第10話 すれ違う世界

 十 すれ違う世界


 静まり返った要塞の中、暗い廊下を不器用な足さばきで這いずる一人の人間がいた。

「はあ……くそ……!」

 それはスカラベ小隊の書類上の指揮官、ヴァローナ・フォン・オルレンドルフが、傷を負った体を無理に引き摺って歩く姿だった。一歩、また一歩とふらつく頭で不器用に足を運ぶ。

「くっ……わあ!」

 もつれた足が絡まって、ヴァローナはコンクリの床に手を突いた。痛みと、床の冷たさがじぃんと掌に広がっていく。体を壁に寄りかからせながらヴァローナは立ち上がろうとし、手を突いた瞬間。その手は壁を滑って、ヴァローナの視界にまたコンクリの床が近付いた。

「あっ……!」

「……っとと、あぶねえ。病み上がりが無理すんなよ」

 忠告しつつ、ヴァローナの身体を支えたのはヴェンツェルだった。

「さあ、病人はベッドに戻って養生するんだな」

 ヴェンツェルの忠告に、ヴァローナは顔を逸らして答える。二人が押し問答をしていると、暗がりの中からもう一人、今度はハンナ上等兵が飛び出してきた。

「あ、少尉目覚めたんですね! 良かった……」

「……」

「薄情な奴。ハンナ、ちょっと少尉の肩もて。二人掛かりでないとこの聞かん坊、全くいう事聞きやしない」

 ハンナがヴァローナの肩を持とうとして、ヴァローナにあっけなく振り払われてしまった。手をこまねいているハンナが気後れしていると、ヴァローナが先に口を開いた。

「准尉は……オットーは何処にいる」

「え……?」

 手を触れようとしたハンナはそこでまたストップした。ヴァローナが二人を鋭い目で出見返して、それから顔を伏せた。

「……戦況が知りたい。いや、知らなくては」

「でも……少尉。怪我は――」

「頼む一等兵。軍曹でも誰でも良い、戦局が分かる者の所へ……」

 そう言って押し問答を続ける三人は、近付いてくる足音に気が付かなかった。

「止せ、二人とも。止まれと言われて聞くような奴じゃない」

 声がした方向をヴァローナ達が振り返ると、そこにはオットーとゲオルクがいた。自由にならない体の痛みに耐えながら、ヴァローナはオットーの目をまっすぐに見る。無表情な彼の瞳は彼女を只見下ろすだけだ。

「伍長、一等兵。肩を貸してやれ。大した傷でなくとも動いたら直らん」

 ヴァローナの視線をあっさりとかわし、オットーは元来た食堂の方へ歩き出した。ヴァローナ達はその後を続く。物言わぬオットーの背中を目印に、暗い廊下の中をヴァローナは進んだ。僅かな明かりだけが頼りの廊下で、彼の姿を見失わぬよう。




「町が陥落した」

 テーブルを挟んで向かい合うように座る、オットーから発された言葉は、ヴァローナの心を芯から寒からしめた。目を見開いて彼女は、自らの周りを取り囲むオットー達を見渡したのち、

「……そんな」

 俯いて、自分の手元に視線を移した。言葉もない。あれだけやった、機転を利かせて勇気を奮わせて、誰よりも先頭に立って戦いは今、たった一言で無為に期した。

 ヴァローナの周りを囲むゲオルク、ハンナが口惜しそうな表情を浮かべていた。離れて座っているため窺うことは出来ないが、ヴェンツェルも同じだろう。ヴァローナが先の戦闘でどれだけ尽力したか見ていればそうもなる。彼女の苦痛をわが身の事のように感じるのは当然だった。ただ一人、オットーだけは眉一つ動かさずにいた。

「ゾルケンの……具体的な戦法はこうだ」

 ヴァローナの心境などお構いなしに、オットーはテーブルの上に地図を広げる。

「ここが要塞。北にある三本の陣地帯が、俺達がさっき戦った場所。それから……」

 オットーの説明を元にヴァローナは要塞周辺の地形を頭にたたき込む。要塞を中心に北はさっき戦っていた陣地、東にはオーバーザルツの町と鉄橋、南に森と低い崖、そして崖の南に河原が広がる地形。要塞の北側周辺は、地下壕で結ばれた対戦車陣地が扇状に展開する。

