第6話 コオロギの話⑤

 イズミが訪れた同日の夕方、今度の来訪客は、サナエだった。

 クチナシ村に二箇所あるうちの近い方の温泉から帰ってきたところ、葉の集団にはばまれ夕陽が地面に辿り着けない暗闇に近い状況だったが、道中もずっとそんな暗がりだったので、僕の目は少ない光量でも人影程度であれば認識することができた。人影は、僕が近付くと、少しだけ複雑な動きを見せる。まずは驚いたように飛び上がり、逃げようと身体の重心をずらし、僕が反射的に人影の正対する方向へ身体を寄せたので、逃げるのは無理と悟ったのか、理性的な一拍を置いてから「こんばんは」と声を寄越した。

「サナエさんこんばんは。どうかしましたか、こんな遅くに」と言うが、クチナシ村では、以前の世界と比べて三時間も四時間も早く、遅い時間、と形容できるようになる。

「あ……の、用があったけど中にいなそうだったから、それで……」と、家の中を覗くようにしていたところを僕に発見されてしまったバツの悪さが言葉尻を濁していた。その様子が若干気の毒に見えてしまい、覗き込んでいた了見を追求することは控え、普通に振舞ふるまうことにした。

「僕に用事ですか? というか一人ですか? 珍しいですね」

 どうぞ上がって下さい、と木戸をずらしてまねいた。が、これは遠慮される。いや、遠慮よりも、拒絶に近い。この反応で、サナエに快く思われていないことに気が付く。「どうかしましたか?」と、最初にした質問をもう一度口にすると、「イズミ、来なかった?」と質問を質問で返してこられ、その声には攻撃的な響きすらあった。イズミは日中来たので正直に「来ましたよ」と答える。どこにいるの? と質問を重ねてきた。

「どうしたんですか。サナエさんなんだか普通じゃないって言うか、その……怒ってます? 僕、何かやらかしましたか?」

「…………あれ? ホソイさん、もしかしてだけど、今までお風呂行ってた?」

「はい。集会所のところのですけど」

「嘘。じゃあイズミはどこに?」

「知りませんよ。家にいないんですか?」

「さっき、来たって言ったよね」

「はい来ましたよ。今日のお昼頃に」

 そこでサナエは黙り、暗がりでも分かるくらいに肩の力が抜けていっている。放っておけばこの場にへたり込みそうな風にも見えた。サナエは、大丈夫ですか? という僕の声掛けに応じることなく去ろうとする。家に帰るのだろうか。何となく危うげな様子だったので心配になるが、でも「送ります」などと紳士的に振舞える気がしなかったので、多少気がとがめたが、身を隠して後ろについていくことにした。事情を知らない人間から見れば、まごうことなきストーカー行為である。

 サナエは集会所の広場を突っ切り、西区方面の林道に入っていった。空間が広がったことで我に返り、これ以上の尾行、もとい見送りは不要と考え、来た道を戻ることにした。が、自宅に置いてくる余裕がなかったので手には風呂セットを持っている。湯冷めをする季節ではないが、イズミとサナエに精神的カロリーを消費させられた一日だったので、療養は念入りに、という精神の訴えに従い、もう一度入浴を楽しむことにした。


 翌朝、少し前から日課にしていたジョギングをしようと家を出た時、昨夜にサナエが覗いていた付近の木戸の地面に、サナエの物らしきポーチが落ちているのを発見した。僕の声に驚いた瞬間に落としてしまったものと思われる。仕方がないのでジョギングのコースを変更した。コースと言っても、普段は集会所までを往復するだけである。その先の区画まで足を延ばすことに抵抗があるとするならば、朝一では会いたくない二人の家がゴールだということだ。

 山の朝の霧雨は、肺の中から身体を冷やす。最初の頃は筋肉の熱よりもこの気圧の条件に身体が馴染まず、集会所への片道すら休まず走り続けるのにぎりぎりだった。習慣付けてからまだ数日だが、今では自分に適した走るペースも何となく分かり、背筋を伸ばしたまま腰の回転を利用して尻の筋肉で走るフォームが楽だとも分かってきた。筋肉痛も心地良い。そして敵だった霧雨は、視界の全てを真っ白に光らせる幻想的な演出として楽しむ余裕もできた。惜しむらくは、東区と異なり、西区は歩き慣れていないため、悪視界では体力問題以外の理由により走り続けられないということだった。集会所を越してからは競歩のていで早歩きをしている。しかし意外にも、これはこれで尻の筋肉に程よく負荷がかかって気持ちが良い。道なりに進んでいると、途中から北側に湾曲するように上り坂になっていった。西区はやや高い立地のようで、東区と南区とは完全に孤立している。西区の集落に着くと、早朝と思われる時間帯だからか、農家と思われる人間が散見された。そのうちの一人にサナエ宅を教えてもらい、彼女の住む家に到着する。教えてくれたおじさんがやけににやついていたのが気持ち悪かった。

