僕は彼女に何を思う

鈴鳴 桃

第1話

二日目

病室の前で深呼吸をして人差し指で無理矢理頬を上げて笑顔を作る。

僕は静かにドアを開けて病室のベットの上で本を読んでいる女性に声をかけた。

「今日も来たよ、り、璃奈さん」

「あ…こんにちは宇久井さん」

彼女は僕が来たことを知ると読みかけの本に淡い青色の栞を挟んで机の上に置いた。

「やっぱり、天城さんじゃだめ?」

「はい、これでも相当譲歩したんですよ。出来れば呼び捨てがいいのに」

「呼び捨ては無理です。その本はどこまで進みました?」

「今クライマックスに入ったところなんです」

目を輝かせながら彼女は言った。その姿はどこか幼さが混ざっていて未だに胸が少し飛び跳ねてしまう。

「なら、最後まで読んでていいよ。待つから」

「いや、本を読むより人と話すのが好きなので大丈夫ですよ」

「邪魔じゃない?」

「じゃないですよ。どうぞ椅子に座ってください」

そういわれるがまま、彼女の横に置いてある丸椅子に腰を掛ける。

「今日の学校はどうでした?」

「とてもいい睡眠学習ができたよ」

「何してるんですか。私は学校に行きたいのに」

彼女の表情は喜怒哀楽に反応してコロコロ入れ替わる。

「私のところに来ないでしっかりと授業を受けてください」

「でも僕が来ないと天城さんは暇でしょ」

「私のことはいいんです」

そう言われた彼女はむすっと顔をさせてふてくされている。

機嫌をなおすために早めに切り札をきろう。

「今日はね、差し入れを持ってきました」

「えっ、どれその紙袋の中身?」

何てあつかい...調子がいいんだ。こっちがあいからわず心配になる。

「開けてみていいですよ」

紙袋を受け取った彼女は急いで紙袋の中身を取り出した。

「本だ。本当にいいの?」

「天城さんが喜んでくれたなら何よりだよ」

「なんで、私が読み終わりそうなのを知ってるんですか?

