第11話 壊れる哲学

 十一 壊れる哲学


「冗談だろ……」

 でなければ幻覚の類か。一人残されていたオットーが目をむく。無意識に、制服の第二ボタンに手が伸びる。服の下に隠れた首飾りを探して。

 食堂の出入り口付近、電球の明かりの中に、足だけを浮かび上がらせてそれはいた。薄茶色のズボンに擦り傷だらけの半長靴。ゾルケンの軍装に身を包んだ人間が、身じろぎ一つせず暗がりに立っている。

「……誰だ」

 呼びかけに呼応して、足だけの人物が一歩前に進む。小柄な体躯を茶色のマント包み、手に銃剣付きの小銃を握った彼女は、その銃剣のように鋭い視線でオットーを射抜く。自慢の金髪を逆立てて。

「……!」

 金髪をたなびかせて、立ち去る少女は横目にオットーを睨みつける。刹那、ボタンから手を放したオットーは立ちあがっていた。椅子を跳ねのけ食堂を飛び出し、薄暗がりの中へ。

「待て!」

 裸電球の明かりをまだらに受けながら少女が遠のいていく。オットーは体を探って武器になるものを探した。機関拳銃は強力だが、室内で掃射するのは危険だ。出会い頭に味方を撃ちかねない。となると……

(……これだけか)

 腰に下げたもう一つの得物にオットーは手をかける。使わずとも、忌避しつつとも、兵隊の習性で手入れだけは怠らなかった銃剣は、持ち主の意志に沿って鞘から滑らかに抜き取られる。濡れたように輝く刀身に映る、動揺した自分の顔が恨めしい。

 何を戸惑っている。キッと前を睨みつけ、少女が消えた角の向こうへオットーは走り出す。裸電球の下、さらに奥の角に立つ少女はオットーの姿が見えた途端角に消える。

「逃がすか……!」

 角を折れ曲がったオットーの眼に少女の姿はない。

(何処だ……)

 血走った眼をして、オットーは廊下を走り続ける。銃剣を持つ手がぶるぶる震えた。それは何も、彼の殺意の表れというわけでは無い。

「何を躊躇う……!」

 自分に向けられた問いは余計に自分を苦しめる。当たり前だ、何のために自分はいつも苦しまされてきたのか、それを思えばさっきの問いはただの愚問でしかない。それでもオットーは自分に言い聞かせ続けた。

「また一人葬るだけだ……畜生一人、地獄に送るだけ……また一人……」

 自分の糧にする、それだけのこと。

「……」

 勢いづいていた足取りも、徐々に弱まっていった。ネズミ一匹の気配も感じられぬ廊下にオットーはひとり立ち尽くす。

 オットーは銃剣を収めると、暗い廊下をとぼとぼ引き返した。馬鹿馬鹿しい、幻にうなされるようでは先も長くない。そもそも今までだらだら生きてきたのが奇跡なのだ。神は何をしていた。極悪人をほったらかしにして、死ななくていい人間ばかり殺し回っている。

「ろくでもない……」

 だがそれももう終わり、運よく生き延びたロクデナシも年貢の納め時だ。子供を戦争に使う奴、子供を殺す奴、

 子供のくせに、戦争に来る奴。

「……」

 医務室に灯る明かりに、オットーは今更になって気が付いた。頭に血が上っていた時はなんとも無かった場所も、気付いてしまうと通り抜けづらい。

――独りよがりの優しさなんて迷惑なだけですよ。

 頭をよぎるヴェンツェルの冷たい目を、オットーは一蹴することも出来ない。おもむろに、ドアの取っ手を握り、大きく息を吸って扉を押しのけた。

 そこに居たのは、金髪の少女であった。半長靴に、深緑色の乗馬ズボンのプファイツ軍装に身を包んで。亡霊はまた新たな姿を取る。

「入るなら、ノックぐらいすればどうだ」

 入口から背を向けるヴァローナは、振り返りもせずオットーに言った。

「……入るぞ」

 遅ればせながら断りを入れて、オットーは医務室に足を踏み入れた。室内に所狭しと並ぶ十数台のベッドで、使われているのはヴァローナが寝ている中央のもの一つだけだった。他のベッドは一つだけついた電球の光も受けられず、ヴァローナの周りの闇に溶け込む。押し黙る暗がりの沈黙を押しのけて、オットーは光の円の端に立つ。