 昨夜のサナエのような動きをした。家の中を覗き、イズミかサナエの気配を探す。辺りの朝らしい静かな空気に不釣り合いとは知りつつも、意を決して大きな声を出し、サナエを呼ぶ。ノック、というか木戸に平手を二、三度打った。目を閉じて薄い壁の向こう側に生命反応の気配を探したが、どうやらまだ寝ているようだ。専業農家と異なり彼女たち兼業農家は、組合からの就業時間の取り決めがある程度緩く設定されているのだろう。あえて強引に起こすのは僕の方にもデメリットが生じる。よって、持ってきたポーチを出入り口の木戸の足元へ置いて、踵を返した。

 帰り道は途中まで下り坂だ。集会所の広場まで一度も休むことなく走ることができた。途中で、良かれと思って朝の挨拶をする純朴な村民たちとすれ違わなければ、集会所から先の道のりまで完璧に走破できただろう。ジョギングをする人間には挨拶をしてはならない、という八つ目の法律をタイラに会ったときにでも進言してみようか、と半ば本気で考えた。家に着いてからは、ストレッチなどの整理運動をして朝食を摂り、三十分間ほど二度寝をする。この二度寝は、横になると昼まで目が覚めないため、柱の一本に背中を預けてあえて不安定な姿勢で寝る。

 二度寝を終えて今日一日の予定を頭に思い浮かべる。今日はもともと注文書を整理しようと考えていたので、これまで預かった何件かの注文内容をまとめ、商売道具として村役場に備品の請求をするべき工具の優先順位をつけたり、効率的な仕事の割り振りの計画を立てたり、一般職で言うところの内勤業務の、ここまでやったら今日の仕事は終わり、という目標を設定した。


 しかし、予定は、その通りに行かないことが多い。予定外が予定調和だったりもする。

 この日、ユウサクに続き、イズミとサナエが行方不明になった。

 ユウさんでご馳走様だよ、とぶつくさ言いながら、昼の少し前に自宅に現れたクロカワと環境整備組合員一名に連れ出され、計三名でサナエ宅に向かった。


 サナエ宅に向かう道中でクロカワからあらかたの事情は教えてもらえた。まず、農業組合の仲間が、日が高くなっても顔を出さないサナエ、イズミの両名に一言物を申そうとしたところから話は切り出された。それを聞いた感想としては、やはり兼業だからと言って寝坊や遅刻や無断欠勤は免除されない問題行為なんだな、という呑気なものだった。

 農業組員がサナエ宅に訪れた時には既に家の中は空だったそうだ。それで、たまたま近くで作業をしていた西区の環境整備組員二名と辺りを見回ったとのこと。イズミも言っていたが、ショーフ業は本当にこの村では欠かせないものなのかもしれない。それを証明するように、農業、環境整備の両組合が協力し、可及的速やかに全区画へ連絡が行き渡っていて、村民の底知れぬ熱情を感じる。

 現在は作戦本部をサナエ宅前に設置し、クチナシ村居一帯を大勢で捜索しているらしい。除草作業をしていたクロカワも捜索隊に参加させられてしまったそうだ。

「なんだってこんな躍起やっきになって探すんですかね」と、ユウサクの時と大きく異なる扱いに不満を感じたまま愚痴を吐くと、環境整備組員の男性が「そりゃ他ならぬあの二人だからに決まってんだろうが」と、やや過剰気味に反応を示してきた。横目でちらとクロカワを伺ったが、彼は少し呆れ顔をしている。サナエとイズミは特別、というのが村全体の共通認識で、クロカワは例外、という構図が確定する。もちろん僕は、クロカワ寄りだ。