はっ、もしかしてストーカー」

疑いの目線をジトっと僕に向けてくる。

「偶然だよ。昨日本を読むのが好きって言ってたから来る途中で買ってきたんだよ」

「そうですか。でも、こんなタイミングがいいのはどこか裏があるように感じますね」

まだ、この本を買ってきた僕を疑っている。

「だから偶然だって」

そうごまかしている僕の顔を見つめていた彼女は耐えきれなかったのか突然笑い出した。

「今回は偶然ということにしてあげます」

「ところで、宇久井さんは本を読まないんですか?」

あげた本を丁寧に机の上に置いた。

「僕はあまり読まないかな」

「なら、この本を貸しますよ」

天城さんがさっきまで呼んでいた本を持ち上げている。

「いいの?」

「私の本ですからいいんです」

「なら読み終わったら、借りるよ」

「待っててください。次来た時には貸しますから。それより、なんでこの本なんですか?」

「嫌いだった?」

「いえ、宇久井さんとは無縁の本だから」

「無縁で悪かったな。僕の知り合いがこの本がおすすめだって言ってたから」

「そうですよね」

「なんで納得する」

天城さんはうんうんと頷いている。

「多分その人は本が好きなんですね」

「あぁ、とても本が好きな人だよ」

「いつか、本についてその人と語り合いたいです」

「案外、僕の近くにいる人だよ」

彼女と話すのが楽しくて少し彼女にいじわるをしてしまった。

そう返すと彼女は僕の言っている意味を考えだした。

「えっ、近くの人ってことは私のこと。いや。ん?」

どうやら彼女には難しかったのか今にも頭から煙を出しそうだ。

「気にしないでいいから」

「わかった。宇久井さんのお母さんだ」

自信満々に言い切る彼女の顔は全くの見当違いで、笑いがこみ上げてきた。

そんな僕の顔を見て彼女はきょとんとした顔をしている。

「いつか教えてあげるよ」

「私が病院を退院するまでに教えてください」

「んー。じゃあ、その本を読み終わったら教えるよ」

そう言って僕はあげた本を指した。

「なら、明日までに読み始めますよ」

「読み終えたら言ってね」

「まかせて」

いきなり大声を出したからか、彼女は咳き込み始めた。

「大丈夫か、先生呼ぶか?」

僕の方に手を広げて制止するように求めてくる。

「何でも言ってくれ」

「な、ならもう少しここにいてください」

「わかった」

「次の差し入れはゼリーがいいです」

「わ、わかった」

「キスしてください」

「わか…や、それは無理だ」

彼女の突然の申し出に流れでわかったと言いかけてしまった。そんな、慌てふためく僕を見て彼女はおなかを押さえて笑っている。見えなくてもわかる、僕の耳は真っ赤だろう。

「もう、冗談ですよ」

「良かった、本気にするぞ」

「本当にします?う、ぐ、い、さ、ん」

「わかった、帰る」

僕は、あきれながら言い返した。

「待ってください私の言ったことは全部嘘ですから」


その後は看護師に追い出されるまで彼女と話していた。


五日目


金曜日の昼下がり、雨がアスファルトを黒く染めていく。そんな中コンビニでかったシュークリームが入った袋をぶら下げながら病院へ向かった。受付の横を通りすぎて三階まで階段を上る。病院独特の匂いがする廊下を歩いていると、目的の病室の目の前に着いた。