「北で俺達が戦車部隊相手に戦っている間、ゾルケンの奴らは別動隊を用意して、南側の河原を、大きく迂回してオーバーザルツに突入した」

 北から南へ、地図の上でオットーの指が半円を描く。その動きに、ヴァローナはまたも戦慄を覚える。あれだけ苛烈な攻勢を仕掛けておきながら、ゾルケンの連中はまだ迂回に使えるだけの戦力があったのだ。百輌は超える機甲大隊、いや、師団だと言うのか。

「……橋は、橋はどうなった」

 一瞬、オットーはヴァローナの問いに躊躇する。だがすぐに口を開いたことで、それは誰にも気付かれることは無かった。

「橋は占領された。爆破する暇もなく無傷のままな。ポンツーンも殆どとられたから、俺達は籠の鳥というわけだ。これから先、取れる手があるとすれば――」

「准尉」

 一方的に捲し立てるオットーの肩に手を置き、ゲオルクが制する。ショックを和らげようとヴァローナはしかし、反芻すればするほど強まる衝撃に言葉を発することも出来なかった。

(結局すべて……無駄だったのか……?)

 敵を追い返すことも出来ず、自分の努力などあっさり踏みにじられて。急速に、視野が狭まっていくのをヴァローナは感じる。自分の思い付きも、名も知らない戦車兵たちの努力や犠牲も、全て……

「少尉、少尉。大丈夫ですか?」

 ハンナの呼びかけで、やっと顔を上げたヴァローナは力なく答える。

「ああ……何とか」

 食堂に沈黙が訪れる。暫く待ったのち、オットーの肩に置かれたゲオルクの手が取り払われた。疲労がにじむヴァローナの顔に、オットーは射貫くような視線を突き付ける。

「掃除夫……あの陸上戦艦の事だが、あんな化け物とその取り巻きがうろついている以上、俺達に勝ち目はない。この要塞の火力を総動員しようと、ゾルケンの肉盾戦法の前では全くの無力だ。奇襲をかけようにも消耗した戦力ではそれも難しい」

 オットーの言葉はヴァローナの聞く限り、反論の余地は無いように思われた。要塞を利用しなければプファイツ軍はゾルケンに太刀打ちできないが、要塞があるがゆえに自分たちの行動は制限される。奇襲のためスカラベ小隊が要塞を離れれば、その隙に要塞を取られるだろう。奇襲をかけるならゾルケンの切り札である重戦車部隊に仕掛ける事になるが、ベルヒリンゲンの改造野砲では倒すのに時間が掛かり過ぎるのだ。オットーが続ける。

「もろもろの事情を考慮して、俺達の残された道は逃げるくらいだ」

 ヴァローナは黙ったままだった。嫌な予想が頭をよぎる。

「包囲から脱出するには囮役がいなきゃならん……そのための囮役を俺が指揮する。それが、大尉との会議で決まった取り決めだ」

「……!」

 ヴァローナの顔に再び、動揺の色が浮かぶ。オットーは顔を背けたので、ヴァローナが口を開く。

「何人……脱出出来る」

「半分」

「違うぞ」

 オットーの返しに間髪入れず、離れた場所に座っていたヴェンツェルが声を張る。彼は振り返り睨みつけてくるオットーにも臆さず、明後日の方角を向いて続けた。

「囮に使う戦力が要塞全戦力の半分、脱出するのが残り半分。その中で脱出に成功できるのが半分だ。半分の半分で四分の一だ」

「それだけか……!」

 目をむくヴァローナにヴェンツェルが笑いかける。

「それも、予想できる最善の数だ。俺の経験上、最善の予想なんてものが実現したなんて話は聞いた事が無い」

「ヴェンツェル、もう黙れ」

「准尉。上官に会議内容を隠す軍隊がまともだとは、俺には思えないね」

 そう言うとヴェンツェルは頭の後ろに手を組み、椅子を揺らしながら狸寝入りを決める。

「そんなもの……却下だ!」

 オットーが説得の言葉を思いつくより先に、ヴァローナは声を発していた。弁明の言葉をと、オットーは遅れて口を開いた。

「ああ、その……これは……」

「黙れ! 許されるか、こんな無茶苦茶な作戦! 大尉は何を考えている、自分が逃げられればいいと言う、そんな見下げ果てた男だったのか! いいさ、作戦なら私が立てる……!」