 新入村民の特権として「他ならぬってどういう意味なんです?」と、何も知らないのに何でも知りたがる幼稚園児みたいに、何が、なんで、どういうこと、を繰り返す。組員の男性は「そりゃお前、あの二人がいなくなったらどうやってあっちを処理すんだよ」と言った。あっち、が何を指すのかは、男性の言い方で何となく察しが付き、そこでようやく発音と漢字が一致したため「あぁ、ショーフって娼婦のことか」と呟く。耳が良いのか、小声を拾ったクロカワが僕の肩に手を置いて意味ありげに頷いてきた。あえて口にすることじゃないぞ、という意味だと思われる。もしこれが組員の男性、そして一生懸命捜索をする男性、の耳に入ったら、きっと良い顔はされないだろう。今回に限り人を突き動かす動機が不純であることはみんなが少なからず自覚しているはずで、そしてかなりの高確率で、みんなは二人のお世話になっていると思われた。

 クロカワが僕を呼びに来たのには理由があった。簡単な理由だ。捜索隊の一名が、今朝方サナエ宅を覗く僕の姿、正確には「小柄であまり見かけないマッチ棒みたいな男」の姿の目撃証言を入手していて、サナエ宅で行われた作戦会議の中で報告をしたからだ。それを聞いたクロカワが僕の姿を思い出して僕に事情聴取をする必要性を感じことは、僕としては何となく嬉しくはない話だったが、でも客観的に見て自然な道理ではある。

 サナエ宅の入り口付近にポーチが打ち捨てられていた、という情報も組員全員で共有しているようだ。それが自分の仕業だ、ということを声を大にして良いものか判然としなかったので、経緯も含めて、まずはこの二人に打ち明けた。昨夕サナエが僕の家に現れ、イズミの所在を尋ねるような発言をして早々に立ち去り、今朝、彼女の物と思われるポーチが家の前に落ちていたのを見付けたから返却に行った。という、説明すればものの一分間の話である。一部、昨夕サナエを集会所まで尾行した旨は伏せた。二人に、ストーカー行為と印象付けさせずに説明できる自信がなかったからだ。

「ところで、僕たちはどうしてサナエさんたちの家に向かってるんですか? 家なら最初に探すでしょ普通。森とか山とかを周った方が良いんじゃ」

「そこなんだよね、全くもって馬鹿馬鹿しいのは」

「どういうことですか?」

「いやね、肝心の二人の家ん中なんだけど、誰が入るか、つってずっともめてんの」

「は? ……何故?」

「だよね。俺はコオロギ君のそういうところに好感を持っているよ。でもおっさんたちはね、うら若き女性の家に入るのに抵抗を感じると見せかけてどうにか自分が上がれないか牽制けんせいし合うのに一生懸命なわけ」

「はあ、……事態が事態なのに、ですか?」

「そ。長閑のどか辺鄙へんぴな村の純朴そうな人間も、肚ん中は下心で満ち満ちてんだよなぁ」

 クロカワが乗り気でない態度なのは、これが最たる理由かもしれない。心から軽蔑するように声を漏らした。一緒に歩く組員の顔を思わず盗み見てしまう。僕は何とも思わないけれどこっちの男性は図星を突かれているのではないか、と心配になってしまった。

「それは分かりましたけど、そのことと僕たちが家に向かっているのには何か関係が?」

「もうすぐ分かるよ」

 クロカワが不吉なしたり顔を見せてくる。そこはかとなく嫌な予感がした。

 集会所の広場に出ると、話は一旦打ち止めになる。組員の男性と僕が直進しようとすると、クロカワが「こっち」と手招きをしながら集会所のガラス戸を開けて中に入っていった。何だろう。何でしょうね。という目配せを組員の男性と交わし、クロカワを追って入り口をくぐると、普段は受付に座っているはずの女性職員がおらず、その前で何かを待つクロカワがいた。僕を認めて先程同様のしたり顔を見せてくる。女性職員が奥から戻ってきたが、その手には服を抱えていた。

 クロカワの作戦を聞かされる。抗う時間は少ししか与えてもらえなかった。クロカワのしたり顔がいつの間にか組員の男性と女性職員にまで伝播でんぱしていて、四面楚歌の孤軍奮闘は絶体絶命なのである。嫌な予感は、多くの場合、的中するものだ。

 

 準備を済ませ、目的のサナエ宅に到着した。

 クロカワが話していた通り、問題の家の前で中年男性の塊ができている。そちらへ近付くにつれ、どんどん顔の表面積が熱くなってくるのが分かる。声が届く距離にまで接近してからクロカワは「見付かりましたか?」と声を投げた。「まだだね」と答えたその男性は、塊の中では最年長に見える。だが比較対象にクロカワも混ぜれば結果は異なるので、二人の力関係が年齢以外のものであると予想できた。環境整備組合内のヒエラルキーかクチナシ村の在住年数のどちらかで、クロカワはその男性より下回っているのだろう。

