第1話 コオロギの話①
一つの音が出るとその次の音階はこれしかない、という法則みたいなものがあって、それを忠実になぞる口笛の音色は、いつも僕の耳をふやふやに溶かしてくれる。
普段であれば、それまで何かの作業に没頭していたとしても、目を閉じて、真っ直ぐに、音のする方角へ耳を傾けているところだ。視覚を
集会所から自宅までの往復の中で僕が最も気に入っている場所に差し掛かる。道の両脇を、
先日初めてこの風景を目にした時に、バラだ、などと
聴覚と嗅覚の両方で幸福を味わっていると、味覚にまで
「は? 口笛で円滑なコミュニケーションがとれるわけねえだろ」
「コミュニケーションをとりたくない、って思われている可能性は考えてないわけですね?」
はんっ、と鼻で笑い、ユウサクは「小生意気な新人をどう教育していこうか、とは常日頃から考えている」と言って僕の後頭部めがけて枝を投げてきた。
「おお凄え、今のを避けんのか。頭の後ろに目でもくっ付いてんのかよ気持ち悪い」
「しゃべってる途中で不自然に息を止めて力んだので、何か投げたのかな、って思っただけです。あと、ユウさんのお人柄を熟知する僕からすれば、もうそろそろちょっかいを出してきそうだな、っと思いましたし」
「その俺のお人柄ってやつは、詳しく聞いたら気分が良くなれるやつか?」
「ユウさんがどう感じるか分かりませんが、話し手の僕の気分は良くなれるやつです」
てめっ、と今度は僕の首に回そうとしたユウサクの両腕を、前に
「そんなことよりユウさん。お腹、空きません?」と、僕へのちょっかいが一向に成功しないことに無気になり始めていたユウサクを制しながら言った。お前もう怖いよ。と息を切らしながら僕の水筒を開けようとしていたので、彼の
「ユウさんの水筒の方がまだ三口分くらい重いですよ」
「なんだよそれ、どうして分かるんだっつの」
ぎょろりと僕を
「年寄りを
「あれ、僕と同い年では?」
「お世辞でもありがとうよ。……が、まかり通る年齢差じゃねえだろうがふざけやがって。お前今いくつだよ」
「二十代前半くらいだと思います」
「なんだよ、お前も自分の生まれ知らんクチかい。シュウの野郎もそうだって言うし、過去に闇背負ってるやつら多すぎだろ。どうなってんだよ日本は」
「シュウさんってさっき配給所の受付やってたやたら背が高い人ですよね。……確かに闇を背負っていそうですけど、僕の場合は単に数えてこなかっただけですよ」
「それが闇だっつってんだよ。普通は周りの奴らに誕生日を祝ってもらったりして自然と分かってるもんなんだって」
「ふうん、何かピンとこないな」
あの辺りで良いかな、と
「あれ、ベーコンいらないんですか?」
「ああ。お前のベーコン固くてな。いいからほれ、選べ」
ユウサクの前には、餅ともパンとも団子ともつかない
「あれ? 何これ、美味い」
「へへ、そうだろ。俺のおっ母の味、ってやつだ。塩も砂糖も使うからな、あんまり量は作れないけど、たまに食いたくなる」
「新触感です。なんか口の中でほどけていく感じ。味噌とか砂糖醤油とか合いそう」
「お、分かってるな、ねぎ味噌を薄く塗って食うともっと美味い」
「へえ……なんかユウさんて、変わった人ですねえ。そんななりしてめちゃくちゃ口笛上手だし、料理も、なんて言うか、シンプルで見た目不味そうなんだけどひと手間加わっていて実はそれなりに食えるって言うか。そっちの豆の煮物みたいなやつも食べたらきっと美味しいんだろうし。どっかの料理人とか、それかプロの口笛ミュージシャンとかやってたんですか?」
悪口を
「はいはい、相手に過去の説明を強制してはならない。ですね」
「違う。強制、じゃなくて、強要だ」
「……細か」
「細かくたってしょうがねえだろ。強制と強要とじゃ意味が変わっちまうっつーんだから」
「ふうん。どう違うんですかねえ」
「さあてね。村長が決めた法律なんだから村長に聞け。学がない俺にはさっぱりだ」
「うーん……。強制は相手の行動を支配する、ってニュアンスかな。強要は無理強いするって感じだったら、確かに意味は変わってくるかも。ま、何にしても、あの人が決めたことだって言うんなら異論はないかな」
僕のひとり言を聞いていたユウサクは、不機嫌そうに
「腐ってなけりゃ絶品なんだが」
「絶品? 元の味が想像できん。うえぇぇ」
「俺特性の豆のハーブオイル漬けよ。
「……レシピだけ聞くと確かに美味そうなのがなんとなく悔しい」
「棚の奥の方で寂しそうにしてたからよ、密閉してたしまだ食えるかなと思ったんだが。でもやっぱり駄目か。あぁ食料の保存問題だよなあ、電気がなくて一番不便なのは」
「どのくらい漬けてたんですか」
「覚えてねえよ。一年間くらいじゃねえの?」
「そんなにもつんですかオイル漬けって」
「もってねえからそんな味なんだろうが。保存料も着色料も不使用の正真正銘無添加食品だぞ。もって二、三週間だ」
