第6話 仮初の栄光

 六 仮初の栄光


 夢を見ていた。

 夢の私は、昔押し込められていた塔の部屋で泣きじゃくっていた。窓を開け放ち、そこから紙の束を放り投げていた。それを私は眺めている……眺める?

『……嘘つき!』

 いきなり嘘つき呼ばわりされる私は、私を嘘つき呼ばわりした昔の私を見据えていた。いきなりの状況に戸惑うが、成る程、この夢で私はヴァローナ・フォン・オルレンドルフでは無い誰からしいと、すぐに理解する。では誰なのか。私の記憶の中で、昔の私をここまで気にかけてくれる人物は、たった一人しかいない。

『姉上の嘘つき! 全部のテスト百点取っても、母上誉めてくれなかった!』

 姉上――

 私が今憑依している人物は弁解も無く、ただただ頭を下げた。心にとりついた、臓腑が引っ張られるような重苦しい感情は苦悩。姉上はヴァローナの怒りを正面から受け止めていた。二重の意味で、私の心は締め上げられる。

『すまない……私が浅はかだった』

 気骨ある姉上らしい、男勝りの口調で彼女は詫びを入れ、ひたすら頭を下げ続けた。姉上が顔を上げた途端、ヴァローナは私の……いや、姉上の方へ真っすぐ突っ込んでくる。怒りに任せたヴァローナの突撃を、姉上は優しく受け止める。

『……ヴァローナ。今度のテストは、私のところに一番に持ってこい』

 穏やかに姉上が語り掛けると、泣きじゃくりながらヴァローナは頷き返す。いつだってヴァローナはこんな調子だった。いつも甘えてばかり、何時だって姉上に頼りっぱなし。

『髪でも梳かしてやろうか、ん? ヴァローナ』

『うん!』

 ヴァローナは頷くと、椅子と櫛を持って姉上の前に戻って来た。姉上が櫛を受け取ると、無邪気なヴァローナは何も考えずに椅子に腰かける。そして姉上が優しい手つきでヴァローナの髪をとかし始めるのだ。懐かしい記憶に、私は――

「反吐がでる」

 呟いた時、ヴァローナの後ろに立っていたのは姉上でなく私だった。

 何だって姉上は、こんなバカを気に掛ける。自分とは言え、姉上の貴重な時間を浪費するこの身勝手な存在が腹立たしい。どうしてこんなものがのうのうと生きて、姉上が――

『……貴方、だれ?』

 漸く気が付いたヴァローナは、私の顔を怯えた目で見つめる。目。それを見つめる私の手には、櫛では無く銃剣が握られていた。

「……そうだな、こんなもの」

 振り上げた銃剣を、私はヴァローナの左目めがけて振り下ろす――




 そこで目が覚めた。

「……ここは?」

 見慣れない天井、いや、天幕だ。だんだんと記憶が戻って来た私は徐々に落ち着きを取り戻していった。そうだ、此処は私にあてがわれた天幕の中。昨日は少年兵二人を牧師に預けて……それから……

 左目から伝う涙に気が付いたのはその後だった。涙を拭こう、そう思って手を挙げようとするが、手はがっちりと保持されて身動きが取れない。見れば、隣で寝ていた筈のハンナ・リーフェンシュタールが、私を抱き枕宜しく抱えているではないか。

「……ぐう」

「こんの……邪魔だ!」

「ぶへ!」

 無理やり彼女を吹き飛ばして、私はベッドの上から立ち上がった。不愉快な、実に不愉快な気分を、櫛を持つ手に込めて乱暴に髪を撫でつけるが、元から傷んだ髪はより絡まるだけで意味がない。

「……気に入らん」

 私は気に入らない櫛を投げ飛ばす。飛んでいった方向には丁度、起き上がって眠そうな目をしばたかせるハンナ一等兵の顔があった。

「うぎゃ!」

 顔を覆う彼女は、私と同じように不機嫌な調子で言った。

「何するんですかぁ……」

「五月蠅い、お前のせいでひどい夢見だった」

「夢? どんなです?」

 彼女を睨みつけて私は言った。

「不愉快なモノになる夢だ」




〈ブナ・ズィミナーツァ、ニコラウス! さあ時刻は七時半を回ったところ、皆さまお待ちかねブカレス・ローズのお時間だ。今日もお馴染みのパーソナリティが、同志ニコラウスの居城、人民の館特設地下牢より元気にお届け中! この放送を聞いているゾルケン兵士諸君、ブナ・ズィミナーツァ! 

