょじつにあらわしていると思うこともできないことはない。オジのおかげで俺は、年齢は若いベテラン、という個性で売り出せていた。

「今度こそヘイワに関係していそうですか?」

「…………」

「ですよね。えっと、どこに行けば?」

「……カフェだ」それだけを言って、オジは電話を切った。俺の相づちなど要らない、という切り方だ。

 乗ったことすらないが、仮に俺が今ヘリコプターから降りた直後だったとして、風とエンジンとプロペラとかの轟音の真下にいようが、オジは聞き逃すなんてへまを許してくれない。何においてもチャンスは一度きり、これを普段から俺に心掛けさせるために心を鬼にして同じ言葉を二度言わないようにしてくれている彼なりの優しさならば、いや、たとえそうでなかったとしても、彼の教育方針に俺なんかが感想を持つなどおこがましい。

「了解」と遅ればせながらも律義に相づちを打ちながら、乗り込んだ車の助手席に携帯電話とバッグを放った。昼休憩時に倒したままだった背もたれを起こしてエンジンキーを回す。

「どこにいるんだろうねぇヘイワさんよ……」と呟いた。


 姓はタイラ、名はノドカ。まだ見ぬ伝説の殺し屋は、ヘイワと呼ばれていた。

 伝説、という言葉が大袈裟じゃない使われ方をしている場面に遭遇したことがないが、同業者の口からヘイワについて聞く際には決まってその異名で呼ばれている。どうして伝説とされているのかは明確な答えを聞いたことはないけれど、噂では、狙った獲物を仕損じたことが一切ないだとか、善人しか殺さない残忍な男だとか、その殺した人間をミンチ状にしてどこかの山に埋めている、だとか。最もそれらしい理由は、ヘイワの顔を知る人物がいない、という点で、それは確かに伝説と言われるだけあるとは思う。UFOとかビッグフットとかと同じ、見た人間がいないのに誰もが知っている、という条件で言えば確かに伝説だ。ともあれ、自分のニックネームの方がましだな、とその度に頭で嘲笑ちょうしょうしていた。

 しかし、ヘイワにしろ伝説のなんちゃらにしろ、そのふざけた呼称は業界で共通言語として広く使われていて、情報収集する際にはその点で便利ではある。

 俺はその伝説の殺し屋ヘイワをずっと探していた。


 オジが指定したカフェに到着した。職場からは十五分間程度の距離である。新規受注の際に顧客本人かオジとやり取りをする場所は限られていて、このカフェもその一つだ。同業者とばったり会ったことも過去にあるくらい、そういった話をするのに最適な環境だった。林に挟まれた道を進まないと辿り着けない立地であることもそうだが、何よりも店のマスターが空気みたいなところが素晴らしい。コーヒーや軽食などのオーダーと提供以外では、たとえ店内で喧嘩が始まろうが大きな地震が起きようが、彼の周囲だけ時間が止まっているようにマスターは外界との接触を断っている。こちらの会話は聞いているだろうが、それに対して反応することは皆無だ。情報の漏洩も心配する必要はない。

 舗装されていない駐車場に車を停め、サイズと色が異なるタイルが無秩序に埋め込まれている洒落た小道を歩く。季節が季節ならば、赤と黄色の葉で小道は見えなくなるが、それも似合うような場所だ。カフェはその建物自体アンティークの様相で、きっと内装も含めて九割以上は木材で造られていることだろう。十段の階段を上がって古めかしくも重厚なドアに付けられたアイアンのノブを引く。入店を報せるベルの音はこのカフェでは響かない。

 店内には二組の客が、それぞれの静けさでもってコーヒーを啜っていた。こちらを自分の肩越しに覗いた一人の中年男性と、離婚の話し合いの終盤みたいな暗澹あんたんとした雰囲気をまとった老夫婦の、合計二組。椅子が三脚だけのカウンターに座る中年男性の方に近付いた。

「毎度どうも」

「…………オジか?」

「オジは引退しました。本人からそう聞いてませんか?」

「代わりのマルタってやつを紹介してもらうはずなんだが。ここからまた移動するのか?」

「いいえ、俺は運転手とか下っ端とかじゃないです。俺がマルタ。ほら、オジから聞いてませんか? マルタは若くて眉目秀麗びもくしゅうれいなやり手、って」

 今日みたいにオジが同席しないとだいたいこのような会話から始まることになる。俺の自己紹介を聞いて相手がどうリアクションするかも分かるので、「いつもみんな最初はがっかりするんです。でも最後はきちんと満足してくれます」と先に言っておく。