「座らんのか」

 振り返らないヴァローナが、抑揚を殺した声で言った。オットーはただ首を振る。そして続けた。

「……さっきの話だがな――」

「伍長に聞いたよ」

 言葉を遮られ、オットーの目は僅かに見開かれる。いやそんなことはどうでも良い、聞いた? 何を? 分かり切った事である。馬鹿話ばかりのあの男から聞いた、ヴァローナが聞きだしたい事など、この状況だけでは一つしかない。自分を縛り続ける呪いのこと、それで間違いない。

「そうか……それで、何が言いたいんだ。同情でもしたいのか、軽蔑するのか?」

 普段より尊大な調子で返すオットーに、ヴァローナは静かに口を開く。

「私やハンナを逃がすのは、贖罪のためか?」

 あくまで無感情な、ヴァローナの抑揚のない声。オットーの目が、今度は糸のように細くなってヴァローナの背中を見据える。

「例え……そうだとして……何が悪い」

「お前を攻め立てる声は、お前が殺した兵士のものじゃない。お前自身の生霊だとしても?」

「……」

「私達は死んだ子の代わりにはなれないよ。お前の中の声を止められはしない」

「そんなことは分かっている!」

 声を荒げるオットーは、同じく荒い足取りでヴァローナが座るベッドの傍へ向かう。ベッドのすぐそばで立ち止まり、背を向けたままのヴァローナに暗い影を投げかける。

「お前はそんなこと気にせず、ただ立ち去れば良いんだ。大尉に言って安全な勤務先に移るなりなんなりしろ。まだ十六で死にたくないだろう? そう言え」

 ヴァローナは振り返らない、俯いて余計に顔を背けるだけだった。オットーは、またも声を荒げる。

「言えよ! なぜそんなに生き急ぐ? 大人たちがなんのために戦っているのか、お前には分からないのか? お前上の兄弟はいないのか? ……いや、貴族たちは召集されないんだったな。ハンナにはいたぞ。アイツが兵隊になったのは上の兄貴が戦死したからだ。家庭のある他の兄弟や、中年の親父に代わって志願したんだ。なのに……なぜ断る。生き急ぐんだ」

 オットーが一方的に捲し立てるのを、ヴァローナは黙って聞いていた。彼への反論であれば周りに広がる闇がその役を担うから。彼女はただじっと、時を待ち続けた。

「俺には分からん……お前ばかりか望まずに軍に来たハンナまで、どうして俺を突っぱねる。義理だの恩だの武侠心だの、そんなもの大人に任せて逃げればいい。あの兄妹だってそうだ。昨日あった連中、特に姉。何だって子供があんな目をしなきゃならん、あんな子供を作ったのは何処のどいつだ。あの子をあんな風にしたのは……」

 額に手を当てたオットーは、かすれ気味の声で続けた。

「俺みたいな大人だ……」

 しりすぼみの声も、部屋に広がる暗がりの中へ消える。ヴァローナの傷んだ金髪はやはり微動だにしない。諦めたようにオットーは後ずさると、近くに置いてあった椅子の上に力なく腰掛けた。

「……俺は人を喰う。ヴェストール一台には五人が乗ってる、生体計算機も入れれば七人。エルディルやボードスになればもっとだ。俺はそれを何十輌と仕留めてきた。それだけの命をすする、そんな価値が俺にあるのか?」

「……」

「分かってるさ。戦争でそんなこと考えたってしょうがない。だが……夜になると考える。声がする。俺に訴えかけるんだ。お前の命にどれだけの価値があるのかって……」

 両ひざに肘をついたオットーは、頭を抱えて黙ってしまう。彼にとって、兵士は得体のしれない怪物ではなかった。顔のある、表情のある人間。帰りを待つ人々がいた人間達。その人間を何百と喰って来たのが彼だった。直接肉を食べずとも、獲物から恩恵を得ることは出来る。

