幸福の女神
海月 信天翁
「幸福の女神」
日本の中心、埼玉県に穴が開いてから十余年――
異次元に繋がったと思しき『穴』から、概念を食べる怪物が溢れ出るようにあふれ出るようになった。
周辺自治体は職員を動員し、超常の怪物対策に当たらざるをえなくなった。
「で、新年度一発目のターゲットが『幸福』喰い? 超強概念じゃん。開幕早々ラスボスじゃん」
望遠レンズで目標をサーチしながら、うんざりした口調で愚痴っているのはS市の対策課職員、日向。
S市に対策担当課が出来て以来、業務を続けているベテランである。
その傍らで、中間報告書から対象の概要を確認しているのは、四倉。
日向と同じく課の創設時に配属された熟練者だが、公務員としての経歴は日向の後輩にあたる。
「そうですね。マジで強力っぽいですよ今回。ターゲットのあだ名、サチコにします?」
「んー。それがラスボスの概念名称なこと知ってる層は、限られてるんじゃないかな」
日向はへらっと口元にだけ笑みを浮かべた。
極限の現場最前線でありながら、軽口を叩ける今の環境が、彼女は嫌いではなかった。
危険手当込みの給与はそれなりに高額だったし、超常怪物を対処さえできれば日頃の業務は少ない。
何より、公私ともに頼りになるパートナーが見つかった。
レンズから視線を外して隣に目をやると、四倉も冗句が通じたことが嬉しかったのか、柔和な笑顔を返す。
「じゃ、行きますか」
「はーい」
対時空ロケットランチャーなどの重装備を担ぎ、両名は立ち上がった。
「『幸福』喰いってのは間違いないんだよね?」
狙撃ポイントに着いた日向は、スコープで標準を合わせながら四倉に声をかける。
彼女はスコープに連動させた小型ミサイルを調整しながら同意した。
「ほぼほぼ確定ですよ。ネットじゃ可愛い犬猫の画像とか喰われてるみたいです」
「酷いな。市民の皆さんのささやかな幸福を奪うなんて」
「そうなんですよ。しかも存在規模の割に浸食範囲が大きくて。
今は無人区域に封じ込められてるからまだマシですけど、これ以上デカくなったら本物の犬猫たち愛玩動物が喰われるかも」
「怖っ」
被害を想像して身震いする。
まだ肉眼では豆粒ほどにしか見えないが、超常怪物は乗用車と同等の大きさにはなっている。
今までの事例からすると、一軒家程度のサイズになるころには移動を開始するはずだ。
「……っていうかさ、『幸福』って概念の範囲が広いよね」
「そうですね。愛玩動物はもちろん、娯楽なんかもイカれてますし、美味しい食事を出す飲食店も丸ごと喰われますよね。
最初に出現したのは市民の寝具の上ッポイって報告も上がってますし」
「見境無いなー『幸福』」
畏怖をはらみつつ、ターゲットに標準を合わせる。
外形上は黒いマリモのようなモコモコとした球体だが、性能はまさにラスボスと言える悪食だ。
日向は最終調整を済ませると、ふと気になって横目で四倉を見た。
「由美も気を付けなよ?」
つい、業務中なのに下の名前で呼びかけてしまった。
四倉も驚きの眼のまま日向の方を振り返る。
多少照れ臭くなったが、最後まで言っておくことにした。
「いや、あんたの傍にいることが私の『幸福』だからさ」
途端に、四倉の顔が赤くなった。
耳の先まで茹で上がらせて、雑念を払うように頭を振り、目を合わせぬように四倉は自分のスコープで目標を見た。
「そ、そそそそんなこと言うなら先輩も気を付けてくださいよね!」
日向はもう一度、へらっと口元だけで笑った。
そして――
日向の頭が喰われた。
「は」
息が漏れるような声はどちらから出たものだったか。
次いで日向の白いデコルテが、豊かな胸が、引き締まった二の腕が、上半身すべてが、喰われた。
スコープを通じて超常の怪物が触手を伸ばし、日向を捕食している。
四倉が数瞬遅れて認識したときには、日向は足先まで食べられていた。
深淵を覗いているとき、深淵もこちらを覗いている――
超常の怪物を見つけたとき、怪物もこちらを見た――
「は。は。ははははは」
まず四倉が出来たのは、照準済みの小型ミサイルのスイッチを押すことだった。
「――ということがありましたので、当課ではプライベートの恋愛にも申告義務があります」
終了した新人教育用VTRの後を継ぐように、教育係の職員は告げた。
「敵は概念を喰う化け物。そして概念によっては人の主観で左右されますので――」
説明を続けるが、当の新人達はあんぐりと口を開けて呆然としている様子だった。
人が捕食される場面を見ることはそうそう無いだろうから、無理からぬことではあったが。
と、一人の新人がおずおずと挙手をした。
質問かと判断した教育係は指差して発言を許可する。
「あの……今のVTRって……」
「一部再現もありますけど、本物ですよ」
「っていうか、登場してた後輩の人って……」
新人たちの視線が教育係の名札に集中する。
『主任 四倉』
「ワタシですよ」
事も無げに答える。
静まり返った場内に向けて、「他に気になったことは?」と四倉主任が促すと、小さな呟きがあった。
「あの二人、女性同士じゃ……」
「それがなにか?」
他の質問は上がらなかった。
「今年も当課志望はいなさそうですねー」
新人教育研修の休憩時間、パックイチゴ牛乳を啜りながら四倉主任は独りごちた。
彼女が述べた補足に、新人たちは完全に息を呑んでいたことを思い出す。
「最後になりますけど、VTRの『幸福』の概念喰いは、まだ討伐しきってません。弱体化しただけです。
さすがラスボスってカンジですよね?」
締めの言葉は冗句のつもりだったが、完全に逆効果だったようだ。
生半可な覚悟の新人を預かるよりはマシと、彼女は自分に言い聞かせることにした。
「『幸福』は絶対ワタシが殺すんでいいんですけど」
柔和な笑顔を浮かべる。
あの日のことを思い出すと、四倉はこの顔になってしまう。
『幸福』が先に捕食したのは日向。
傍にいることで幸福を感じていたのは四倉の方。
「自分が愛されてるより、自分の方が愛してること、こんなカタチで証明されるとはね」
何度目かの殺意と幸福の確認を終え、四倉はイチゴ牛乳を飲み干した。
幸福の女神 海月 信天翁 @kaigetsu_shin
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