深く深呼吸をして頬を無理矢理持ち上げて笑顔を作る。何回も繰り返し、病室に入るためのルーティンとかしている。

「やあ、今日も来たよ」

「来てくれたんですか。どうぞ椅子に座って下さい」

「今日ね、精密検査の結果を聞いたんだけど聞く?」

「いや、大丈夫」

「なら聞いて驚け、全くもって良好ではない」

なぜか天城さんは自信満々の顔だ。

「え?」

良くなるはずじゃ。

「だから、良好ではないって」

「悪化したの?」

「いや、もう余命がほとんどないって」

僕とは目を合わせてくれない。ただ、雨が降っている景色を窓越しに見ていて表情が見えない。

「明日も生きている補償はないって」

彼女は淡々と言葉をこぼすだけだった。

「…。」

何を言えばいい。

励ましの言葉か。

話題を変えるか。

いや、寿命が近づいたわけではないはずだ。

いろんな選択肢が頭を駆け巡る。

「だからね…もう」

もうほとんど声がかすれている。最後の方は聞きずらかった。

「僕には何も出来ないのか」

「…ぷぷ。ふはははは」

見上げた彼女は口を押さえながら笑っている。それはもう大爆笑でこの部屋で僕だけが疎外感を味わっている。

「え、余命は」

「明日も私は生きてるよ」

彼女はまだ笑っている。

「病状は」

「それは本当だけど少しずつ回復傾向にはあるって」

「はぁー。本気で心配したんだから」

心配して損した。でも、冗談で良かった。

もしもう一度彼女を失うことになるなら、それは世界の終わりとほとんど一緒だ。

「ごめんね、昨日ドッキリ番組見てやりたくなっちゃって」

「それに、宇久井さんの顔色がいつもよりよくないし…」

「ん?」

僕にはギリギリ聞こえる声だったその言葉を僕は聞こえないふりをした。

最後に彼女が言おうとした言葉を遮るように返事した。

聞くのが怖かった。

「あぁーもういいですせっかくの差し入れは僕が目の前で食べます」

彼女が先ほどのことをごまかそうとしてるのにのっかった。

「それはないって」

「なら、今後は僕を心配させる嘘は言わないでください」

「はい。だからそのスイーツをください」

「約束ですからね」

「そこまで心配ならこの日記帳に書いておきますよ」

ペンが白いページの上を駆けている。二行目の途中で止まると勢いよく持ち上げて僕に書いたことを証明するようにそのページを見せつけてくる。

しっかりとそこには『宇久井君には絶対嘘をつかない。特に心配させたらお菓子がもらえなくなる』っときれいな字で書かれていた。

なんか僕のことよりスイーツがもらえなくなることの方が重要のように見えるのは僕だけだろうか。

でもそんな事よりもその上に書かれている事が気になった。

『シュークリームを死ぬほど食べる』を一つ目に彼女のしたいことだろうか、それが何個か書かれていた。

その中の一つにあった。

―彼に約束を守ってもらう。

わからない。

なぜ、今目の前にいる彼女が約束のことを。

なぜ彼女がこれを書いているのいるか。

思考がまとまらないどころではない、一瞬ですべてが脳も心臓も機能をシャットアウトされる。

ただ無心で、体が動かしたいように動かす。

僕の指先は消えかけている文字の部分をそっとなぞる。

「え、どうかしたんですか?」

どうかしたじゃない、真ん中に書かれているその一文は何だよ。

「ま…」

口から溢れようとした言葉は彼女を見て引いていく。

多分見えてないか、いつ書いたか知らないだ。

「真ん中の約束って覚えてるの?」

「ん、これでしょ。」

彼女の指先はその一文を指している。見えている。

「なんか、それだけ他のと違う気がしたから」

「いつ書いたかも誰のことを言ってるかはわからないの。でも、消しちゃいけないの。例え相手が覚えていなくても私まで忘れていい理由にはならないから」

なんだ、彼女も約束の内容は知らないのか。

でも、約束の内容を覚えていなくとも彼女は変わらない。

自分ではない誰かのことを第一に考えている。

―君は、私の事を優先してね。

わがままで自分勝手で少しどころではなく変わっていた彼女。

頬に雨水がついていたのかぽたりと水滴が流れ落ちていく。

止まらずに次から次へと頬をなでていく。

「どうしたんですか、急に」

彼女は慌てて手元にあったハンカチで僕の頬を拭う。

「なんか悲しいことでも思い出しましたか?」

自分の涙の中に一瞬、走馬灯のようなものを見た。

脳裏に璃奈との記憶が流れ出す。おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお追加分

すでに脳は腐り落ちている。体はさびていて、壊れている。

でも最後に何も残っていないと思っていた。

一度は手の中からすべてこぼれ落ちてしまったとそう思っていた。だが、かすかに残っていたそれは確かに残っていた。

あふれ出る感情の中で一つだけ分かった。

僕は彼女とした最初で最後の約束を守らなければいけないらしい。

例え、その時を知る人が僕だけでも。

「落ち着きました?」

「ごめんね、いきなり」

「理由は聞きませんが、このシュークリームをどうしてくれるんですか」

確かに彼女の毛布の上にべとっと食べかけのシュークリームがついている。

多分、突然泣き出した僕に驚いて落としたのだろう。

「次来る時にまた買ってきます」

「よろしい。だからティッシュを取ってください」

その後は何もなかったように話していた。

つい、一時間前のことなのに遠い昔のことのように思える。

まるで神様に都合のいいように記憶を操作されたように色があせてしまった。

ただ彼女は最後嫉妬しているように見えた。

もう大丈夫だ。例え僕一人でも約束は果たそう。




零日目…

……ねぇどうしてだ?

誰でもいいから教えてくれ

僕の今の状況を説明してくれ。

その日はいつもと変わらない日常の中の一日だった。

強いて言うなら、その日はデートの前日だった。

付き合い始めて明日でちょうど一年経つからか、普段のデートよりも心がうるさく騒いでいた。多分今日の夜は明日の事で彼女の事でまともに眠れそうにないって思っていた。

今思え場確かに彼女のことで寝れなかった。

璃奈へのプレゼントを四苦八苦し三時間も悩んで決めたものが入った袋を揺らしながら足早に家へと向かっていた。

駅から少し歩き町並みに入り、一人だけの静かな世界の中を突然一つの連絡が入った。

―璃奈が倒れた。意識不明の重体でもう目を覚ますことはないって。

ドスン。

あまりに唐突すぎる事後報告に手に持っていた袋を落としてしまった。

電話越しから聞こえたその言葉は、一瞬で僕を絶望へと突き落とすのには十分すぎた、いやおつりがあり余るほどだった。

一体何が起きているのか。

いい冗談なのか。

疑問が頭を支配をしていく。

電話の相手はそれ以上は教えてくれはしなかった。

そもそも、僕たちが付き合うことに反対だった彼女の母は、彼女から僕を遠ざけようとしていた。僕が質問し返す前にぶつりと電話は切られてしまった。必要最低限も僕に教えてくれなかった。ただ事実だけを一方的に押しつけてられただけだったでも、言っていたことに嘘はないと思えるほど相手も取り乱していた。。