さぁて愛する祖国の朝の天気は……雲一つない晴天、そう晴天だ! 洗濯に良し、デートに良し、観測射撃に良し。これも我らが書記長、同志ニコラウスの御加護の賜物かぁ? ……え、なに? 刑期延長? 社会主義に神はいない? おいおい、国を捨てたからってジョークまで革命するとは――〉

 豆のスープの入った大鍋がかぐわしい香りを放つテント。ヨーカン型のテーブルに小隊員四十九名がそろう狭い食堂のラジオが切られた時、彼らの視線は大鍋の前で後ろ手に手を組んでいるオットーに向けて注がれた。

「あー、諸君。昨日は色々あって紹介できなかったが、新しい上官が着任することになった。少尉、コッチへ」

「……頑張って」

 親指を立てて見送るハンナに会釈して済ませたヴァローナは、オットーの傍まで歩み寄りテント全体を視界に収めた。猜疑か、若しくは無関心の眼差し。ここからどれだけ支持を集められるか、そこに彼女の命運がかかっている。唾をのむヴァローナの隣で、オットーが続けた。

「少尉は士官学校を出たばかり、暫くの指揮は自分が主導となるが――」

 ふわり、と食堂の左隅の方、あまりガラのよくなさそうな連中の中から手が上がった。オットーが文字通り言葉を詰まらせていると、手を挙げた本人が呼ばれる前に立ち上がる。

 周りの取り巻きとは違い制服をきちんと着こなした、三十半ばの小太りの男。丸顔の人懐っこい笑顔と手に巻いた包帯は、ヴァローナにも見覚えがあった。

(確か……イーダの車長)

「質問は全てが終わってからにしてくれ。リボル軍曹」

 リボルと呼ばれた戦車長はしかし、微笑みと上げた右手によってオットーの注意をやんわり拒絶する。そしてかぶりを振りながらヴァローナの近くに歩み寄った。後ろの方で、取り巻き達がニヤついている。

「~~~~」

「え?」

 始め気を抜いていたヴァローナは、彼が何を言ったのか全く理解できなかった。

「少尉、彼は――」

「いや、大丈夫だ」

 片手を上げ、ヴァローナがオットーを押し留める。ここで引いては駄目だ、ヴァローナは冷静に、独学で学んだ彼の言語を思い出す。それは中世の時代、プファルツが帝国だった時代に占領した北方の山国、ツヴィーク自治州の言語。

 つまり目の前の部下は、被支配人種である。

〔すまない軍曹、焦って最初の方を聞き逃した。もう一度頼む〕

 喉を突いて出た異国の言葉は、久し振りにしてはスペルや発音の間違いも無かった。口の両端をさらに上げて、リボル軍曹は繰り返した。

〔お初にご挨拶申しあげます少尉。第二分隊隊長のリボル・バラーチェク軍曹です。先日は失態を演じたばかりか、今日も出しゃばって発言するのをお許しいただき、平に感謝いたします〕

 言葉は丁寧、しかし有無を言わさぬ押しの強さ。慇懃無礼な態度は士官学校の自分をヴァローナに思い起こさせる。だが――

(学生のアウトローごっことは違う。これは真剣勝負だ)

〔良いとも。それで、話というのは?〕

〔はっ、話というのは少尉の乗機のことです。すなわちどの車輌に乗るのが一番良いのか、ご提案がございまして。〕

〔ふむ……貴官の意見を聞こう〕

〔私がお勧めしたいのは装輪装甲車、新しく受領したてのあれなのですが……〕

 食堂の後方、今度は取り巻きだけではない、他の隊員からも笑いが起こった。前席の隊員達、プファルツ人の隊員がリボルを睨んだり、眉をひそめて話し合ったりしているのを見れば、俗世に疎いヴァローナにも何が起こったか、容易に想像できるというものだ。

(成る程、な)

「もういいだろ軍曹、お前が気にする事じゃない」

 対峙するヴァローナたちを諫めようと、顔をしかめたオットーが間に入る。だがリボルはオットーの肩越しにヴァローナへ視線を送った。一瞬見開いた眼で、彼女の屈辱感を煽る。

〔装甲車は装甲が薄いので、あまり前に出られないのですよ〕

〔……それで〕

〔指揮者たる少尉殿には前線で撃ち合う戦車より、後方でゆったりと状況を確かめる方が理にかなっているかと思われます。それに――〕

〔前に出て雑兵に交じるは、貴族の品位に差し支える、か〕

 オットーの忠告を無視して、ヴァローナとリボルは会話を続けた。一瞬、ヴァローナは前席に座っているゲオルク達の方へ視線を移す。固唾をのんで見守る三人の真剣なまなざしは、ヴァローナにオットーを押しのける決意をさせるのに十分だった。

