第9話 雨の檻

 九 雨の檻


「還ってきた……戻ってきた! アイツ――」

「黙れ……黙れ!」

 ヴァローナを制したオットーの声が震える。手を握り締め、絞り出すように声を張り上げた。

「死人が戻ってくるか……戻ってきて……たまるか!」

 敵戦車の群れが堰を切ったように雪崩れ込む。雨を払う暇もなく車内に滑り降りる二人。手振りで司令部に無線を繋ぐよう、オットーはハンナに指示する。相手が呼びかけるより先に用件を叫んでいた。

「敵の突撃が来る、戦線に備えさせろ!」

 刹那、幾多の砲声が空気を振動させ、前方に見える対戦車陣地に風穴を穿つ。火の手が地を滑るように広がり、味方の残存部隊を悉く焼き払った。

「突破されるぞ!」

 ヴァローナが言った。

「この距離ではエルディルの装甲を貫通出来ん。先ずは取り巻き……」

 オットーの発射レバーを持つ手が震える。大きく息をして、彼は落ち着きを取り戻す。数多の敵戦車が、一斉に此方に向かってくる姿が嫌でも目に付く。目を見開き、慎重に狙いを定め、エルディルの隣にいる別な戦車に照準、レバーを引く。砲声が車内に響いた。砲弾は戦車の車体中央に当たり、そして、明後日の方向に跳ね返る。

「なにぃ!」

 目を剥くオットーの思いも知らず、敵部隊はさらに距離を詰める。平地を突破し、ついに陣地内へ。友軍、戦車猟兵の対戦車砲が砲撃を開始するも、四二式中戦車より小さな四十七mm砲では敵重戦車の側面すら抜けない。

対戦車砲の砲弾がぶつかる度、敵の巨大な図体がオレンジ色に輝く。敵戦車の砲塔が陣地内の味方砲兵を炙り出そうと火を噴いた。マズルフラッシュが、正体不明の敵を鮮明に浮かび上がらせる。砲塔は小さいが車体は大きい。いや、車体はエルディルの物と共用である。

「……ボードス。重戦車か、どおりで硬いわけだ」

「感心してる場合か! 敵の重戦車中隊だ、二十輌以上の重戦車だぞ!」

 ヴァローナの突っ込み。オットーは静かにレバーを引いた。横を向いたボードスの砲塔に穴が穿たれた。

「分かっている! ……クソッ、分が悪いな。無線手!」

 聞き逃すまいとオットーの方へ向き直るハンナ。

「司令部に入電、援護するからとっとと第二線に撤退しろとな。それから、小隊各機に無線を繋げ」

 言葉を切り、オットーはレバーを引く。放たれた砲弾がボードスの脚を捩じ切り、尻もちをつかせる。再びマイクロフォンのスイッチを入れた。

「突撃で連中の気勢を削ぐ、固まってついてこい」

 陣地の各所で煙幕が上がる。虚を突かれたが、未だ統率を保つ友軍は粛々と撤退準備に入る。

「突撃用意!」

「あいよ」

 オットーの合図と同時にヴェンツェルが操縦レバーを引き、アントンは雨粒を滴らせながら煙幕の向こうを睨みつけた。

「突撃、前へ!」

 体躯を伸ばし、軽やかに煙幕に向かって駆け出したアントン。後ろから僚機が数珠つなぎに続き、敵の隊列を真っ向から引き裂きにかかった。薄闇を駆けるアントン。気付きかけたボードスに照準を合わせる。オットーがレバーを引くと、ボードスの分厚い皮膚ははじけ飛んだ。

「次弾、早くしろ!」

 陣地の端まで来たアントンが緩い斜面を駆け下りる。斜面に張り付いていた敵兵士達を踏み抜き追い散らして、小隊は敵の本丸へと雪崩れ込む。オットーの視界にボードスが立ち塞がる。すかさず砲撃、向こうも撃ち返した。

「嘘だろ!」

 ヴェンツェルが操縦レバーを思い切り左に倒すと、アントンは右足を上げて大きく左へとバンクした。直後に炸裂した敵の砲弾が足元の泥を跳ね上げる。横向きになって停車したアントンの前で、ボードスは砲塔を叩き割られて火柱に包まれていた。

