チェーホフの銃とLGBTQ

 ここ数回、何気なく触れた“チェーホフの銃”と言う言葉について。

 端的に言えば、物語に登場させた銃はしっかり発砲させよ――つまり伏線はきっちり回収せよ、あるいは無意味な伏線は張るな――と言う考えです。

 一方で「回収しなければならない」と言う意味ではなく、単に伏線と回収の技法と言う解釈もあるそうですが、ここでは前者の意味として考えます。

 現実の銃は、そこに置いてあるからと言って必ずしも発砲される必要はありませんが、物語で意味深に置かれた銃はそうは行かないと言うことです。

 もっと言えば、置かれた銃のゴツさに対して弾丸の威力が弱いだけでもマイナスに見られがちです。

 前回ご紹介したFF16の薬売り少女における本当の問題は、回収されていないのではなく、振りに対してオチが弱かった事にあるのでしょう。

 

 さて、これも近況ノートのFF16日記で軽く触れましたが、作中でディオン・ルサージュ(イケメン騎士)が初登場した場面。

 FFシリーズで毎回、召喚獣の中で最強クラスの常連でもあるバハムートを擁する彼が、一大勢力のザンブレグ軍を率いてどう動くのか。

 否が応にも期待が高まるシーンです。

 国の内外で混迷を極める情勢の中、苦悩するディオン。

 そして、戦況の相談が一段落ついて繰り広げられる副官の男テランスとのラブロマンス。

 ここで初めて彼らが恋仲であり同性愛者である事が明らかとなるのですが、唐突すぎてリアルに「えっ!?」と言う声が出てしまいました。

 もしディオンかテランスのどちらかが女性だったら、そこまで虚を突かれる事は無かったでしょう。

 何の事前説明もなく男同士を二人見て、恋仲である事を予見することはまず不可能なのが現実です。

 ディオンかテランスのどちらかが女性だった場合、プライベートの部分では恋愛関係である予見可能性はずっと大きくなる筈です。

 フリとオチと言う言葉が示す通り、物語とはある程度、受け手に“予見”させる事でも成り立っているのですから。

 

 そして昨日、チェーホフの銃と言う言葉に触れた時、私がこの場面で虚を突かれた理由の正体も分かった気がしました。

 LGBTQと言うものが、当事者も含めてマイノリティであると認識している以上、それを物語に組み込むと言う事は必然性を要求されるものだからでは無いでしょうか。

 FF16において、ディオンが同性愛者である必然性は最後までありませんでした。

 それこそ、別にテランスが女性だったとしても成立してしまうのです。

 では、何故にディオンはゲイだったのか?

 これが現実であれば、寧ろ理由など要りません。

 残念ながら、物語においては理由が求められてしまうのです。

 声高に理由を求めないまでも「どうしてわざわざこの設定に? もしかして後々これが回収されるのかも?」と、無意味に意識をそこに割かれてしまうのが現実です。

 しかもこのディオン、そのセクシャルを踏まえた上でよくよく動きを見ていると、ジョシュアへの無意味なボディタッチが多く、一方で最終決戦前にミド(若い女の子)が出撃組の一人一人にハグする所でディオンだけがたじろいでいる描写をされていました。

 近頃ではポリコレ(創作で極力、差別に繋がる描写を排したり、マジョリティとマイノリティの差を埋める考え)と言うものもありますが、これでは寧ろ逆効果なのではと思います。

 異性愛者が恋人以外の異性にそうベタベタ触るものなのか? 性的対象外の相手に抱きつかれたからと言ってそんなに慌てる事はあるのか?

 自分に置き換えて見れば、ディオンに纏わるこれらの表現こそが逆に偏見の産物になってしまっているのは明らかでしょう。

 こうした不自然なポリコレ配慮さえなければ、死闘に赴くクライヴを見送るしか出来ないジルも、ディオンを見送るしか出来ないテランスも、その苦悩は同じだろうと思えます。

(元々あったドミナントの力を中途で失ったジルと、最初からディオンと比肩する戦闘力を持たなかったテランスでは、無念さの質こそは違うでしょうけど)

 ネットでの声を拾うと「イケメンで最強格のバハムートのドミナントで正義感溢れる人柄。唯一の欠点はホモであること」

「ディオンはゲイであるからこそキャラが立っていた」

 という意見も平気でのべられており、これが本当に性的マイノリティ当事者の望んだ世論なのかと首を傾げざるを得ませんでした。

 

 もうひとつの事例として、ディズニー映画のバズライトイヤーを思い出しました。

 バズライトイヤーが、光速飛行のウラシマ効果による時間経過のギャップで仲間達から取り残されていく……以上の詳細は各自で調べて頂くとして。

 バズライトイヤーの上官で友人のアリーシャ(女性)もまた、結婚して子供を授かるのですが。

 その結婚相手が同じ女性であり、なおかつ、子供を授かっている。

 作中、バズライトイヤーをはじめとして、アリーシャの相手が同性である事へのリアクションは皆無です。

 これに関しては明確にポリコレを意識しているのは明らかであり、同性愛は特別でもなんでもない、と言う表現だったのでしょう。

 しかし、この場面があったばかりに何ヵ国かでバズライトイヤーの上映が禁じられてしまったのはニュースにもなりました。

 つまり、いくつかの国で、ディズニーアニメの一つを閲覧する権利が剥奪されてしまったとも言えます。

 LGBTQの表現については、単に個人単位の問題に留まらず、宗教信仰の戒律にも触れるものです。

 また、パートナーが同性でも子供を妊娠出来た事についても何の説明もありません。

 科学のレベルが高い世界観設定上、何らかの方法はあるのだろうと解釈は出来るのですが、問題はこの作品のターゲット層が、小さな子供も含むであろう事。

 同性でも子供を授かれる、と言う誤解を植え付ける事にもなりかねないと考えると、寧ろ危険な表現では無いかと感じました。

 そしてやはり、その疑問が頭にちらついて、肝心のバズライトイヤーの物語への没入感を阻害してしまっていました。

 

 私自身が自作品でLGBTQを扱う場合、必然性を意識しているつもりです。

 このカクヨムで公開している作品では邪聖剣チェーンソー(GおよびB)と東京ラヴクラフトリゾート(Q=クエスチョニング=性自認が定まっていない)くらいですが、どちらも架空の精神特質や人物の生育環境の結果生じたものです。

 確かにBLや百合というジャンルありきから物語を考える切り口もあります。

 自作品でAI執筆も含めれば“色に縛られない私たち”もありますが、こちらはAIが提案した「百合小説を書く」と言う前提が先にきています。

 結果、むしろ世間一般の百合と言うよりはリアル同性愛寄りの話に仕上がりましたが。

 この辺の線引きもまた、非常にファジーで難しい所なのですが、かつて一世を風靡した山川純一(ヤマジュン)作品などは、そもそものターゲット層が同性愛者であり、作者本人も当事者であるそれ自体が必然性となっているとも言えます。

 “性的マイノリティ”の為に“理由”を書くのではなく“理由”あって性的マイノリティを書く方が、因果関係的に必然性は生まれやすいかとは思います。

 

 こう言うと、LGBTQは“ネタ”や“装置”なのか! と言う声も聞こえてきそうですが。

 ポリコレ的に考えると、古今東西数多の恋愛小説というのは「ネタや装置にして成り立っている」とも言えないでしょうか。

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