 クロカワとそれまで一緒だった組員の男性が塊に吸収されるように僕から離れると、自ずと僕だけが孤立するような位置関係になり、塊から放たれる僕の全身に這わせるような無遠慮な視線が徐々に増えていった。視線の理由は、僕が、小柄であまり見かけないマッチ棒みたいな男、に該当するから、ではない。

「こっちのお嬢さんは? 見ない顔だね」

「ええ。村長が、何とかって大学からの依頼で学生さんを短期的に住まわせてるらしいですよ。毎年この時期になると田舎暮らしの体験学習みたいな名目で受け入れてるんですって。知ってました? えっと君、名前は……」とまで流れるように作り話を並べ、言葉を切って僕の方をにやにやと見てくる。僕へ偽名で自己紹介するようバトンを投げたつもりのようだったが、さすがに声で性別がバレるだろう、と心でクロカワに反論をした。他のみんなも僕が発声するのを待つ体勢になっていて、静まり返った時間がやけに長く感じる。どうしよう、と戸惑うよりも見られることがひたすら恥ずかしかった。声を出さなくても、僕の容姿ですぐにバレるだろう。見られる時間が長引けばそれだけ危険だ。と、頭では分かってはいた。もしかしたら既に怪しまれていることだろう。

「おいクロカワ!」と、クロカワの目上と思われる先程の男性が突然に声を張った。

 ほら言わんこっちゃない。と、心でクロカワを責める。面白半分でこんな忘年会か何かの罰ゲームみたいな女装などをさせられて、それが作戦などとどうして呼べようか。すぐにバレて、今後長年に渡っていじられるに違いない。考えただけでも脇汗がにじむ。

 しかし男性は「無理にしゃべらそうとすんなよお嬢さん怖がってんじゃねえか!」と予想外な台詞を続け、「すみませんね、お忙しい中」などと気味が悪い声を浴びせてきた。……これは、まさか、バレていない?

「気が回らなくてどうもすみません。ではこちらへ」とクロカワが僕を手招きする。無理に笑いを堪えようとしているのが分かるくらいに真顔だった。「じゃあ家宅捜索は女性に任せておいて、みなさんは山の捜索チームと合流してあげて下さい」というクロカワの一声で塊は散開していった。

 こう言ってはなんだが、女の人たちって凄いな、と尊敬する。あんなに下心をむき出しにした下品なおやじ共を相手によく平然としていられるものだ。

「大成功」と、他の人間が離れたことを確認してから得意気にクロカワは笑う。

「……はあ。男って、嫌だな」

「はは、まあ……あれだ。許せ」

 それにしても女より女っぽい足してるな、などとさらっとセクハラ発言を残してクロカワは去って行った。男が上がるのが倫理的に躊躇われる、という理由から僕を女装させたわけで、それ故クロカワも一緒になってサナエ宅を捜索することは不自然である。ここからは僕一人の作業だ。速やかに用事を済ませて、早くズボンをはきたかった。


 ポーチは家の中に移されていた。入り口を開けて土間までは誰かしらが進入したものと思われる。まずは遠慮なくポーチの中を確認した。無遠慮でいられるのは、女装までさせられて少し苛立っていることもある。ポーチの中身はクチナシ村では不釣り合いな化粧品の類。ここがクチナシ村以外であれば、どんな田舎でも見かけるような光景だ。一つ一つの品物の良し悪しは不明。でも一つ気にかかることがあった。このポーチは果たして、サナエの持ち物なのだろうか。その疑問に至ったのは、ポーチを開けた瞬間の匂いからだった。ポーチには香水と思われる液体が入れられた瓶状の物はなかったが、それぞれの化粧品に固有の匂いがあり、それがイズミと紐付けている。簡単に言ってしまえば、イズミが柑橘系の香りに対して、サナエはもっと鈍い甘味が特徴の香りをまとっていた。家の中を探してもう一つのポーチ、あるいはサナエの甘い匂いの元となる化粧品を探せば、ポーチの持ち主がイズミである裏付けになりそうだった。サナエがどうしてイズミのポーチを持っていたのか。その理由を考えるのは、裏付け完了後でも遅くはないだろう。視線を上げて室内の調査を続行する。しかし、ポーチがイズミの持ち物である可能性が濃厚になるのに、さほど時間はかからなかった。