「スピードを緩めるな、次が来るぞ!」

 オットーが怒鳴ったまさにその瞬間、エルディル戦車一台が此方に向け榴弾砲を構えた。

「後退、しかる後右旋回!」

 ヴァローナの号令とともに、アントンは上体を大きく持ち上げて急転換する。エルディルの砲弾が直前までアントンのいた空間を通り抜ける。ブレーキと同時に右ターン、砲撃。前半分を吹き飛ばされたエルディルを、ヴァローナはペリスコープ越しに睨みつけていた。

「勝手に指示を飛ばすな!」

 オットーが檄を飛ばすのを、ヴァローナの怒鳴り声が迎え撃つ。

「助かっただろ! それより急いだ方が良いんじゃないか?!」

「ちぃ……操縦手、前進」

 再び泥の海を駆けるアントン。正面に捉えたるは敵の大将、エルディル戦車。砲塔の掃除夫マークが迫るスカラベ小隊を睨みつける。その巨大な砲塔の前に、二つの機銃座がある事にヴァローナは気付いた。

「大口径榴弾砲に、多砲塔だと……エルディルの新型か?」

「関係ない」

 ヴァローナの疑問をオットーは一蹴し、指示を飛ばした。

「操縦手! もっと飛ばせ、道を塞がれるぞ!」

「無茶だよ、これで最高速さ……」

 ヴェンツェルのぼやきも、照準鏡を必死に覗き込むオットーには届かない。彼の思いを汲み取ってか知らずか、小隊の僚機二輌がエルディルに肉薄する。

「四と……九……ツェーザーとハインリッヒだな。やれるか?」

 ヴァローナの問いかけにオットーの鈍い声が重なった。

「……恐らく」

 ジグザグに回避行動を繰り返し、エルディルの側背面に回り込もうとする。突然、二輌の間に土煙が上がった。エルディルの榴弾砲が炸裂したのだ。全身に土くれを浴びながら二輌はサイドステップに入る。エルディルの二つの機銃座がそれぞれ二輌に向かって指向した。

(装甲が薄いとは言え、機関銃ではな)

 もしや機関砲の類かと、目を凝らすヴァローナ。次に彼女の耳を襲ったのは機関砲の豪雨にも似た音――

 ではなく、鋭き雷鳴の如き衝撃。二発の砲声であった。

「拙い、拙いぞこれは……」

 ヴェンツェルが呟くと同時に、前向きの慣性力が乗員を襲った。さっきまでの勢いが嘘のように、アントンが全力後退を開始する。

「ヴェンツェル! お前勝手に――」

 オットーの怒声を遮って、ヴェンツェルが吠える。

「よく見ろよ准尉! あれはエルディルじゃない、対策なしじゃ嬲り殺しだ!」

 燃え盛るハインリッヒの残骸に照らし出され、車体の横腹を曝したエルディル――に似た何かは、弱った味方を鼓舞するかの如く、その巨体を周囲に見せつけた。

「あんなものが……戦車だと言うのか」

 ヴァローナが放心気味にいったのも無理はない。全長二十メートルはあろうかという長大な胴体は、十本のたくましい脚が動く度上下に揺さぶられ、その上には巨大な榴弾砲と前後に合わせて三つの副砲塔が並んでいる。

(まさに、陸上戦艦)

 戦艦の主砲がゆっくりと、足を引きずるツェーザーの方へ指向する。潰れた後ろ足を引きずって、喘ぎ喘ぎ進むツェーザーの背中に照準がぴったりと合い、砲撃――ツェーザーの車体は無数の破片と化し、土砂降りの空に散った。

 関節をきしませ、勝利の咆哮を上げる戦艦。持ち上げた二本の前足が深々と大地を刺す。流れが変わり、誰の目にも戦場の支配者は明白となる。しなやかに、威厳をもった手付きで、戦艦の主砲はアントンや小隊、味方陣地の方角を指した。

今こそ反撃の時。防戦に徹していたゾルケン戦車部隊が一斉に砲を上げる。勝利への凱歌は榴弾砲の一斉射撃に変わって、味方の上に降り注いだ。

 鉄の軍馬たちのギャロップが、荒野に爆音を轟かせる。

「准尉指示を、オットー!」

 戦慄が走る車内にゲオルクの叱責。

「……! 全速後退、全車引け! 逃げろ!」

 オットーの怒声に呼応して蜘蛛の子を散らすが如く、逃げに入る小隊。敵は哀れな獲物たちを食指に捉えんと、一心に泥の海を爆走する。跳ね上がる泥、エンジンの唸りの大合唱が大気を震わせる。