「夢か…」

ぽつりと口からこぼれ落ちた言葉。

夢だと思った。夢だと思いたかった。夢としか思いたくなかった。

心も体もその事実を受け入れようとはしなかった。


その帰りどこの道を歩いたかは覚えていない。

それでももうろうとする意識の中、家には帰宅できていた。

ただそのまま玄関で崩れるように倒れてしまった。

薄れゆく意識の中で、僕は神様に願ってしまった。

―何を失ってもいい、彼女が目を覚ましてほしい。

叶うわけがないし、僕がこれ以上失うものはない。

そんな馬鹿な事なんか考えるほどに自分は壊れようとしていた。

だが、時間は今日も止まることはない。

僕が彼女の入院している病院を知ったのはその日から二日後、彼女の妹からのメッセージでだった。


二日後の月曜日

彼女は目を覚ました。機械に囲まれた中でうっすらとまぶたを持ち上げた。

その事実を聞いたとき、涙があふれ出した。

彼女が目を覚ました時病院にいた僕はそのまま彼女の容態を聞くことになった。

「璃奈さん…」

僕の問いかけに彼女は不審な目を向けるだけだった。

医者は淡々と現在の状況を確認する中で彼女の容態に対して一つの答えをくれた。

その答えは、最も最悪なものだった。

「記憶喪失ですね。それも一部の人間関係だけが消えている、いや忘れているようです。

事故にあう前に強く意識していたのでしょう」

ほとんどのことをはっきりと覚えていた。通っている学校は所々ではあるが医者や、家族と話す中で回復した。

でも、

「彼のことは…わからないんです」

僕に関するすべての記憶がすべて消えている。都合のいいように置き換わっていたり単純になかったことになっている。

「彼のことを見てると何か思い出せそうなんです」

彼女の周囲は俺以外、記憶喪失が重傷ではなかったと胸をおろしたのか息を吐いた。

そんな俺を彼女はたまたま居合わせた人のような目で見ている。

俺はその目に耐えることなんかでききなかった。

残酷にも僕のことも忘れている。

僕のことをよく思っていない彼女の家族は都合が展開だった。

よく思われていないのはわかっていた。

これを機に僕のことを璃奈から遠ざけるだろう。

この沈黙した空気が、僕に答えをくれた。否が応にも現実を突きつけてきた。

分かっている。

けど、その事実に何もかもが追いつかない。

脳はまだ夢だといい、体はここから逃げようとしている。

逃げなきゃ。

何から?

現実から、この場から、僕を包むすべてから。

言わなくても分かるだろ。

こんな芝居はもういいだろ、もう、も…

現実は残酷すぎた。高校生の僕にそう思わせた。神様は平等ではなかった。僕からではなく彼女から奪っていった。常に不平等だけが平等にこの世界にふり続けている。

「ねぇ、この約束は絶対に二人でするんだからね。

あなたがなんて言おうと変えません」

何度も聞いた彼女の口癖のようなもの。少し傲慢で一度決めたことは融通が効かない。

そんな彼女の約束を守れるのが明日だ。あと一日あればこの約束を守ることが出来た。

僕は、この約束を守らせて上げる位できなかったのか。

なのに、

大丈夫なわけがない。

こんな苦しい思いをしているのに…

時間は容赦なく流れていく。

だが、彼女は生きている。

僕の事を微塵も知らないが記憶が戻らないわけではない。

でもいつの間にか僕は、彼女に話しかけていた。何とも変わりない初めましてから。

その裏で僕は、記憶が戻る方法を調べた。医学的根拠がないものや迷信まで、でも調べるほどに自分の無力さが突きかえってくる。でも、都合のいい奇跡が起こると信じていた。何十年かかろうが待ってやると決意さえした。

小説のような奇跡が。

ノンフィクションのドラマのような展開が。

漫画の主人公のように諦めなければ、可能性がゼロに近いことでも現実に出来ると。

僕は思っていた。

僕はまだ最悪で災厄の序章を読み終えたところだった。

現実はもっとやさしいと甘えていた。



彼女との初めましてから一週間が経った。人に合わせるのが

彼女の友人関係を戻すために、僕以外のいろんな人に合わせたらしい。

でも、結局何も思いだせなかったけれど、僕のことは何か思い出せそうだったようだ。

記憶が少しでも戻るならと、病院での数時間だけ会う許可がでた。

思い出すために僕のことを利用しようとする。

学校での出来事や、過去の出来事を話したりするように迫られもした。

でも、彼女は何も思い出さなかった。

それでも、あるかもしれない希望にすがって彼女に話しかけ続けた。

知らない赤の他人から友人になった頃それは突然起きた。

いつも通り学校帰りに彼女の待つ病室へと向かった。

ノックを二回して、中からの返事が来るのを待っていた。

「いいですよ」

彼女の声を聞いてドアを開けた時の彼女の第一声は

「病室間違えていませんか?」

最初は彼女の冗談だと思った。

「どうした、また記憶喪失か?」

「ん…やはり病室を間違えていますよ、お兄さん」

本当に僕のことを何もかも忘れたように返ってきたその言葉衝撃的すぎた。

「どうした、僕だ、宇久井結だ」

「新手のナンパですか?場所を考えてください」

冷たく言い放たれたその言葉に彼女は本当に僕のこと知らないように思えた。

「昨日も会ったでしょ」

「昨日は母としか会ってません」

昨日は午後二時ぐらいから彼女と話していた。間違いはない。

ここで気づいてしまった。この時の彼女の反応はいつかの時と同じだ、記憶を失って初めて会ったときと同じだ。

「それに、宇久井という名前に聞き覚えはありません」

この言葉は、僕にこの考えがただの妄想ではなく現実だといっているように聞こえた。

何をしようとしたんだっけ。

壊れかけ寸前だった心がはかなく散っていった。

初めましてから。彼女との三度目の初めましてを―


彼女の僕に関する記憶が消えるのが一週間おきだと気づくのは病室で四度目の初めましてをした時、単なる偶然のように思えなかった。そして彼女の容態も僕と同じで月曜日から日曜日には良くなり、月曜日になるとまた悪くなっている。正確には元に戻っている気がした。愛した人が自分を忘れ続ける世界で何を思うだろうか。