〔他に言いたいことは?〕

〔利点としてはもう一つあります。装甲車は走る地形を選びますが、足は戦車よりも抜群に早い。つまるところ……〕

 リボルは耐えきれないとばかりに口を押さえた。隠しきれぬ口の端に嘲笑。零れ落ちる愉悦の感情。

〔避難する際には、最も頼りになるかと〕

 食堂に響いた口笛。噛み潰すように、ヴァローナはぎこちない笑みを口の端から端へと広げる。ギリギリと、軋む歯に憎悪を擦り付けて。

――痴れ者め、恥を知れ!

 胸の中を沸き立つ憤怒の感情を押し殺し、ヴァローナは口を開けられるようになるのを待った。ただ突っぱねるだけなら簡単だ、だがそれでは芸がない。何かコイツを、調子づいた間抜けに一泡吹かせる一言を……

〔よく聞け、下士官〕

 震えは殆ど感じられない自、分ではそう思った。慎重に、あくまで紳士的に、倒すのではなくこちら側に引き込むのだ。ヴァローナが続ける。

〔私は戦争が始まった時、貴族としての自分は死んだと思った。これからは貴族、平民、被支配民。分け隔てなく接し、ともに戦場をかけるのが私の務めだと、そう感じている。先兵を率いる指揮官が、後ろに引きこもって指示を飛ばすだけで一体何の役に立つ? 一昨日まで戦場を知らなかった将校に、誰が続く?〕

 静かに頭を下げるリボル。仕草は柔らかく、優雅な印象を与える。

〔……ご高察、まっことを以て正しく存じ上げます。世情に疎い田舎の出、お耳汚しと――〕

〔それに、噂が立つと困る〕

 心にもない謝辞をヴァローナが遮ると、今度はリボルが面食らった顔になった。口を閉ざし、向こうから話すのを待つヴァローナ。

〔噂……ですか?〕

 ヴァローナはここぞとばかりに、口の端を吊り上げる。

〔あそこの隊長は玉無しだ、なんてな〕

 張りつめた空気が食堂を支配する。不味かったか、ヴァローナの背中を冷や汗が伝った。だがほかに手は無い。後ろ手になり動揺を押し隠したヴァローナは、下唇を押し上げ、申し訳程度のとぼけた笑み。それが現在できる彼女の全てである。

「ハハ、ハハハ! ハハハハハ!」

 社交辞令の乾いた拍手が食堂に響いた。リボルの表情はうって変わり、歯を出して笑うそれはチンピラの長らしい下卑た裏側を露にする。彼を見つめるヴァローナの眼差しに鋭い光が走る。

「それがジョークのつもりか? タフガイでも気取ってるのか?」

「ああ、衣装を見て気が付かなかったか」

 さらに甲高い音を立てて、鳴り響く拍手。リボルが手を振ると、様子を見ていた取り巻き達も渋々加わり出した。不本意と疲労感が混じった拍手は、場を収めたい隊員達の手によっておずおずとテントの中に広がっていく。

「気は済んだか、飯にしたいんだが」

 穏やかな言葉とは反対に力の籠った手で、オットーはリボルを席まで押し返しだした。目を閉じて、ヴァローナはバレないよう鼻から深呼吸した。おい、と声がして、ヴァローナが瞳を開く。リボルのにやけ面が、オットーの肩越しにヴァローナを見据えた。

「少しだけ付き合ってやろう。ただし、俺はなにより家族の事を一番に考える」

「見りゃ分かる」

 そっけなく、尊大に返すヴァローナ。リボルは初めて歯を食いしばった。

「アンタのツヴィーク語に不義が見えたら、容赦なく見捨てるからな」

「肝に銘じておこう」

 故意か過失か、リボルが口の端を吊り上げる。

「名前も知らない奴らのケツを持つってのか?」

 ヴァローナも片頬を上げた。

「名前だと? そんなもの――」




「――じゃあ問題です。ツヴィーク人、顔に刺青、歳が三十くらい」

「八号機グスタフ車長のベルナルト。階級は伍長で、近々昇進の予定」

「正解!」

「次は誰だ、一等兵。何なら参謀本部の幕僚とかでも良いぞ」

 車体の上に寝そべるヴァローナがすまし顔で手招きする。小隊は現在南南西へ向かい、味方の退路確保のためにオーバーザルツという町を目指す道中。鳥の歌声に聞き入りつつ、先程の件で気が大きくなったヴァローナは、見張りの傍ら名前当てゲームに興じていた。