 戦線が第一陣地まで後退し、敵の津波はうねりとなって陣地内のあらゆるものを飲み込んでいく。殿の歩兵、砲兵。大破した戦車。泥に足を取られた駄馬。全てが巨大な鋼鉄の脚に踏まれ、砕かれ、打ち捨てられる。血肉と泥とガラクタが、一緒くたにまぜこぜになって、塹壕の泥の中に塗りたくられた。泥に脚を取られたヴェストールを一、二輌倒したところで、津波は自分自身を押しのけ飲み込み、貪欲さは衰えもしない。

「これは……一つ戦線を下げたところで……」

 悲痛な思いが、ヴァローナの心胆を寒からしめる。第二陣地もまた小高い丘となって味方に地の利があるが、百輌以上の戦車の突進に一体どれだけの効果があるかは疑問だ。第一陣地を踏み超え、勢いに乗る敵はすぐさま距離を詰めてくる。距離、目測にして二・五km。

「司令部からです。我、斜面に設営した爆薬による奇襲を敢行す。付近の友軍は斜面より退避し、奇襲に続き敵に一撃を与えられたし、です」

「大尉はまだ諦めんらしいな」

 そう言うヴァローナの声色は優れない。

「……一回の奇襲でどうにかなるものか?」

「ありえんな、新米だってわかる」

 その点においては、ヴァローナはオットーに全くの同意見だった。彼らが議論する間も、敵の支援砲撃は容赦なく塹壕を抉る。敵の先遣隊、足の速いヴェストールが味方を血祭りに上げようと、牙を剥き出しにした猟犬の如く迫り来る。

(先遣の脚を止めて、それから……それからどうする?)

 ヴァローナは苦虫をかみつぶす。徐々に募る焦りは頭の中を危険信号で埋め尽くし、視界の隅が黒く塗りつぶされる。至近に榴弾砲が着弾し、アントンが左によろける。

「~~~~!」

 声にならない呻きを上げて、ヴァローナが髪をかきむしる。本当にこれで終わりか? まだほかに試していない、考慮されていない方法が、何か――

 唐突にもたらされた衝撃は、彼女を思考の渦から解放させた。

「なにが……砲撃か!」

 キューポラのペリスコープに頭をぶつけ、真っ白になりかけた頭で、ヴァローナが何とか声を上げた。いいや、とばかりにゲオルクが頭を振る。彼は砲架に思い切り額を打ち付けていた。

「分かりません……砲撃でないのは確かですが……」

「……っしょう、どこの馬鹿だ……!」

 頭を押さえるオットー。むしゃくしゃしたヴァローナが、ハッチを跳ねのけ雨の降りしきる外に顔を出すと、友軍の四二式戦車が目の前でよたよたと後退する姿がそこにあった。どうにも方向転換しようとして周りをよく確かめず、アントンの右側に激突したらしい。

(この忙しい時に……!)

 腹立ちまぎれに拳を振り上げたヴァローナだが、すぐに思い直した。四二式? そうだ、ここに居るじゃあないか。機動力があってすぐに展開できる、その癖暇を持て余している連中が。

「准尉、聞こえるか」

『何だ? 今手が離せん……そこ!』

 砲架に砲身がぶつかり、薬莢が吐き出される音。さっき頭を打った影響か、ヴァローナは驚くほど冷静な声で頼みごとを注げていた。

「イーダ……リボル軍曹を呼んでくれ。私がアントンの後方三百mの地点で待っているとな」

『……? 一体どんなろくでもない思い付きだ?』

「コイツで、四二式全機でもって敵に奇襲をかける」

 片頬を上げニッと笑った時、彼女は自分が思ったほど冷静でないこと悟った。

「四二式で油断した奴らの後頭部を叩く。その間に貴様たち主力が下がるのさ」

『お前、血迷ったか!』

 ハーネスを外し、車外に飛び出すヴァローナ。後を追ってハッチを開けたオットーは、彼女によって車内に蹴り込まれた。

「私がどうにかする! 貴様はそこでアホ面晒してろ!」

「少尉! 待て!」

 脚を掴みかけた手を躱し、隣の四二式に飛び乗るヴァローナは飛び乗ると、乱雑にハッチを殴打して中の乗員を呼び出した。はい、と覇気のない声と共にハッチが開く。ヴァローナは車長の襟首を掴むと、自分の面前にグイッと引き寄せた。