 クチナシ村の住居は土間からすぐに囲炉裏が彫られた茶の間の空間につながる造りが一般的だ。この家もその例に漏れないものだったが、整然としている茶の間には囲炉裏はなく、その床だけ違う色の板がはめ込まれ、面影だけがあった。茶の間と直接面している部屋はない構造で、土間から下履きを脱がずに奥に進むと、そこにも一段高くなった式台の様な箇所から奥に伸びる廊下がつながっていた。靴を脱いで上がり、廊下を進むと、廊下を挟んで左右に二つ、部屋が現れる。

 片方の部屋の入り口に、『泉』と彫られたクチナシ村らしからぬ華美なデコレーションが施されたプレートが掛けられており、反対側の部屋も同様に入り口にプレートが掛けられていた。『早苗』と彫られた方のプレートはシンプルだ。ここに立って最初にしたことは、それぞれの部屋の入り口から室内の匂いを嗅いだことだ。変態、という単語を頭から追い出すのに苦労したが、それを断行しただけあって、僕が記憶していた彼女たちの匂いとプレートの名前の表記とが一致したことが分かった。すなわち、ポーチの所有者がイズミである裏付けが完了となる。

 どうしてサナエがイズミのポーチを持っていたか、という疑問点は一旦棚上げにし、サナエ、イズミ両名の部屋から捜索を始めた。その後は台所や納戸なども調べた。結果として、ユウサクの時の手紙のような、行方不明に関りがある決定的な物的情報はなかった。分かったことと言えば、二人から受けていた印象からは意外なことだったが、部屋の状況から、実はイズミの方が神経質で綺麗好き、対してサナエはがさつで大雑把、ということ。人は見かけによらないものである。

 乱れた布団が敷きっぱなしで物が床に散らばっているサナエの部屋からは一点だけ気になるものを発見した。奥の壁に大きく鎮座ちんざしている箪笥たんすの、目線の高さにある一番小さい引き出しから、おそらくネックレスか細身の腕時計などが収められていただろう紅色の高級そうなジュエリーケースが、中身を空にして、こつんと一つだけ入っていた。

 試しに引き出しを全て引っこ抜いてみたが、奥に隠し扉があるような男心をくすぐる仕掛けなどはない。この村でネックレスや腕時計などの装飾品は身に着けていたら違和感として気付くはずだが、今までの彼女との対面時にそれを見た記憶はない。いや、昨夕のサナエが身に着けていたかどうか、薄暗い中で会ったので、どちらとも断定できなかった。でも普通に考えれば、クチナシ村らしからぬ装飾品を意味なく普段使いはしないと考える方が妥当と言える。もっとも、女装したところで女性の気持ちを理解することはできないため、僕には見当もつかいないような価値観をもって対外的な装飾に気配りする個性が絶対にないとは言い切れない。

 切り口を変えて仮説を立てた。はじめからネックレスなどは入っておらずジュエリーケース自体がサナエにとって重要な意味を持つもの、だとすると、ケースが空であっても特別不審な点とは言えなくなる。考えても仕方がないので、手にしていたジュエリーケースを引き出しに戻した。何がその人にとって宝物であるかは、他人には分かりづらいものだ。

 多少れてきていたことと、これ以上怪しげな行動を続けることに対する良心の呵責かしゃくと、スカートの裾から自分の足が伸びているあってはならない状況と、挙げればきりがない帰りたい言い訳ばかりが積もり積もっていき、「二人がここで不審死を遂げていなかったことが分かっただけでも十分!」と自分に言い聞かせてサナエ宅を後にした。

 自宅に着くまでの数十分間は、他人の家の中を勝手に歩き回ることの何倍も神経がすり減ったことは言うまでもない。


 自宅で着替えてからすぐ外に出る。目的地は集会所である。袋に詰めた女装道具一式を誰にも見られることなく運ぶ極めて重要なミッションだ。道中、数時間前にサナエ宅で会った組合員とすれ違った。僕をコオロギとして接していて、これは本当に信じがたいことだけれど、僕の変装は完璧だったようだ。

 集会所で例の女性職員に荷物を返却する。集会所を出てからは、自宅に帰ることなくそのまま南区の山道入り口に向かった。

 数日間のジョギングの成果だろうか、心なしか足取り軽くお話好きの老婆宅まで下りることができた。クロカワを探しに来たので老婆宅は素通りする。サナエ宅の捜索の結果報告をクロカワにしてしまって、こんな面倒事から解放されたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る