 食事とは、その獲物自身が得る筈の時間を、捕食者が奪う行為なのだ。

 闇の中に取り残された世界は、急に静けさを取り戻す。

「――髪」

 オットーが静寂の重みを耐え忍んでいた時、黙りっぱなしだったヴァローナはやっと口を開いた。顔を上げたオットーの前に櫛が差し出される。

「……何だって?」

 聞き返したオットーの眼に、半目になったヴァローナの顔が映る。気が利かない、そう言いたげの視線で彼女は、面倒くさそうに続けた。

「私は自分で出来ない、髪を梳いてくれ」

 普段なら容赦なく突っぱねる要望、いや命令か。だがオットーは暫し躊躇ったのち、自分でも良く分からぬまま櫛を取ってしまった。

 立ち上がり右手に櫛を持ったオットーは、ヴァローナの傷んだ髪に左手を添える。櫛を髪先に当て、ゆっくりと下ろす。髪先から少しずつ、段々上に上げて丁寧に。

「……手慣れているんだな」

 落ち着いた声でヴァローナが囁く。敢えて、誰にとは言わなかった。知っているからではない、誰だって亡くした者の話をするのは辛いことだ。オットーもまた、食われた側なのだから。

「こうやって髪を梳かれていると……思いだすことがある」

「なんだ」

「もうずっと小さい頃、髪をインクで黒く染めたことがあった。他の兄弟姉妹は皆黒髪だから、その真似をしようと思った時のことだ」

 柔らかな笑みは小さく、ヴァローナの口端に浮かび上がった。

「姉上……二番目の姉上に見せに言った時、ひどく怒られてな。浴室で色が落ちん、色が落ちんと文句を言われながら、床磨き用の硬いブラシで髪をこすられた……今でも思い出すといたたまれなくなる」

「……痛かったからか」

「いや……」

 ヴァローナの声に陰りが差す。

「姉上以外、他の誰も気にしなかったからだ。他の誰も……」

「……」

 動揺を出すことなく、オットーは髪をとかし続ける。俯き加減でヴァローナは、穏やかな声に戻って続けた。

「ドレスを着たネズミ……という言葉を、准尉はご存知か?」

 暗がりに向かい合ったヴァローナは、その目に暗がりの闇をたたえながら語った。暗がりから一時も目を離さない様は、まるであわれな生き物を見据えるように。




 ヴァローナ・フォン・オルレンドルフは、実のところ貴族と言えるかどうかは微妙な立ち位置の元に生まれてきた。彼女は父親がお家の権力向上にと娶った、二番目の妻から生まれた子供であり、母親が実家の没落と同時に追い出されたからだ。

 だが、子供を追い出すのはプファイツ貴族にとって対面の悪い行いであり、ヴァローナは体面を保つその一点においてその命を必要とされた。何かの事故で死んでくれた方がよほどありがたいという身の上である。


「私の扱いは他の兄弟とまるで違った。学校は庶民の通う地元の学校。礼儀作法もそれを教える家庭教師もなし。食事も一人、客人が来れば私室に籠りきりだ」

 放置されて軽蔑の目で冷遇される少女の姿が、オットーの目には浮かぶようだった。まるで存在しないかの如く、人々の間をすり抜けていく少女。ヴァローナが続ける。

「だが一人孤独な世界に、私は一人だけ理解者がいた。二番目の姉上だけが、私を見捨てず気にかけてくれた」


 人目を忍んで礼儀作法を教え、家庭教師替わりを務めた姉に報いようと、ヴァローナは懸命に勉学に励んだ。ヴァローナが陸士に受かったのも、ひとえに彼女の協力があってこそだった。

 受験会場や合格発表に連れて行ってくれたのも姉であり、士官生徒服に身を包んだヴァローナに喜んでくれたのも彼女一人であった。年頃の姉は別の国の貴族と縁談がまとまった事もあり、ヴァローナを支えられるのはその年一年限りであると思えば、喜びもひとしおだった。