「車長。中隊所属の四二式全部、至急指定の地点に集結させてほしい」

「集結って……許可は……」

「いいから、口にサーベルぶち込まれたいのか?」

 鬼気迫るヴァローナの表情に、車長は頷くしかなかった。




「それで、許可は下りたのか?」

「大尉から? それとも准尉か?」

 いぶかしむリボルの事情などお構いなしに、悠然と構えるヴァローナは、鳴りっぱなしの無線を指で指し示した。

「聞いての通りだ」

「……」

「操縦手、耳障りだ。切れ」

 四二式にも司令部との通信を断つよう言ってある、と恐ろしげな事を云ってのけるヴァローナ。リボルがニヤリと笑って口を開く。

「アンタの功名心に付き合う気は無いと、確かにいったと思ったが……」

「聞いたとも、だがこの行動が場違いな武侠から来ていると思うなら、貴様も所詮お山の大将というわけだ」

「相変わらず、口だけは回るじゃねえか」

「回すさ……此処で失敗すれば今度こそ全滅だ」

 ヴァローナは静かに目を閉じ、溜息をつく。

「貧乏くじを引かせてしまったな」

「いつもの事だ。元を取らせてくれるんだろう?」

 ギラリと光るリボルの笑みに送られて、ヴァローナは装甲車の砲塔ハッチから顔を出した。リボルの装甲車を先頭にした決死隊は戦線を離れ、敵の側面を望む地点に密かに進出していた。敵味方が撃ち合う砲弾がオレンジ色の尾を引いて、時折り直撃をもらった戦車や装甲車が天に火柱を突き立てる。陣地の上を炎が走った。

「もう少しだけ持ってくれよ。隊長車より各車、応答せよ」

 控えめで消極的な声がヴァローナの耳に入り、彼女の眉間にしわを寄せさせる。完全に気分負けしている。これでは重戦車の背後をついても無駄だろう。

(手ごろな獲物は……!)

 敵主力が山を成す第二陣地前とは別に、控えめな小集団が敵の後ろに付こうとするのが目に入った。増援で一気に押し切るつもりか、好機到来と不敵に笑うヴァローナ。

「軍曹、敵主力後方の小集団が見えるか? あれを追跡しようと思う」

「良いんじゃないか、寄せ集めには丁度いい相手だ」

 ハッチから顔だけ出してリボルが言う。

「隊長車から各車へ、もう少し遠回りしてから接敵するぞ。隊長車に続け」

 増援から悟られぬよう敵の右後方を移動する決死隊。激しさを増す雨音にエンジン音も掻き消され、正面攻撃に躍起になっている敵は気付きようもない。涎が出るくらいおいしい状況に、緊張感もひとしおだ。

「各車、縦隊を組みなおせ」

 隊列とも言えない行列がよれよれながら縦隊と呼べるシロモノに変わった。敵増援は主力との距離を縮める。連中が合流する、その一瞬の油断が勝負だ。

「速度を上げる。突撃用意!」

 指示と同時にヴァローナがサーベルを抜きはらった。雨粒の下たる刀身が、砲火の明かりを反射して輝きを放つ。回転数を上げるエンジンは唸りを増して、みなぎる闘志を体現するようだ。小走り程度の四二式が駆け足へと変わる。敵との距離九百m。増援が主力と合流した、まさに今――

「突撃、前へ!」

 掲げられたサーベルが、一気に振り下ろされる。

 間髪入れず一気に最高速に入る装甲車は泥の海をひた走った。四二式があとに続く。

「突き崩せぇ!」

 ヴァローナの怒声共にリボルが砲撃、油断しきったヴェストールの横腹に砲弾が突き刺さった。後ろからも次々に砲声が聞こえる。敵の横隊を横から串刺しにする決死隊は、普段の鬱憤晴らしと押し来る敵を次々に切り捨てる。友軍まで盾に利用された敵は、誤射を恐れて駆け抜ける決死隊を撃つことが出来ない。

「右にカーブ、戦車の間を抜けろ!」

 正面に見えた二輌のヴェストールのうち左側の車両が砲をこちらに向け、装甲車がヴァローナの号令と同時に急カーブに入った。人一人分くらいの間を開けて、砲弾は左側面を飛びぬける。回避が間に合わず、後続の四二式が餌食となった。

