安心出来る自室。


 今日の講義も無事終了。

 ありがたいのかそうでないのか、山も谷もない平坦な毎日。いじめられず平和に過ごせているだけ良いとも言える。


「いや……昨日は平和じゃなかったな」


 昨日、公園であった出来事。

 見知らぬ生意気な少女に絡まれて、大変面倒であった。ああいうイレギュラーな事件が起きるから外の生活は安心出来ないんだ。いっそ引きこもってしまおうか。と、根暗さ極まる考えに偏っていく。それこそ、ある種のゴールかもしれない。まだ嫌だけど。


「うん、帰ろう」


 もう同じてつは踏みたくない。

 早く帰って、あの少女とは二度と会わないようにしよう。

 ということで、帰り支度をさっさと済ませる。

 オレが何をしても気に留める人はおらず、誰も関わろうとはしてこない。若者特有の活気溢れる喧騒の中、オレだけがぽつんと孤立しているのがよく分かる。寂しいなんて思わないが、劣等感は刺激される。この空間にいるだけでも苦痛だ。

 オレは足早に講義室を抜け出し、脇目も振らずに屋外へ。

 大学を出て最寄りの駅まで徒歩十分。そこまでノンストップで早歩き。

 近所の学生だろう女子高生達の耳障りな笑い声。遠くから聞こえる体育会系の青春を謳歌おうかする掛け声。そして幸せを見せびらかすように手を繋いで寄り添い歩くカップル。その全てに虫唾むしずが走る。オレが手に出来なかった、奪われた輝きを見せつけるな。

 ICカードを改札で叩きつけるように読み込む。物に当たったところで意味ないのに、積もり積もった怒りがふつふつ沸き立って仕方がない。

 これだから外は嫌なんだ。人生を楽しんでいる人間ばかりで、相対的に自分の無価値さに虚しくなる。不意に電車の前に飛び込みたくなる気持ちも、分からないでもない。

 もっとも、さすがにそこまで思い切りはよくないので普通に乗車するだけだが。

 二駅分乗った先の地元までは特にやることはなく、ただ暇潰しにぼーっとスマホをいじるだけ。降りてからはどこにも寄らず、栄えた場所を避けながらそのまま直帰。

 元々陰キャらしくインドア派なので、外に用事なんてさっぱりないから特に苦でもない。

 やはり家でまったり『おうち時間』をするに限る。

 家の中には、オレを傷つける存在なんていないのだから。


「ただいまー」

「あ、おかえりー」


 自宅の居間ではオレの母さん――灰原美代子みよこがごろごろしている。暑くてやる気が起きないらしく、毎年夏頃になるとフローリングの干物ひものと化している。薄着にエプロン姿と、家事をバリバリやります感ある格好だが、真逆の雰囲気を滲ませていた。

 まったく、母さんのぐうたら具合には毎度感心させられる。寝転がっている間は動きを最小限に、近場なら転がって移動している。徹底的な省エネで、体に熱がこもらないようにしているのだ。まるでナマケモノ、そのうち背中にこけでも生えるんじゃないか?ずぼらなのはオレも同じなので文句を言える筋合いはないのだが。

 そういえば最近部屋の片付けをしていなくて、部屋が魔窟まくつと呼べるほどに汚くなっていたな。もっと暑くなってやる気が完全に根絶される前に、少しは改善しておこう……そう思って二階にある自室の扉を開けると――


「……は?」


 ――部屋中には清々しいまでに散乱した漫画本。そしてその中心にはボブカットで薄着の女の子。昨日の生意気少女だ。

 その子が何故かオレの部屋にいて、しかも勝手に読書中だ。


「お、おおおおおまっ、え!? どっ、どどど、どうして!?」


 あまりにも唐突に、理解不能な光景が視界に飛び込んできたせいで、頭も口もさっぱり回らない。


「あ、お兄さんおかえり~」

「おっ、おかおか……おかえりじゃねーってっ!?」

「し~っ。大声出すとママに見つかっちゃうよ~?ね、良太お・に・い・さ・ん?」


 小悪魔っぽくニヤニヤしながら、少女がわざとらしく人差し指を立てる。アニメのワンシーンならハートマークが飛んでいそうな仕草だが、現実でやられると絶妙にイラッとする。一発殴りたい。