 俺とオジの組み合わせでは、オジの方が客からの信頼が厚く指名の要望が高い。これまでのオジの実績がそうさせているわけだが、彼はもう実績を積み上げることはないので、いずれこの関係も逆転するだろう。たまにオジでなければ駄目だと主張する顧客もいるが、俺は無理に説得するようなことはしない。嫌なら他を当たれば良い。だが、それでも日を改めて結局は引き受けることになる。

 この業界では足を洗うことはほぼ不可能で、オジのように一線を退くには後継者を業界に残さなくてはならない。だから、とてもマネージャーが務まるとは思えないオジが甲斐甲斐しく俺の色々な世話をしてくれていた。単に仕事の仲介をするだけでなく、受注のやり取りをする場所のセッティングをしたりその場所をわざわざ俺の生活圏内に寄せたり、意外なことに、細かな気遣いはしっかり行き届いていた。先程俺に電話をしてきたオジとマネージング業務を行うオジとは別人なのではないか、と疑っているくらいだ。

 ちなみに、世の中のサービス業などとは異なり、顧客は神様ではない。むしろオジの方が顧客よりも立場が上であることがほとんどで、それは医者や芸能人のように、一般人が気軽にできないことを承るからだと思われ、補助的に、オジの過去の戦歴と、近頃名が売れてきてしまった俺のネームバリューも影響はあるようだ。それを踏まえて、オジが下手に回るケースでは、受注する仕事が必ず大きなものになる。顧客が、色々な意味で大物であることが多いからだ。受注をする際に気にするべき点は、依頼内容の難易度や対象者ではなく、依頼をする顧客が誰であるか、ということ。今回はこのカフェが指定できたということで、この中年男性よりもオジの方が立場が上だと分かる。その場合は、大物の顧客とは逆に簡単な仕事になることが多く、自ずと、ヘイワにつながっている可能性が低いと言える。それでも仕事は仕事。オジを裏切る覚悟が出来ない限りはこういった無駄だと思われる仕事もこなさなくてはならない。

「じゃあ対象者の情報を」と言うと、特にごねることなく中年男性は背広の内ポケットから封筒を取り出した。こちらに差し出す手と目には既に、俺が信用できない、という様子は見受けられず、殺しの依頼をしてしまった、という罪悪感を背負った人間のそれになっていた。

 封筒の中身をあらためる。対象者が写された顔写真数枚と免許証のコピー、それからどこかのロッカーのものと思われる鍵が入れられていた。必要に応じて対象者についての質問を二、三することはあるけれど、詳細はオジ経由で聞くことになっている。俺は、しくじらない、ということだけに専念すればよかった。中年男性本人については名前も職業も殺しの依頼の動機も聞くことはしない。罪悪感を紛らわそうとあれこれ言葉を重ねようとしたので、中年男性の言葉を遮り、「あとは進捗があり次第オジから連絡がいくと思いますので」とだけ言って去る。

 今日はマスターの美味しいコーヒーを飲むことはできなかった。まあ、今日会ったばかりの見ず知らずの他人がたらたらと垂れ流す懺悔を聞きながらでは、どんなものも不味くなってしまうけれど。


 車に乗り込み、すぐに発進する。運転しながらセンターコンソールのポケットを手探りし、イヤホンマイクを耳にはめた。オジに電話をかける。

 数秒間の呼び出し音が切れたかと思えば前置きなく「首尾は?」と聞いてくる。問題ない旨を伝えて、詳しい情報と前金が収められているロッカーの設置場所を聞いた。自宅までの直線上ではなかったが、このままオジが言った駅に向かうことにした。ロッカーの鍵は、先程中年男性から受け取った封筒の中の鍵がそれだ。

 おおよそ三十分後に到着した駅のロッカーで目当ての代物を入手すると、これでまた一つの殺人に係わる契約が締結ていけつしたことになった。

 ヘイワを見つけ出して触れられる距離に近付くことができる日が来るまで、着実に、人の命が消えていく。消える命が俺自身のものでない限りは、それはいつまでも続く。

 人間のままヘイワに会うことができるのだろうか。それが近頃の悩みだった。

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