ハンドルを切り返し、二台の戦車の間隙を突く装甲車。リボルは素早く砲を右に振ると、すれ違いざまに別のヴェストールに命中弾を与えた。

「コイツはオマケだ」

 余裕たっぷりにリボルが言って除けると、砲塔がクルリと反転し一撃。砲撃してきたヴェストールが背面を突かれ炎上する。

「速い……一人だけでどうやって……」

「教科書には載ってねえもんな。そんなことより、そろそろ敵も持ち直す頃だ」

「あ……ああ……よぉし」

 顔を引き締め、ヴァローナはサーベルを右に振り払う。

「各車右旋回! 陣地に帰還する!」

 号令と共にターンした決死隊が、横隊を組んで今度は敵陣を沿うように走り出した。寄せ集め故に教本通りの方向転換が出来ないからだが、敵には意表を突かれる形となる。置き土産と、四二式は敵の尻に砲弾をたたき込んだ。

大打撃の榴弾砲のせいで一層同士撃ちに慎重になる敵戦車を、決死隊はあざ笑いながら弱点である脚や裏側の装甲を狙い撃ちにする。脚を挫かれ、擱座した敵重戦車がそこかしこで尻もちをつく。

戦車に後れを取るまいと盛大に主砲を乱射するヴァローナの装甲車。敵陣中央、三輌目の脚を挫いた時、周りをヴェストールに固められた掃除夫のノーズアートが、ヴァローナの視界に飛び込んで来た。

「右に回避!」

 装甲車がハンドルを切るのと、戦艦の副砲が火を噴いたのはほぼ同時だった。

装甲車のすぐ後ろを、砲弾の雨がうなりを上げ過ぎていく。駄目押しと掃射された機銃が、装甲車の装甲を乱暴に殴りつける。伏せるヴァローナ。雨霧の中に霞む掃除夫がヴァローナを無表情に見据えた。

(今は奢るがいい)「退け!」

 硬い相貌を崩すことなくヴァローナが命じ、装甲車は一目散に立ち去る。敵主力の正面に躍り出し、敵先遣隊の只中に突入した決死隊。隊列を抜けた瞬間、決死隊の頭上を榴弾砲の雨が襲い掛かった。

「散開、回避行動!」

 指示に従い各車が回避行動に入るのを確認すると、ヴァローナもハッチを閉めて車内に引き返す。直後、下腹に響き渡る衝撃が装甲車を襲い、装甲車の天板に砲弾の破片が降り注ぐ。ベキッ、と砲弾の破片が装甲を突き破って頭を出した。

「……悪手だったかな」

 汗を拭い去りながらヴァローナ。リボルはただ首を振った。

「指揮官だろ、なら命令したらあとはどしっと構えてろ」

 そうはいっても容赦なく降り注ぐ榴弾は、失点を取り返さんと執拗に決死隊を狙い打つ。半径二十mの広範囲への衝撃が、車重の軽い四二式や装甲車を右へ左へ、木の葉のように翻弄した。一輌、また一輌と、四二式が破片に変わって地面にぶちまけられる。

(一輌でも良い、何とか陣地へ――)

 祈る思いで車外を見つめていたヴァローナは、急なブレーキで床に投げ出された。窓から差し込む爆炎の光が、車内を緋色に染め上げる。

〔誰が止まれと言った!〕

 興奮のあまり母語でリボルががなり立てる。震えか頷きか、操縦手は小刻みに上下しながらシフトレバーを入れ直した。泥が車輪に絡まって思うようにスピードが上がらない。目ざとい敵は、哀れなカモを見落としはしなかった。

 火炎、そして熱風を伴う衝撃が装甲車を襲い、装甲車は泥の中に車体を横たわらせた。




「横転したぞ!」

 暇を持て余していたヴェンツェルが目の前で起きた突然の事態に声を荒らげる。にわかに車内が騒然となり、動揺が全体に広がる。それは、一見機械的に照準を付けるオットーも同様だ。

「ぐっ……!」

 殺しきれぬ内なる思いは、固く結ばれた筈のオットーの口端を、無理やりにこじ開けて表れた。発射レバーを握る手に不要な力が入り、砲弾はあらぬ方向に飛んでいった。

「……准尉」

 ゲオルクの何か言いたげな視線を、オットーはより目の前の敵に集中することで振り払った。

(分かってる……!)