 あと何でオレの名前を知っているんだよ。腹立つな……って、玄関の表札を見たのか。それは納得。


「ふーーーっ……。一旦落ち着こう、落ち着こうか」


 冷静になれ。沸騰しかけで駆け巡っている血流を冷ませ。

 状況を整理しよう。

 オレは大学から帰ってきた。

 今日はどこにも寄っていない。

 なのに昨日の少女はオレより早く家にいる。

 はい、意味不明。


「お、お前っ……何で、こっここにいるんだよ?じゅ、住所どこで……?」

「あ~、それはね。昨日お兄さんの後ろをこっそりつけてたから。だってお兄さん、ぜ~んぜん気付かないんだもんっ。きゃははははははっ!」


 マジかよ。こいつ、あの後オレをずっとストーキングしていたのか。しかも直接声をかけるんじゃなくて、こうやって次の日にこっそり不法侵入するなんて。子供のくせになんて悪質。泥棒どろぼうかスパイの才能があるぞ。即日採用されそうだ。


「で、でも鍵は……!?」

「ん? 開いてたよ? お兄さんのママって不用心だね~」


 そりゃそうだ。オレが帰宅した時も開いていたもんな。

 じゃあガバガバ玄関からこっそり入って、母さんにバレないようにオレの部屋に潜伏していたという訳か。完全に空き巣の手口だ。夏場だからといってあっちこっち開けっ放しは危険だな、うん。鍵はしっかり閉めておきましょう。


「ああ、畜生ちくしょう迂闊うかつだったよ、くそ」


 親子そろってずぼらな所が悪い方に作用した。まさかこんなちびっ子に付け入る隙を与えてしまうなんて。……いや、そもそもこいつが不法侵入をやらかしているのが悪いんだけどね!?


「お前、これ……は、犯罪って分かっているよな……?」

「んー、そうだねー」


 少女は全く悪びれず、興味が赴くままにオレの漫画を読み漁っている。


「そ、そうだね……って。けけ、警察呼んでもいいんだぞ?」


 ポケットからスマホを取り出し、いつでも通報可能にする。小学生が恐れるものと言ったら親と先生そして警察。いつの時代も変わらない絶対のルール。これでビビって逃げ出すだろう。と、甘く考えていたのが間違いだった。


「してみれば~? そしたらあたしは『お兄さんにいたずらされた』……って言っちゃうだけなんだけどぉ?」

「はぁっ!? おま、ちょ、何言って……!?」

「それにぃ、あたしはまだ子供だから許してくれるはずだも~ん。お兄さんはどーだか知らないけど?」


 こンのクソガキ、自分の立場を利用して脅迫してきやがった。

 確かにこの状況を一目見たら、大抵の人はオレが彼女を誘拐ゆうかいしてきたとしか思わないだろう。たとえ無実だと証明出来たとしても、通報されて話題になった時点で手遅れだ。オレの信用は地の底までちる……元からないに等しいけれど。

 つまりオレはもう八方塞がり、手も足も出せなくなってしまったのだ。


「それでどうするの、お兄さん?通報する?」

「…………ぅぐ」


 少女はねっとりと品定めするように、オレの全身を見つめる。まるで舌なめずりするような、湿っぽい目つきで。オレが反抗出来ないと知った上で。


「ふ~ん……。勇気がないなら~、あたしが代わりにツ・ウ・ホ・ウしてあげよっか?」


 スマホを手中に収めようと、華奢きゃしゃな手が伸びてくる。

 不気味なほど滑らかに。背筋が凍えるような感覚を覚えるくらいに。


「いっ、いい! やらなくていいっ! オ……オレも通報しないからっ!」


 裏返った声で無様に叫んで、スマホを抱えて身を縮める。

 ああ、オレは何をやっているんだ。一回り近く年下の少女にいいようにもてあそばれて、まるで抵抗する力すらない小動物みたいに震えて。

 どっちが弱者なのだろうか……もう滅茶苦茶めちゃくちゃだ。


「な、なぁ……おま……お、お前は、な、何がしたいんだ……? オ、オレに何を……し、してほしいんだ……?」


 恐る恐る顔を出して、オレは少女に問いかける。


「んー、そうだね。とりあえずぅ、あたしの暇潰しに付き合って」


 だが、返ってきたのはまるで子供の遊ぶ約束みたいな、軽い内容だった。

 そんなわけない。これだけの犯罪をしでかしているんだ。深い意味があるに違いない。じゃないとあまりにも拍子抜けだ。


「……ご、ごめん。それ、どっ、どういう意味?」

「だからぁ、あたしの遊び相手してってこと。そしたら通報しないでいてあげる」


 聞き直してみたが、やはり遊びの範疇はんちゅうと捉えられる返答だった。

 ……あれ?これ、普通にそのままの意味っぽいかんじなのか?


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