 もの言いたげなオットーをよそに、白熱するヴァローナは地図を引き寄せて目を走らせる。殆ど初心者の彼女に、オットーは付き合ってやる事にした。たとえ意味は無いと思っていても。ヴァローナが続ける。

「要塞周辺にある爆薬や地雷原を使って敵を足止めして、防衛線を突破してきた奴らを機甲部隊でもって迎撃する。そうして……前線の敵戦力を消耗するまで耐えて、掃除夫の重戦車部隊をあちこちに分散させるんだ。これなら――」

「ちょっと待て。突出した敵は機甲部隊が叩くとお前は言ったが、突出部が複数ある場合、お前はどっちに加勢するつもりだ?」

「……状況が不利な方に」

  半分自分に言い聞かせるようになっていたヴァローナは、思わぬ横槍に狼狽を露にしながら言った。黙って、オットーは首を振る。

「そんなことは当たり前だ。お前はその判断を、どうやってつけるつもりだと聞いている。一瞬の迷いが命取りになる状況で、お前に冷静な判断が出来るのか」

「では……では部隊を分けて配置すればいいのでは」

「ただの寄せ集め共が、分担して敵を叩くなんて芸が出来ると思うか。必ず混乱をきたすぞ。それにベルヒリンゲンで火力が足りない状況で、四二式中戦車だけの部隊が役に立つと本気で思うか」

 話し終えたオットーはヴァローナの反応を待つが、今度こそ口が開けなくなった彼女は目を伏せるだけだった。煙草に火をつけてオットーが続ける。

「……考え方を変えてみよう。敵が戦線を突き破るのを待つのではなく、キルゾーンを設けて連中をそこに誘い込む。これなら、俺たち機甲部隊があちこち走り回らなくて済む」

「……ああ」

「敵の数が減ったらそうだな……町に奇襲をかけるのがいい、連中から橋を奪取するなり決戦を仕掛けるなり。数の優位が生かせない市街地戦になればこっちにも勝機はある……」

 そこまで言ってオットーは再び言葉を切る。ヴァローナが餌に飛びつくのを待って。だが彼女も、オットーの策に易々とかかるほど間抜けではない。

「どうせ……友軍の切り札である我々が火力不足だから、不可能だと言いたいのだろう?」

 紫煙を吐き出すオットーは、彼女の問いに対して正解と頷いてみせる。

「そう、ゾルケンの機甲部隊を効率よく片付ける戦力が俺達にはない。それが全て、だからこの話は終わりだ」

「だが……これ以外全員が生きて帰る希望は――」

「そんなものは、ない」

 灰皿に乱暴に押し付けられた煙草は、吸殻の中で細い煙を上げて消えた。煙草を持っていた右手をテーブルにつき、オットーは前のめりになって顔をヴァローナに近付ける。

「勘違いするなよ、こんな作戦は既に大尉と何度も検証を重ねた。敵を迎え撃つのに有効な地形、有用な罠の数々、それらを準備する時間まで。結果は不可能だ、それが答えだ。反論できるならいくらでもしてみろ、さあ!」

 オットーの挑発にヴァローナは頭を抱えるしかなかった。言い返せない、反撃の材料が何一つ思いつかない。火砲は足りない、増援も期待できない、戦力は敗残兵と残留部隊の寄せ集め。敵の方は、掃除夫とかいう陸上戦艦と百を超える戦車部隊、それに追従する歩兵部隊。

(せめて一つでも、状況が良くなれば……)