 オットーにも自分の動揺の原因は何か、自分が今何をすべきなのかは理解している。だが、今敵が殺到している状況で持ち場を離れるわけには……

 大丈夫、僚機が場を持たせてくれる、という楽観と、自分が離れたら全てが崩壊するのではという悲観がせめぎ合う。あの斜面の下で、瀕死になって横たわるのは自分の仲間だ。だが陣地で戦っている小隊機六輌、総勢二十四名もまた自分の仲間である。そして我らの庇護のもとに数百名の兵士の命がある。易々と、離れるわけには……

 凝り固まったオットーの思考は、いきなり動き出したアントンの衝撃によって現実に呼び戻された。

「なっ……操縦手、何時動けと言った!」

「俺じゃない!」

 シフトレバーを目いっぱい後進に入れながらヴェンツェルが叫ぶ。その間もアントンは不器用に全身を続けていた。

「こんな時に……不具合かよ!」

 悲鳴を上げるヴェンツェルの後ろで、オットーは痛みを伴う苦悩に顔を歪ませていた。アントンの不具合、それだけの事だ。ヴェンツェルの気まぐれなこだわりが招いた人為的ミスによる事故。それだけの……筈なんだ!

「……どけ、ヴェンツェル!」

 悪戦苦闘するヴェンツェルを押しのけ、オットーは操縦席に体を割り込ませると、計算機が入った鉄の箱を乱暴に殴打し続けた。

「機械の癖に他所様の心配なんぞしてんじゃねえ! 止まれと言われたら止まるんだ!」

 やや伏せ気味になったアントンがその場で停車する。

「クソォ、一等兵!」

 呼ばれると思ってなかったハンナの動揺した顔に、オットーは内心の怒りをぶちまけるようにして命令、いや吠えたてた。

「砲手席だ! 適当になんか撃ってろ!」

「ええっ!」

 理不尽な要求で青い顔になるハンナを置いて、ゲオルクは泥濘の中に飛び出していた。

「アントンは壊れる、分隊ほっぽり出してリボルは行っちまう! あのクソガキ、終わったら憶えてろよ!」

 ぬかるみの中を走狗の如きスピードで走り抜けながら、マシンガントークでオットーは呪詛の言葉を吐き続ける。斜面を転げ落ち、全身泥まみれになりながら彼は装甲車の下へと向かった。装甲車の傍では、頭から血を流すリボルが、重傷を負った兵士を引っ張りだしていた。

「オットー……准尉」

「俺は良いからとっととそのぐうたらを上まで持っていけ! クソガキ……少尉の方は俺が何とかする!」

 負傷者を相手にもせず、オットーは歪んだ砲塔ハッチを素手でこじ開けた。ぐったりと、装甲車の内壁に横たわるヴァローナがそこにはいた。口から血を流して、意識が半濁した状態の彼女を、オットーは無理やり抱え起こす。

「……今は、急ぐ!」

 オットーは彼女を担ぎ上げ、落ちてきた坂を上っていく。全身を刺す雨に耐えながら、足で踏んだとたん溶け落ちる泥濘を這って進む彼の後ろで、牙をむいた敵の先遣隊が突撃の合図を待ちわびていた。

「畜生ォ!」

 坂の端に手が掛かったのは、敵先鋒が走り出すまさにその時であった。再び、泥を跳ね上げて突撃してくる敵戦車。オットーは走った。敵に背を向け全身泥にまみれながら、這いつくばってでも走り続けた。前方に埋まりかけの壕が見える。

「おおおおお!」

 死力を尽くし、オットーが壕の中に体を滑り込ませた直後、彼の背を肌がひりつくほどの熱風が薙ぐ。嵐の中、オットーはヴァローナを抱え続けた。土をかぶりながら、飛んでくる鉄片を浴びながら、手の中のものを傷つけまいと。

 暴風が収まっても、オットーは暫く体を起こせずにいた。冷たい雨にせっつかれて漸く体を起こせた彼は、ヴァローナを抱えてアントンの方へと、力なく歩きだした。

「……はやく……戻らねえと」

 地獄の中をオットーの虚ろな目は頼りなげに彷徨う。後ろでは全身火傷に覆われて、泥に飲み込まれた敵が呻きを上げる。眼下では、傷ついた体を泥に埋めながら、味方の兵が永遠の眠りに抗おうと呻きを漏らす。誰が勝ったか、皆泥に引きずり込まれて。自分もまた、童一人連れ、沈み込む泥の中に、身を預けたい誘惑に抗って。

 オットーの腕の中で眠り続けるヴァローナの顔は、怪我のせいか一層青白く見え、彼にはそれが死相のように感じられた。もう、あまり時間はない。徐々に迫る破滅への不安を胸に抱きながら、オットーは歩き続けた。地獄を抜ける答えも無く、荒野を行く。

「ん……」

 傷つき眠る童一人、後生大事に抱えたまま。


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