第3話
水道の蛇口をひねり、使い込まれた赤銅色のやかんに水をそそぐ。コンロにかけ、沸騰するのを待つ間、お茶の葉と湯呑、急須を準備する。戸棚の中には、母親がいつもお茶セットとお菓子を準備していた。母がいたころは、地域の隣人たちが家に集まることも多く、お茶の準備と茶菓子を客間に運ぶのは俺の役割だった。幼い頃、祖母が1日に2回、10時と15時にお茶の時間だといって煎茶を淹れていたため、いつからか俺もお茶の淹れ方を学んだ。そのおかげかお茶を淹れることは苦にはならなかった。今でも、たまに帰ってくる母親のために戸棚にはお茶セットとお菓子が常備されている。
厄介ごとを持ち込まれそうな予感はすでにしていた。
考えてみれば、彼は俺に対して強く出れるふしがあった。自分より格下だと考えていたのだろう。俺は元々意見を強く言うタイプではなかったし、言われたことにはあまり反論せず、従う方ではあった。だが、俺のような人間も多くいたし、わざわざ数年前に離職した人間のもとへ赴く理由にはならないだろう。
沸騰したことを知らせるかのようにやかんが鳴く。沸騰したお湯を湯呑みに注ぎ入れ、一度冷ます。急須の中のお茶葉に少し冷めたお湯を注ぎ込む先から透明な水が徐々に濁っていく。
小さな黒塗りの盆に、急須と客用の湯呑を一つ載せ、客間へ向かうと、彼は何の感情も抱えていないような眼で部屋の壁をじっと見つめていた。先ほどの暗闇の中で顔しか認識していなかったが、蛍光灯の下で照らされる彼の姿は、かつての彼とは異なっていた。スーツにはしわがいくつも入り、ひげのそり残しと襟が少し黄ばんでいるように見えた。いつも、糊のきいたワイシャツとしわ一つないスーツを羽織り、洒落たネクタイを首にしめた姿とは比べようにならない格好である。
そっと机の上に盆を載せ、急須から湯呑にお茶を注ぎ込む。濁った薄い緑が湯呑を満たす。茶柱は立たなかった。
「…何か、俺に用が合ってここまで来たんじゃないですか?」
湯呑を彼の前に置くとそう問うた。
「…いや、元気にしているか気になってな、ただ純粋に様子を見に来たんだよ。家にいなかったら帰るつもりだったんだが、実は車が壊れてしまったみたいで帰れなくなって、夜遅くまで待たせてもらってたんだ。申し訳ないが近くの駅まで送ってもらえないか?」
「え、故障ですか?駅まで送るのは別に構わないですけど。もう保険会社には連絡したんですか?」
「…あぁ、知り合いの中に保険会社に勤めてるやつがいてな。連絡を取ったんだが、今すぐここには来れないらしくてな。俺も明日仕事があるから、次の休みまでここにおかしてもらないか?」
「それは大変でしたね、、大丈夫ですよ。家の裏はうちの土地ですし、しばらくあのままでも。」
「ありがとう、助かるよ。」
湯呑を両掌で抱えながら、先ほどよりはにこやかに笑う彼に少し俺も安心する。本当に困って玄関先で立ち尽くしていたのだろう。俺は少し構えすぎていただけだったようだ。
車の助手席に乗せて、駅へ向かうまでお互いの家族の話をしながら、ともに時間を過ごした。
結局、来週の日曜日の正午頃に訪れる約束だけして、連絡先は交換しないまま別れた。
家に帰ってきた後に残ったのは、口のつけられなかったお茶だけであった。それ以外は、いつもと変わりない一日であったかのように自分を迎えた。
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