 再び地図に目を通すヴァローナは、オーバーザルツ近くの森にいくつか記号が書き込んであるのを見つけた。正規の地図符号にはない、正体不明の記号を。

「軍曹、この記号はなんだ」

「なんでも、撤退する筈だった部隊が要塞に逃げ込む時に、運べない兵器をカモフラージュして置いてきたそうで。手つかずならまだそこにある筈です」

 ゲオルクが答えると、ヴァローナの瞳は僅かに輝きを取り戻した。

「兵器は何が置いてある?」

「燃料切れのベルヒリンゲンや百二十二mm対戦車砲などです。特に対戦車砲は、我々の改造野砲とは比べ物にならない貫通力を誇るという話です」

「重戦車にも効くのか」

「ええ。寧ろ中戦車相手では過貫通で車体を突き破る、と言われるぐらいです」

「それがあれば……掃除夫にも打ち勝てる……!」

 いきなり立ち上がったヴァローナはバランスを崩し、後ろへ盛大に倒れ込む。それでも立ち上がる彼女をハンナやゲオルクが支える中、オットーは手を貸す事も無く言った。

「どこへ行く気だ」

「ここで貴様と話したって埒が明かん。大尉を説得する」

「何処かに置いてきた兵器があるなんて言う、そんな宝くじみたいな願望にすがる気か!」

「じゃあどうしろと言うんだ! 私は行くぞ……」

 ハンナとゲオルクの手を振り払い、ヴァローナは廊下に向かって歩き出した。五歩ほど進んだ時、立ち上がったオットーが彼女の肩を掴んで止めた。

「放せ准尉! お前の悲観論はもううんざりだ! 可能な手を全て打つことの何がいけない!」

「良いから言う通りにしろ! 俺の……大尉の指示に従えばお前はそれでいいんだ!」

「何が大尉だ! あの敗北主義者に私が従うことに、何の意味がある!」

「お前とハンナをここから連れ出してもらうよう、大尉と約束したんだ!」

 今度はヴァローナと、ハンナの二人が息を呑んだ。動揺の目つきで自分を見上げるヴァローナに、オットーは憮然として告げた。

「……俺が言ったって、お前はちっとも聞く耳を持ちやしないからな。お前には、俺がこんなバカげた作戦に、ガキを使うような人間に見えるのか?」

 考える前に、ヴァローナは拳を振り上げていた。

「この――!」

 拳が届くより早く、ヴァローナは自分の左頬に衝撃を感じていた。よろめくと同時に彼女の身体は椅子を蹴散らしながら床に叩き付けられ、オットーの怒りをたたえた眼が折れかけた彼女の心に突き刺さった。

「いい加減にしろよクソガキ……てめえはこの二日間、一体何を見てた!」

 オットーはヴァローナの襟首を掴んで揺さぶった。

「何を見てたんだって、おい! 聞いてんのか! 戦場に何があると思ってた! ピカピカの勲章か、人に喋りたくなる武勇伝か、ええ? そんなもん欲しけりゃもってけよ。 どうせ死ぬんだ、俺のをやる」

 オットーは自分の騎士鉄十字章をもぎ取ると、ヴァローナのポケットにねじ込んだ。

「こんなもん、人間をどれだけ土くれに変えたか称える勲章なんて、すごくも何ともねえよ。せいぜいこれを見た敵が、てめえの死体をミンチに変える理由づけにしかならん。戦場にはそんなものしかねえ。泥の中で蛆に食われるのが関の山、だからそうならねえようにしてやるって言ってんだ。ガキは黙って言うこと聞きゃあいいんだ!」

 その途端、オットーはヴァローナに頭突きをかまされ、思わずその手を放した。怒りで涙を浮かべるヴァローナは、しかしそれ以上何か言い返すことも出来ず、食堂を出て暗い廊下へと走り出してしまった。

「少尉、待って!」

 叫んだゲオルクの横を、今度はハンナが駆け抜けていった。ただしヴァローナとは違い出口を折れ曲がって正反対の方向、外へつながる階段の方へ。

「ハンナ! ……ああ、もう……准尉、ホントにアンタそれで良いのか?!」

 時間が勿体ないと捨て台詞を残し、走り去るゲオルクはハンナの方へと走っていった。オットーの背後で、ヴェンツェルが笑い声を漏らす。

「まあ暴力で女が付いてくるなら、汝離縁するなかれ、なんて神が言う筈も無いわな」

「ヴェンツェル……!」

「准尉。生きてりゃ丸儲けなんて言葉の空しさは、アンタが一番知ってると思うがね。このまま喧嘩別れしても、あの子に一生重いもん背負わせることになるよ」

 立ち上がったヴェンツェルはオットーの肩に手を置くと、サングラスの奥から冷たい視線をオットーに向けていった。

「独りよがりの優しさなんて迷惑なだけですよ、准尉」

 ヴェンツェルが立ち去り、オットーは孤独の中に取り残される。五十人を収める広い食堂は、静寂の重みをオットーに対して強烈に印象付けた。

「……どいつもこいつも」

 彼が漏らした呟きに、反応してくれた友たちはもういない。




 食堂を後にしたヴァローナは、廊下を出て曲がった直ぐのところでうつぶせに倒れていた。起き上がれないまま力なく寝そべっている彼女を、ヴェンツェルは苦笑いしながら見下ろしていた。