「姉は結婚して家を出て、私は士官学校に入り家を出る。もう道も交わることは無いだろうが、二人にはそれが一番の幸福であった筈だ……その筈だった」

 ヴァローナの声から穏やかさは失われ、蛙の鳴くような重苦しさがとってかわった。


 ある日の晩の事である。

 年明けも近い雪の降る夜の事である。

 その日は姉の婚約者が挨拶にと訪ねてきて、皆で夕食にする日だった。

 表向き家族として扱われるようになったヴァローナは、その日婚約者を呼びに行く役を仰せつかった。

 電灯があるとは言え、薄暗い廊下を一人歩いていた。

 ヴァローナにとって夜は自由の時間であるが、その日は何だか薄闇の奥がひどく気味悪く感じて、目的の部屋へと足を急がせた。扉を叩き、中に体を滑り込ませる。

 かくして怪物は、闇の中より姿を現した。

『義兄上――』

 有無を言わさず、ヴァローナの体は壁に押し付けられた。犬のように短い呼吸の合間に、義兄の淀んだ声が囁いた。

 曰く、縁談は最初から、金髪碧眼のヴァローナにひかれての事であったと。

 曰く、ヴァローナを表に引っ張り出すために、士官学校にいろいろ口利きをしてやったと。

 それだけ言うと義兄、否、男はヴァローナの胸に顔をうずめた。悔し涙がはらはらと落ちて、ヴァローナの顔と男の髪を濡らす。

 ふざけるな! 口端に口惜しさをにじませるヴァローナ。口利きだと、我ら姉妹の功績を貴様は! 言葉は幾らも心に浮かべど、声に出してぶつけることが出来ない。罵倒の声は涙にぬれるたび嗚咽に変わる。男の口に微笑が浮かんだ。

『ああ……良いものだ。気丈な女子の泣き叫ぶ声は』

 男は顔を上げると、今度はヴァローナの口に舌をねじ込んだ。


「幸い舌を噛み切ってやったら、その下衆慌てふためいて窓から逃げていったよ」

 興奮を追い出そうと、ヴァローナは大きく息を吸い、ゆっくり吐きだした。空気が抜けていくにつれてヴァローナのいかり肩は徐々に下がり、同時に声も気勢を削がれたものに変わった。

「そして……二人の運命の日がやってきた」


 婚約者の失踪とヴァローナが襲われる事件は、二人の間に深い溝を生じさせた。

 姉は、見るからにやせ細っていき、気付けば部屋にこもり続けていた。

 ヴァローナは、今まで無視されるにとどまっていた嫌がらせが、罵倒を伴うものに変わった。だがまあ、そんなものはどうでも良い。彼女を最も絶望させたのは、

 姉が自分と、全く顔を合わせなくなったことである。

 姉と自分の功績に泥が付いたことである。

 そして、姉にとって自分が、縁談をぶち壊した裏切り者となったことである。

数か月、顔を合わせる機会も無かった二人が再び相まみえたのは、ヴァローナが学校に移る三週間前、早朝の事だった。

『……数々の恩義……不本意と言えど、背く結果となり……誠に、誠に、申し訳ございません。……申し訳……』

 床に手を突いて頭を垂れるヴァローナを、暖炉の前に置かれた揺り椅子に座った姉は曇った眼で見つめていた。荒れた肌と傷んでよじれた髪が幽鬼を思わせる相貌に、感情は奥に引っ込んでしまったようだ。

 立ち上がり暖炉へ歩み寄る姉は、涙交じりのヴァローナの謝罪などどこ吹く風、勢いが落ちた暖炉の火に薪をくべだした。

『……火の番でしたら私が……』

『……』

 願い出も無視されたヴァローナは俯いて言葉を待ち続ける。火掻き棒を使う姉の目には灰混じりの炎が支配して、ヴァローナの入る隙間もない。すすり泣きが漏れる。姉は歯牙にもかけぬ。小火くらいだった焚火は再び活発に盛り出した。

