第2話

順調に思えたそんなある日、彼は訪れた。都市からやってきたのは、かつての会社の直属の上司だった。少しのパワハラ気質と上には媚び諂い、下の仕事をさも自分の業績であるかのように言いまわす癖を除けば、そこまで悪い人物ではなかった。小心者でもあったため、たてついてくる後輩には勝てないところが人間臭いなと思っていた、そんな記憶がよみがえった。




会社を離職した時点でもう縁は切れていたと思っていた。そのころ使っていたスマホは契約をきり、新たなスマホに買い替えた。都会で形成された薄い人間関係は、スマホだけで構築されていたようなもので、あの都市と俺を繋ぐものはもう残っていないと思っていた。




「久しぶりだな、山本。」




仕事を終えた俺を玄関先で出迎えたのは、俺よりも疲れた顔に浮かんだ少し歪な微笑だった。


自分のテリトリーで、会う想定をしていなかった人物を出迎え、もしかしたら俺も左右非対称な笑みを浮かべていたかもしれない。うろたえている俺に近寄り、元気だったかと肩をたたく上司は記憶の中の彼とは別人のようだった。痩せたのか、顔の肉が削げ落ちたようだ。




「狭山さん、お久しぶりです。俺は変わらずですよ、急にどうしたんですか。」




「いや、久しぶりにお前の顔が見たくなってな。元気そうでよかったよ。」




「狭山さんも元気そうで何よりです。ここへはどうやって?」




午後19時にここから都市へ戻れる手段など車以外残っていない。最寄りの駅まで、40分とかかるのに、そこまでのバスの最終便は18時を最後に途切れていた。ここの住所は、会社に提出していた資料から導き出したのであろうが、わざわざこんな辺鄙な場所へ来たことが不審以外の何物でもなかった。その理由が俺の顔が見たかったからであるから、なおさらだ。




「車だよ。駐車場所に困ったから、すまんが、家の裏におかしてもらっている、、」




家の裏は山裾が広がっており、野草が咲き乱れていた。そこに車を置いてきたのであろう。都会では、駐車代として1時間300円等と場所代がかかるが、土地が溢れているここではそのようなシステムは成り立たない。同じ土地であるのに、田舎と都会では価値が異なるのだ。ここでは、もはや人より動物たちが所有する土地が多いのではないだろうか。




正直、ここで「それじゃあ、失礼します」といって、俺一人家に逃げてしまいたいところであった。会社での関係は、親密とはいい難かったし、どちらかといえば目を付けられている方だったと思う。あまり自己主張できない俺を軽視しているのは感じ取っていた。彼との最後のやり取りは離職の手続きをした時だったが、いちゃもんをつけられず会社を去ることはできたのは、彼が新婚時期で気分が良い日々が多かったからだったと記憶する。その頃、俺の同期であった女性と結婚したばかりだった。




追い返す言い訳は、頭の中にいくつも浮かんだが、結局口から出ることもなく消えた。仮にも過去の上司である彼をこのままさようならとできる度胸はなかった。


その時点で選択を間違っていたのか、この上司との出会いの時点で間違いだったのか、今となっては分かるはずもない。




玄関の引き戸を開け、すぐ横の客間へ向かうと、後ろに彼がついてくる気配を感じた。母親が介護ホームに入り、月に1、2回程度しか家に戻らなくなってからは、この部屋がほとんど使われることはなくなった。障子を開けた途端、畳と少しの埃の香りが匂った。電気をつけ、床の間の前の席を進めると、座るのを確認する間もなく、入り口に立つ彼とすれ違うように部屋をでた。


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