「……怪我して走れば、そうなるわな」

「……」

「それじゃ失礼して……揺れますよ、お嬢さん」

 無抵抗でおんぶされるヴァローナを、ヴェンツェルは粛々と運ぶ。ヴァローナが力のこもらない手で彼の肩にしがみ付くと、ひどく懐かしい気分が沸き上がってくる。いつぶりだろうか、こんなふうに誰かの背中に寄りかかるのは。

「いや……」

 違うな。ヴァローナは声も無く、唇だけで言った。いつぶりじゃない、いつもだ。誰かに用意された場所、想定された状況の中でうまく立ち回って来ただけ。

「結局、私はいつだって……誰かの背中の上か……」

「そんなもんじゃね、だってお前ガキだし」

 ヴァローナの独り言に突っ込むヴェンツェルは、肩に指が食い込む痛みに声を上げた。

「いだだだだ……! 嫌だな少尉、ジョークジョーク」

 振り返るヴェンツェルの視線に先に、俯いて涙をこらえるヴァローナの顔があった。揺さぶられる度、彼女の目から零れ落ちる涙がヴェンツェルの肩に落ちる。その涙から彼は、冷ややかに視線を外した。

「……はっ、そんな調子じゃ本当に唯のガキみたいじゃねえか」

「……でも――」

「でもなんて言葉を使うな」

 苛立ちをにじませた口調で、ヴェンツェルは続けた。

「ティーンのガキの真似なんてするんじゃねえ」

「……なに?」

「もうお前は士官学校の生徒じゃない、誰かれ構わず泣きごとを言うなと言っているんだ」

 呆気に取られているヴァローナは次の瞬間、右半身に生じた唐突な痛みと床の冷たさによって正気に返った。痛む体を無理やり起こすと、頭上で笑っているヴェンツェルの顔が眼に入る。その顔を睨みつけながら立ち上がる彼女に向かって、満足そうに頷くヴェンツェルは、不敵な笑みに相応しい尊大な声色で言った。

「そうだ、その顔だ。指揮官が部下に向けられる顔は少ない。泣き顔も苦しそうな顔も、マイナスの感情は心の中にしまい込んで、堂々と立っているもんだ」

「……下士官が、知ったようなことを……!」

「よく知ってるとも、この業界はお前なんかよりずっと長い。そしてお前がこの二日間、殆ど愚痴も言わずに過ごしてきたことも知っている。人に言われる事も無く」

「だったら何だというのだ!」

 ヴェンツェルは息を吸うと、穏やかに続ける。

「だからもう、お前を子ども扱いするのは止めだ」

 最後の言葉に呆気にとられたヴァローナの左顔を、ヴェンツェルの手がさっと撫でつける。驚いて後ずさりした彼女の左目は、眼帯が取り除かれていた。

「な……」

 ヴァローナが驚いたのは眼帯を取られたからではない。皆が馬鹿にして、虚栄心が生んだ飾りだと笑った眼帯が無くなって、その下にある真実をヴェンツェルは見た。見た筈なのに、彼の顔には動揺の色ひとつ浮かばなかったからだ。

「素質なら十分……あとはその武器をどう使うかだな」

「お前、何時から知っていた?」

「そんなのどうでも良いだろ。問題は今の状況をどうやって乗り切るかだ」

 話を強引にねじ曲げて、手を差し出すヴェンツェル。

「協力しよう少尉。俺達は今から、俺達を襲う絶望的状況を打破する同志だ」

「……いいだろう」

 今までのように動揺を顔の奥に引っ込ませて、ヴァローナは上目遣いにヴェンツェルを睨みつけた。

「それで……同志ヴェンツェルは私に何を授ける気だ」

「准尉……オットーが少尉を邪険に、いや恐れる理由を。奴の心をえぐり取り、そこに優しさという毒をすり込む手段をやろう」

 ヴァローナの神妙な顔に緊張が走る。仰々しく頷く彼女に対し、ヴェンツェルは笑顔を引っ込めて語り始めた。

「これは戦争が始まったばかりの頃の話だ。俺達三人の故郷で起きた、ありふれた悲劇……」

 子供に語るにはあまりに重い昔話を聞いた時、ヴァローナの見開かれた瞳は裸電球の光を受けて煌々と光った。

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