『……前に……別な男と縁談になった時……こんな事を言われた……』

『姉上……?』

 手に持った火掻き棒を、姉は灰に戻さず両手に構える。熱された先端を躊躇なく握りしめるその姿にヴァローナは息を呑んだ。肉が焼けて、むせ返る匂いが肺を突く。

『此処の女は皆黒髪に茶色の目で垢抜けぬ、今は金髪がはやりだ、と……目の前で、流行りの歌手の話などして……私が、目の前で……!』

『姉上……手が……』

 姉の逆立った黒髪が、暖炉の火を反射して夕日色の輝きを放つ。堪らず後退るヴァローナに、姉が一歩一歩と迫りゆく。

『そう言えばあのうつけ、他にも何か宣っていた……お前が窓から顔を出した時、完璧だとか』

 一歩一歩。ヒールが大理石を叩く。

『金髪で……碧眼の……特に目が素晴らしい、もう少し歳が上なら、と。いやらしい、舌なんぞ出して……私の目の前で……!』

『聞いて、姉上! 私は――』

『そんなに青い目が良いか!』

 鞭のようにしなった火掻き棒は、ヴァローナの左目を捉える。

 鈍痛と、遅れて刺した皮膚の焼ける痛み。今まで感じた事も無い激痛が眼球を走って、悶えながらヴァローナは床の上を転げまわる。その腹に、ヒールが深々と突き刺さった。

『黄色い髪がそんなに良いか……この黒髪は、一マルクの価値も無き屑かぁ!』

 ヴァローナの横腹に火掻き棒が飛ぶ。エビ反りになったヴァローナの背骨がきしむ。

『なあ、軍人になるのだろう? これくらいで音を上げてどうする』

『後生です……姉上……止めて……』

 さめざめと泣く、喘ぎ喘ぎあげた声に姉の顔が一層歪んだ。

『……ごめんなさい……ごめんなさい……』

『私は……お前の――』

 より高く振り上げられた火掻き棒。耳に手を当てるヴァローナが悲鳴を漏らす。

『姉なんかじゃあ、ない!』

 絶叫が、朝焼けの空を切り裂いた。




 ヴァローナが語り終える事には、髪をとかすのもあらかた終わっていた。だがオットーの手にあるもつれた金髪は傷んだまま、まるで改善した様子がない。もつれ合い、絡み合った髪をしかし、オットーは放そうとはしなかった。

「私は憎い……私を無視し続けた家族が」

 痛む傷をさするようにして、ヴァローナは左目の眼帯に手を当てた。

「私は憎い。私を襲った男も、突き放した姉上も。私を拒絶し、置き去りにした者達が」

 眼帯に触れる手の力は徐々に増し、顔と眼帯の間に滑り込んだ指が、憎しみを込めて眼帯を引っ張る。

「だがな、一番憎いのは……存在が許せんのは、弱く罪も償えぬ自分だ……!」

 ぶつりと眼帯の紐を引き千切れる。ヴァローナの左手は引き千切った眼帯を激情の念を込めて握りしめ、そして力なく放った。ベッドの下に落ちる眼帯は、光の届かぬ暗がりの中へ静かに消えた。

「殺しもした、盗みもした。父母を敬わず近しいものを裏切り、姦淫の始末……他にあと何を破ったか……何も得られず、何も守れず。悪行を犯そうが、罪を償うための何物をも持ち合わせぬ。故に、人に頼らざるを得ない、無力な身……」

 俯いた顔を、ヴァローナはゆっくりと上向かせた。上から見下ろすオットーの目の前で、隠されていたヴァローナの左顔が露になる。火掻き棒で打たれた傷だらけの皮膚、ケロイド状の爛れた顔の中央で、潰れて白く濁った眼が、赤い涙を流しながら彼を見据えていた。

「こんな存在が、こんな私が……許されてよいのだろうか」

「……」

 問いかけるヴァローナの赤い涙を、オットーの樫のような手がぬぐい取った。硬質な肌触りからかけ離れた優しい触れ方に、ヴァローナは小さく微笑んだ。

「……ホント、手慣れているな」

 ヴァローナは自分に触れるオットーの手を、そっと自分の頬に当てた。

「准尉。お前の優しさを憶えている人間たちがいる、それが答えでは駄目なのか?」

「俺には……分からない」

「ならわかるまでここに居ろ。丁度聞き分けのなってない部下ばかりで困っているところだ」

 小さく笑ったヴァローナは囁くような声で続けた。

「私には……必要なんだ」

 不意に全ての電球が灯り、部屋を支配する暗がりが電球の明滅ともに消え去った。オットーの手を放し、床に落ちた眼帯を付け直したヴァローナは扉の方を振り返る。開き切った扉の向こうに、ヴェンツェルが口端を歪めて佇んでいた。