「こんの
「犯罪者? 何でだよ」
「だってほら、この村の法律の一つの、奪う行為に
「俺は何も奪っていない」
「さっき飲み込んでたら腹壊してたかもしれない、って話です。もしそうなったら僕から健康を奪ったことになる」
「……ああ、まあ、確かに。危なかったな」と、ユウサクはあっけらかんと笑った。
クチナシ村は、日本国内の常識から見るとやや特殊な村で、治外法権と言っていいのか、この村独自のルールが、法律、という名目で定められていた。法律とは言っても、六法全書のように分厚く
ちなみに、この村の法律は全部で七箇条ある。例えば、クチナシ村法律の第一条は個人情報の保全を目的とした規定で、『相手に過去の説明を強要してはならない』とあり、
「しかし村に独自の法律って、なんか変ですね」
「ま、慣れりゃどうってことねえよ。そもそもこの村と村人である俺たちが平和に暮らしていけるようにするためのルールなんだから、それで
「その考え方には同意しますし今のところ窮屈には感じてないですけど、とりあえず、さっき法律違反をしそうになった人の発言ではないですね」と、ユウサクのいい加減さを指摘したつもりだったけれど、ユウサクはそれに気付かない様子で腐った豆の何かを土に埋めていた。
クチナシの花畑から緩やかに下ること五十分間前後で、自宅に到着する。反対に集会所へ向かう際には上り坂になるため、この倍は時間を要する。リヤカーを引かずに単身であれば、行きも帰りも半分未満で行けるだろうが、今言った時間は全て実際に測ったことはないため、事実と多少のずれはあるだろう。時計、あるいはそれに準ずる物品はクチナシ村には存在せず、時間は全て感覚か太陽の位置などを判断材料とした曖昧なものだった。そのくせ、カレンダーはある。とはいえ村民の誰かによる手作りのもので、月日の確認だけを目的としたシンプルなものだ。一日単位の時間は厳密である必要はないが、農業を
森が切れると、雑草が茂った平地が広がる。雑草は自分の倍もあるだろう高さを誇っているため、広がる、という言葉は
自宅に到着するも、一旦通り過ぎ、五分程進んだユウサクの家までリヤカーを引く。ユウサク宅はこの区画の一番奥だ。だみ声を発する喉の形状をしているだけあってか、荷台から聞こえるユウサクのいびきは相当なもので、それが彼の家の前に着いた途端にピタっと止んだ。日はまだ高かったが、やることがあったので、ユウサクとはその場で別れた。来た道を戻る。
僕が住まわせてもらっている家はもともと何かの商売を営んでいたような造りになっている。具体的には、南側に面した木戸は建物の一辺を埋めるように複数枚が連結していて大きく開けるようになっており、木戸の内側の土間が横に長く奥行きは狭い。そこに商品棚を並べれば、精肉店とか総菜屋のような仕上がりになりそうだった。元の住人については聞いていないし興味もない。見た目に反して隙間風とか雨漏りがない分、寝食をする目的は十分に果たせていて、不満はなかった。強いて不満を挙げるならば、建物に鍵などという
リヤカーを家の前に停車させ、歩き疲れた身体に
クチナシ村民は、贅沢を望めば働く必要がある。そして、ユウサクの話によると、村民はそれぞれがそれぞれの特技を活かした仕事に
少しの休憩、と横になっていたら、いつの間にか寝てしまっていた。意識が戻り、上体を起こして太陽の位置を確認すると、一時間近く経過していたと分かる。慌てて起き上がる。
常識人である僕は他人の家にお邪魔する時間帯として夜は適さないと理解しており、だから日がある内に何軒か仕事の算段を付けようと予定していたが、寝すぎてしまって、その予定が狂った。急いで集会所で受け取ったはずの書類を探す。が、「あれ? 確かここに……」というひとり言が空間に吸い込まれて消えた。荷物の下ろし忘れ、と思い
本当は目覚めの白湯でも飲んで落ち着きたいところだったが、急いでユウサク宅へ向かった。リヤカーをタクシー代わりにしていたユウサクに心当たりがないか聞こうと考えたからだ。ユウサク宅は、出入り口の引き戸が開いていた。
無職者と就業者とではどちらが偉いか、などは考えたくないが、僕の
書類をポケットにしまう寸前に、一瞬だけ手を止めて、客観的に自身を観察した。クチナシ村法律の第二条は『奪う行為に情状酌量の余地はないものとする』である。所有者の移転がなされる際には自分の行為から『奪う』を否定できる材料を見付けておく必要があった。書類の中身を確認し、それが間違いなく注文書で、『細井こおろぎ様』と僕宛ての記載もあったので、違法行為とは認められないはず。書類をポケットに入れた。
しかし、重大な問題は、法律がどうこうというものではなかった。
ユウサクが、姿を消していた。
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