「すごいですよ少尉! 私なんて半分も覚えてないのに」

「それは……もっと頑張った方が良いな」

 ハンナの興奮した口調にゲオルクが苦言を呈す。当然だ、とばかりに胸を張るヴァローナ。五十人くらい、学校で数百人単位の家名を覚えた彼女には児戯に等しい。

「自分で言うだけあって、あの男も所詮田舎者だな。奴が対峙したのは曲がりなりにも士官だぞ、見てくればかりの男だ」

「いえいえ、大したものです少尉。あのリボルと渡り合うとは」

「いっつも厳つい人達といて恐いんですよね、あの人」

 ハンナがぶるぶると頭を震わせる。聞けば聞くほど、あの軍曹とやり合えたのが奇跡としか言いようがないくらい、彼らの評判は芳しくなかった。ヴァローナは鼻を鳴らしてさらに胸を張る。ここに来て初めての成果に、すっかり天狗になっていた。

「一等兵も、何か調べ物があるときは私に言うと良い。無口な誰かさんのせいで、コッチはなんでも自分で調べなきゃならんからな」

 そう言うとヴァローナは車長用のハッチをサーベルで叩いてみせる。ゴンッ、という乱暴な音がしてハッチが少し浮き上がった。おどけて、ゲオルク達に肩をすくめてみせるヴァローナ。渋い顔をしたゲオルクが気まずそうに頭を掻いた。

「すいません……」

「謝るなよ。全ては私と准尉の問題だ」

 ゲオルク肩を叩くヴァローナは、彼の俯いた時の陰りを申し訳なさの表れと思った。上機嫌のまま、ハンナの方へ向き直る。

「全く准尉の女嫌いにも参るな。公私の区別くらい分けられんものか?」

「? 准尉は別に――」

「そうでなければ昨夜の説明がつくかよ」

 意地悪く微笑んで見せたヴァローナ。昨夜とは、すなわち少年兵二人の件に他ならない。

「男子であれば淑女を優先するものだろう。それをアイツは」

 ヴァローナがまた肩をすくめる。彼女のような存在が戦いに出る時代、それは古臭い価値観ではあった。何でもいい、嫌がらせになれば御の字だと、適当に言ってのけたのだが、ヴァローナの本意など考えもしないハンナは腕を組み、不可解な表情を崩さなかった。

「私はそんなの、感じた事も無いですけど」

「一等兵、何事にも例外はつきものだ」

「んん……失礼なこと考えてません?」

 むっとして短いもみあげをいじるハンナ。

「さあな、気持ちというのは受け取る側次第だよ」

 カラカラと笑うヴァローナの左手が、彼女の自慢の金髪へと延びて――

「……!」

 もみあげをかき上げようとした。その瞬間、狼狽の色を浮かべたヴァローナが、電光石火の勢いでもってその手を引っ込めた。

「少尉? どうかした――」

「何でもない」

 不思議がるハンナに顔を覗き込まれるヴァローナはしかし、ハンナと目を合わせる時には既に余裕の笑みを取り戻していた。

「……手袋が煤まみれなのを忘れていただけだ」

「成る程……それなら」

 ぱっと、笑顔に変わったハンナの手に櫛。得体の知らないものでも見るかのようにヴァローナは首をすくめる。

「おい……その櫛で何をする気だ」

「決まってるでしょう……髪とかすから、後ろ向いて少尉!」

 ハッチから抜け出したハンナは一気に肉薄し、隙を突かれたヴァローナがなす術もなく馬乗りになられてしまう。間一髪、ハンナの腕を掴むのに成功したヴァローナによって、両者は拮抗状態に入る。

「いい、いらん世話だ……って。一等兵、力つよ!」

「さー、奇麗にしましょうねえ!」

「二人とも、落ちないで下さいよ」

 揉み合う二人を横目に平静を崩さないゲオルクはしかし、ヴァローナが助力を求めるの視線を送っても意地悪く微笑むだけだった。

「くそ! 伍長、准尉! 誰でも良いからこいつを止めろォ!」

「呼ばれてるぜ、旦那」

 そう言って、にやけながら振り返るヴェンツェルの肩を、オットーは黙って蹴り返した。マイクロフォンのスイッチを入れ、一言。

「お前ら、二人とも飯抜きだからな」

 半ばとばっちりに近い形で、ヴァローナの受難は再開した。




 ヴァローナがハンナと戯れている同時刻、十kmと離れていない場所で少年は聞いていた。

〈トラァジェ! (撃て!)〉

 上官である政治将校――親衛少佐の自信に満ちた号令を。自分の体を震わせて敵軍、プファイツ軍兵士達に絶望的な暴力をもたらす、百五十二mm榴弾砲の咆哮を。砲塔に煙突掃除夫のノーズアートを描いた戦車、SB5エルディルの操縦手である少年兵は、暴力的な砲声が敵兵をバラバラに切り刻むのを震えながら見ていた。