「野暮だったかな? お二人さん」

「……気色の悪い事を言うな」

 心底気色悪いという顔でオットーが言うが、その顔はすぐに厳しい顔に変わった。

「伍長。そいつらは……」

「ん、ああ。ほら、隠れてないで顔見せな」

 体を引くヴェンツェルの後ろから、少年兵の二人組が姿を現す。一人は齢十に届くかどうかの少年、若干大きいゾルケンの制服に身を包んだ羊、もとい、弟。もう一人は見つめた相手が二度と忘れないだろう、猛禽の如き鋭い視線。痛んだ金髪をマントに隠した少女、あの日にあった姉である。

「さっき偶然廊下ですれ違ってな。これから重症者達とポンツーンで後方に下がるんだってよ」

 偶然な。ヴェンツェルが強調するも、オットーは硬い表情を崩さない。ヴェンツェルも顔では笑っているが、大理石のように硬質な瞳は視線だけでオットーを牽制していた。呆れながらヴァローナは立ち上がると、少年の前に歩み出て口を開いた。

〈少年、何か申したい事でもあるのか〉

 少年は硬い微笑を浮かべながら頭を下げると、覚えたてのプファイツ語で言った。

「オ嬢サマ、旦那サマ、……オ世話ニナリマシタ」

「……!」

 面食らった顔になるヴェンツェルが、サングラスを下げて少年の顔をまじまじと見つめる。その様子はオットーをして驚かせるのに十分な衝撃をもたらせた。

(ヴェンツェルが仕込んだのではないのか……)

 内心驚きながらも表面上は無表情を貫き通していたヴァローナは、自分をまっすぐに見据える少年の肩に手を置いた。

〈頑張れよ。慣れない敵国で姉さんが頼れるのはお前だけだ。男の……“弟”のお前が、しっかりと支えてやらねばならん〉

 眉をひそめる“姉”に対し、“弟”は小さく、力強く頷いて答えた。いつもの不敵な笑みに変わってヴァローナは、貴族らしい尊大な声で続けた。

〈困った時は手紙をよこせ。ここに居る伍長は、お菓子から同志ニコラウスの愛車までなんでも揃えてみせるからな〉

〈はい、お嬢様〉

〈では行け。いつまでもここに居ると戦いに巻き込まれるぞ〉

 頷く少年は一礼すると、外で控えている看守の方へ歩き出した。その後に少女が続くが、後ろを向ける前に彼女は横目にヴァローナ達を睨みつける。黄色く鈍く光る猛禽の如きその目は、いつか見たあの子のもの、昨日いた自分のもの。

「……」

押し黙るオットーに対し、ヴァローナは少女を睨みつけて彼女の視線を跳ね返した。

〈何か申し立てでもあるのか?〉

〈……〉

 踵を返し、少女は先に居なくなった弟の後に続いた。窮屈そうに仕舞い込まれた金髪をマントの外へと解き放って。聞こえぬようヴァローナが言う。

「最後まで愛想のないやつだ……」

「……そうか」

「ん? どうした准尉」

「いや、なんでも」

 そうは言ったがオットーは、先程のやり取りを何度も脳内で反芻していた。目上に対し礼儀を尽くす少年と、生まれながらの主人らしく気高く振舞うヴァローナの姿を。何物をも信用せず、自分以外の全てと戦う少女の姿を。そこには彼の願う子供らしい子供たちの姿は無く、自分と同じ狂気の中で武器を取る兵士の姿があった。

 子供などここにはいない、不本意ながらオットーは悟った。ここに居るのは自分の守るもののために戦う兵士達だと言う事実は、やるせなさと諦観からくるある種の安堵を彼に与えた。

「……さあ、大尉でも探して、作戦の不備でもネチネチついてやるか」

 オットーの思惑など露も知らぬヴァローナは、すっかりいつもの調子で笑っていた。




「大尉を説得するにも、何か考えを改めさせるきっかけが必要だ。お前ら何か考えてきたのか?」

 話を終え薄暗い廊下を疾走する三人は、オットーが唐突にはなった言葉によってその足取りは止まった。 ぎこちなく振り返ったヴァローナの、その誤魔化すような笑みが闇に浮かんだ。

