第9話 ヘイワの話②
電話を切った。
ウンモとの話が終わる時にはいつも溜息が出るのだが、この溜息の正体は昔からずっと明かされないままだ。これについては究明しないことが貴いものと判断し、自己分析をしないと決めている。携帯電話を胸にしまい、その手で葉巻を取り出した。
匂い立つ葉巻にカッターを押し当てると、徐々に幸福感が高まり始める。刃が葉を削るぎしぎしとした手ごたえすらこぼさずにじっくりと味わうことで、出会うことのない職人に敬意を表している。綺麗にヘッドに穴が開いたことを見て、それで得られる満足感も余さず楽しみつつマッチ箱に手を伸ばし、長いマッチが朽ちる頃、平たいフットの端にほんの少しだけ白い灰が生まれた。葉巻の産地やブランドや価格はあまり気にしない。味には最低限の好みがあるのでどうしてもプレミアムを選ばなくてはならないが、管理が行き届かないことで職人と葉巻に失礼があってはならないと考えていて、だからストックをすることはない。いつも一本しか持たないようにしていた。その代わり、葉巻に火を点ける時には、充分に福に至れるよう、一時間以上は時間の概念を捨てるようにしている。
ユウサクとシュウが黙って待っていた。葉巻を取り出してからずっとだ。私と付き合いが長い彼らは、私が何を大切にしているか心得てくれている。クロカワは様子を伺うようにし、やはり二人に倣って質問したいことも我慢しているようだ。私の個人的な趣味で彼らの貴重な時間が潰れることも本意ではないので、話を切り出すことにした。
「では……、役割を分担したいと思います」
「その前にヘイワさん、ちっと良いですか?」私が口火を切るのを待っていたようで、シュウが跳ねるように発言の許可を求めてきた。シュウに、上に向けた手のひらを差し出す。
「どうもです。……ホソイのやつのことですがね、ほんとすんませんでした」
「それは何の謝罪ですか」
「あ、えっと……追っかけられてたの、全然気ぃ付かんくて」
「ああそれなら気にしないことです。あれがコオロギ君の性能ですから」
シュウは胸をなで下ろすように肩の緊張を解いたが、それを見たユウサクがすかさず「気付かないっつーどん臭ささはシュウの性能だわな」と冷やかしを入れた。
「んなこと言ったってクロん家さかけてったからしばらくはだいじと思うべよ普通。まさか追っかけるわけにもいかんし、したらこっちが追っかけられてるなんて余計に思わんべ。そもそもおっさんがへでなしだからあんな面倒なことになってんのにあんまえばんなって」とシュウは応戦し、「あぁあぁ、何言ってるか分かんねえから喋んなって!」とユウサクが頭上にまとわりつく羽虫を払う仕草をするまでが、至って普段通りのやり取りである。
「ふふ、お二人がこのままずっと良好な関係でいることを願っていますよ」と手を叩いて
「クロカワさんは何かありますか? 先程から発言を我慢しているように見えますが」
「いえ、今は良いです」
「そうですか、ありがとうございます。ではまずクロカワさんですが、この後私と一緒に本社に向かってもらいます。車の運転はできますか?」
「あ、はい。第一種なら大型と大型特殊以外持っています」
「分かりました。次にシュウさん。近々記録的な大型台風が上陸する見込みだそうです。これを掲示板に貼って、村のみなさんに十分な備えをするよう呼び掛けて下さい。臨時の配給品も明日、通常の倍入荷させます。備蓄用に普段より多く配って下さい。それから引っ越し希望者が新たに一名決まりました。少し先のことですが、急遽コオロギ君の家が空きましたので、入居準備を進めておいて下さい。えっと今は……」
「おっさん家があと一日はかかっと思います。そっからはクロん家と不合格の女二人組の家だから、合わせて四軒」
「分かりました。もしかしたら近いうちにこちらの仕事の手伝いをお願いするかもしれませんので、ユウサクさんの家が片付き次第にコオロギ君の家に取り掛かって下さい。場合によってはユウサクさんの家は後回しでも良いです。それとくれぐれも、クチナシ村では無口のシュウさんで通すように」
「したっくれ、台風の準備はどうすっぺ」
「あ、そうでした。失礼。では今日明日は準備に専念してもらって、その後コオロギ君の家の整理を。ユウサクさんの家はその後でお願いします」
「うす。したら早速」
シュウは一礼をして部屋を出て行った。それを見送り、話を続ける。
「ユウサクさん、首尾はいかがですか?」
「正直、万事順調ってわけじゃねえです。ウンモ社長の要求が無茶すぎますわ。ヘイワさんなら分かると思いますがね、現場にゃ現場のタイミングってもんがあるんで」
「まあそう言わず。ウンモさんの計画は私の計画でもありますから」
「それもまあ……分かってますがね。進みは遅いですが、特段の問題と異常はないんで、引き続き尽力申し上げますよ」
ユウサクの返事を聞きながら煙をくゆらす。まだ一度も灰は落としていない。無駄な贅沢をより多く確保するために、必要な手順は密度を濃く速やかに済ませるのが私のやり方だ。
ユウサクも去り、部屋には私とクロカワの二人だけとなった。
クロカワは賢い。それに、クチナシ村で住むようになった経緯からも分かるように、程よく正義感があって程よく好奇心があって、冷徹なくらいに合理的だ。何より、相手の行動と思考を誘導する技術が私の活動に大いに役立ちそうだった。今だって私に対し観察の目を広げているところも油断ならなくて頼もしい。ウンモが惚れ込むも頷ける。
「あいつはどうするおつもりで?」と、クロカワはコオロギを寝かせてある別室を親指で示した。どうやらこれが先程から質すべきか迷っていたもののようだ。
「彼も連れて行きます。こうなっては仕方がないですからね。でも、私は何もしません」
クロカワさん。と名前を呼ぶと、呼ばれることを予測していたようにトーンを落とした完璧な「はい」を返してくる。「あなたがコオロギ君の処理をしてあげて下さい。準備だけは先程ウンモさんにお願いしておきました」と言った時にも、いや、ここから数手先まで先行して会話の往復を予測していることだろう、壊したくなるくらいに落ち着いた「はい」が返ってきた。
葉巻を皿に当てて灰を折り、口に運んだ。
やはり葉巻は、パンチカッターで断面積を抑えた方が風味が強く感じられるな。と、ようやく愛すべき静けさ、時間を迎え入れることができた。
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