〈う~ん、良い威力だ。不愉快な資本主義者共がいっぺんに居なくなって、実に爽快。スビエル戦車の中でも、SB5ほど人道的な兵器はない。何せ苦痛を伴う不快な仕事が、楽しい花火大会に早変わりだからな。なあ、そうは思わんか〉

 少佐が不敵な笑みを浮かべ、乗員たちは乾いた笑いを上げた。少年もすぐに合わせて笑顔を取り繕うと、左の頬に付けられた切り傷が引っ張られる。隊に来たばかりの頃、少佐の衣服に誤ってコーヒーをこぼした時に付けられた傷だ。だが今は、それも幸運だったと考えるようになっていた。同じ罪を犯してもっと重い罰を課された者も多いから。

 少佐にとって政治犯兵士などその程度の存在である。

〈さあ追撃だ。操縦手、全速前進。プファイツの豚にエルディルの全力を見せてやれ〉

〈りょ、了解!〉

 命じられた少年が操縦レバーに力を込めて、エルディルはその逞しい脚で死の荒野を、まるで散歩でもするかのように静かに歩きだす。時折り、地面に転がる“不愉快な資本主義者”たちが、踏みつけられては断末魔を上げてエルディルの装甲板を震わせた。

〈何をチンタラしている! 私は全速と言ったぞ!〉

〈はいぃ!〉

 少佐の喝にびくりとして少年は、ギアを一気に全速に入れる。エンジンの爆音を押しのけて、確かに届けられるプファイツ兵たちの悲鳴に嗚咽を漏らしそうになりながら、少年は眼を固く閉じたままエルディルを前進させ続けた。悲鳴が全て止んで少年が目を開けると、覗き窓は赤黒い血の跡で一杯になっていた。

〈ひぃっ!〉

〈良くやった囚人! いや、一等兵。帰ったら貴様の家族ごと恩赦をくれてやろう〉

 少年の功績に対し満面の笑みを浮かべた少佐は、外に飛び出すと懐から信号拳銃を取り出し撃ち上げた。青空に上がった一発の信号弾が、赤い煙をたなびかせて同志を導く。

〈続け、同志たちよ! 資本主義の豚共の血によって、この地を正義の色に染め上げろ!〉

 直後、万歳! の雄叫びと共に、ゾルケンが少年たちの後に続いた。足の速いテルピエ戦車――プファイツではヴェストールという――などはあっという間に先を行って、騎兵譲りの突撃でプファイツ兵を血煙に変える。プファイツ軍にいる本物の騎兵はと言えば、人間の下半身だけが馬にしがみ付く、そんなおぞましい存在になって少年の隣を走り抜けた。

〈無様だな。おい砲手、私の目の前に斯様なものを放置するとは、いい度胸をしているな〉

 ぎくりとする砲手に、少佐の笑みが刺さる。

〈全て潰せ、消してしまえ! 悪魔なぞ、我らの世界には不要なものだ!〉

 唯々黙ってうなずく砲手が砲を発射すると、少年の前を走っていた馬は上半身だけになって吹っ飛んでいく。正体不明の肉塊が窓に張り付き、そして飛んでいった。

 雄叫び、狂喜、悲鳴。全てを一つに混ぜ合わせる砲声と、鉄の軍馬たちが響かせる蹄の音の中、エルディルは駆ける。屍と人間、死と生が織り成す膿の中に、哀れな敵兵を塗りつけながら少年は――

〈……あははは!〉

〈おかしいか、一等兵? もっと愉快にしてやれ!〉

 笑い叫び、泣き出す少年の異常さにも気づかず、少佐は陽気に告げる。

〈あひゃひゃひゃひゃ!〉

〈ウハハハハ! トラァジェ!〉

 思考を放棄した頭で少年は、なるべく多くのプファイツ兵がいるルートを突き進んだ。脳を揺さぶる悪夢からそれでおさらばできる事を信じて。

 ヴァローナ達が現場に到達する、十五分ほど前である。

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