「おい、何とか言えよ。流石に今のままじゃ大尉も聞く耳持たんぞ」

「え、准尉は心変わりしたんじゃ……」

 狼狽えだすヴァローナに対して、オットーは呆れた顔を向ける。

「出来る出来ないを見定めて行動できるから、俺は生き延びてきたんだ。心変わりしようが黒いものを白だとは言わんぞ」

「ううん……」

 ヴァローナは顔をしかめ額に手を当てる。横で、ヴェンツェルが愉快そうに口端を歪めた。

「少尉は准尉を説得するので精一杯だったからな……まあそこら辺は、何でも手に入れて見せるおじさんに任せなさい」

 悠然と構えているヴェンツェルに、オットーは勿論ヴァローナまでもが訝しむ視線を向けると、出入り口の方角から突然、大勢の群衆が騒ぐ声が聞こえてきた。思わず上を見上げるヴァローナとオットーの肩をヴェンツェルが叩く。

「ここに居てもしょうがない、外に出ようぜ」

 二人が頷くと、一行は再び廊下を走り出した。階段を上がってヴァローナが出入口を開け放った時に、群衆の歓声は実態のある圧力となって彼女にぶつかって来た。

「な、なんだ?」

 群衆の中央にはスカラベ小隊のものではない、正体不明のベルヒリンゲンが鎮座していた。砲身が太く短い、百五十二mm榴弾砲を装備した珍しいタイプだ。だがヴァローナやオットーを驚愕させたのは謎の戦車よりも、その上でぴょんぴょん跳ねている見知った人物の方だった。

「「ハンナ?!」」

「三人とも~、コッチです! ほら早く!」

 人垣を割って三人がハンナの下へ集う。人混みの最前列に出た時、手土産が戦車だけでないことを彼らは知った。ベルヒリンゲンの周りを囲む六門の大砲。薬室を強化してより高初速で砲弾を発射できるようにした、百二十二mm対戦車砲の威容がそこにはあった。

「「……お前はなあ」」

 苦笑交じりに言うハンナとオットーに対し、ハンナは胸を張って答えた。

「私にお礼でしたら、どうぞ遠慮なく」

「良く言うぜ、俺や軍曹を狩り出しといて」

 横からそう言ったのは、腹部の傷口を押さえて脂汗を流すリボルだった。

「くそ、傲慢なプファイツ人どもめ……平民まで高慢ちきな奴ばかりだ」

「なら断ればよかった良かったのに。無理強いはしませんでしたよ」

 リボルの後ろにいたゲオルクが呆れ半分に言うと、リボルは短く舌打ちして顔を逸らした。群衆が笑いに包まれる中、ヴァローナとオットーも皮肉めいた笑みを浮かべる。ひとしきり笑った後、オットーはヴァローナから向けられる皮肉と憂いが込められた笑みに気が付いた。

「准尉……これでもまだ駄目か?」

 顔を逸らしたオットーはゆっくりと歩みを進めると、群衆の中央に鎮座するベルヒリンゲンに手を突く。それから、誰からも見えないように微笑を浮かべた。

「……全く、死にたがりどもめ」

 バンッと、金属の装甲板を叩く音がすると、振り返ったオットーの顔から微笑は消えていた。いつもの不機嫌そうな職人気質の仏頂面はしかし、決意に輝きに満ちた精悍な瞳が普段と違っている。一歩踏み出すと決めた男の姿がそこにあった。

「良いだろう、とことんやってやられるとしよう。俺達を簡単に屈服できると思ったゾルケン共に、眼にもの見せてやる」

 言い放つオットーにヴァローナは神妙な面持ちで頷くと、群衆に見送られながら二人は荒野を後にする。仕事は大量だ、大尉と話をする前に作戦を煮詰め直さなくてはならない。計画を達成してなお、ヴァローナには笑みの一つも無かった。

 全てはまだ、始まったばかりだ。

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