僕は精神が壊れる音がしなくなった。

ふざけるなや、神を恨むなんて気力なんか残っていなかった。

彼女と会う以外どうでもいい。

彼女が元気になり僕を忘れていくたびに僕はボロボロと崩れていった。

また始まる一日目も何回目だろう。


七日目夜

夜風が冷たく頬をなでる。

病院の屋上の空は雲のない澄んだ空だった。都会から近いこの病院は町の光に奪われ空の星はまばゆいものが数個だけでも綺麗な星空に見えた。

転落防止の柵の外側は、鳥かごの外側にいけたように思えた。背中を柵に預けるとガシャンと、音がした。

ここは、病院の六階の屋上。一歩前に足を出せば後は重力が僕を誘ってくれる。

「懐かしいな」

ポケットに入っていた水色の封筒を取り出す。まだ封も切られていないその手紙の中に何が書いてあるかは知っている。封筒を裏返すと右下には天城璃奈と書いてある。

彼女が入院する前に約束の内容を忘れないように書いたものだ。

彼女とは他人になる事だけを繰り返し続けるのだろう。

毎週初めましての繰り返しを、このまま自分を傷つけていることを見て見ぬふりはもう出来そうにない。

彼女の命を救うのに必要なのは僕の命だったのかもしれない。

それでいいなら今すぐにでも渡そう。似たような約束を僕はしている。

「何をしようとしてるんですか」

静かな夜にはよく通る声だった。

「待ってください。私はあなたの知っている璃奈さんではありませんが約束のことを知っています」

「うそだ。もう、その約束はこの世界で知っている人は僕しか…」

手に持っていた封筒をぐしゃりと握りつぶしながら叫んだ。

「その封筒の中身も宇久井さんと私の家族の関係も妹から聞きました」

柵越しに服を捕まれる。

「約束を守るのを止める気はありません。けれど最後に聞いてください」

「一分だけ、一分したら何もなかったように病室に帰ってくれ」

天城は僕の言葉にうなずくと話し始めた。

「私はあなたを知りません。日記にも書かれていないあなたのことをなぜか私は月曜日に待っているんです。あなたが来るだけで鼓動は早くなって勝手に緊張してしまうし、帰ってしまうとさっきまでの鼓動が嘘みたいに鳴り止んで無性に会いたくなるんです」

「それで」

夜だというのに天城の悲しそうな顔が見えた。

「私は心にあるこの感情の名前を知りません。」

それは恋ではないただの同情だ。

「そんなことはどうでもいいんです」

天城は言い切った。

「今の私がそうしたいんです」

混乱しそうになったが、彼女の目がすべてを物語っていた。

この時点で僕は負けていた。

「何が、君をそこまでさせる?」

率直な疑問を返した。

「でも、私と一緒に約束を守るのは嫌ですか」

「巻き込みたくないだけだ」

「なら、この約束は絶対私も守らせてください。あなたがなんて言おうと変えません。

だって私にとってあなたがそういう存在になってるんですから」

その言葉は、何度も聞いた言葉だった。

それだけあって僕は何も言い返すことは出来なかった。

うっすら涙を浮かべている彼女に璃奈を重ねてしまった。

それと同時に彼女はこの言葉の意味を理解していた。

僕は、ガシャリと音を立てた。俺の知っている彼女はもういないと思っていた。でも、彼女は変わっていなかった。


「うわ、高いね」

「璃奈は来なくても―」

「私はね、この気持ちが永遠にモヤモヤするのがやだ。

なら、今この気持ちに名前を知ったまま死ねる方がうれしいよ」

彼女の満面の笑みが見える。

「見つかった時、どうなのかな」

「見出しに悲しき心中って書かれるよ」

「いいじゃん。だって」


―君が私をどう思っているかが一番だから


僕たちは迷わず飛び立てた。


愛してるよ、これからもこれまで以上に、そう聞こえた気がした

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僕は彼女に何を思う 鈴鳴 桃 @suzumomo

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