第5話 戦闘神経症

 五 戦闘神経症


「こっちだ、急げ……!」

 戦争も始まったすぐの夏。雲に遮られる月明かりの下、ヴェンツェルに促されたオットー・ブロウベル軍曹は、後ろ髪を引かれる思いに苛まれながら、負傷したゲオルクを引きずって道を急いでいた。

「……」

 堪らず、後ろを振り返る。麗しき故郷の山村、村を見渡す小高い丘にあった自分の家は、ゾルケンの砲撃によって赤々と燃え盛る松明に変えられていた。二階の半分は砲弾で吹き飛び、残りも燃えるままに任せればすぐに崩れるだろう。だが村に火を消し止めようとする者は、消防団はおろかオットーの家族だっていやしない。

 崩れた家の瓦礫が、全てを飲み込んでしまったあとでは。

「軍曹、何をしてる……! 急げよ……!」

 スピードが落ちていたオットーに、土手陰からヴェンツェルが静かに責め立てる。気を取り直したオットーはヴェンツェルの元まで小走りに向かうと、土手陰に自分とゲオルクの身体を押し込んだ。

「軍曹、ゲオルク……伍長の調子はどうだ?」

 拳銃を構えて周囲を見張るヴェンツェルが言った。オットーはゲオルクのシャツを開くと、傷口の周りに包帯で臨時の処置を施す。

「……失血は大丈夫なはずだ。だが早く医者に見せた方が――」

 傷口を圧迫されてゲオルクが呻きを漏らすと、オットーは必死に彼の口を押さえこんで声を殺した。

「頼む、頼むゲオルク……! 今は堪えてくれ、頼む……!」

 必死の形相でオットーが懇願し、ゲオルクは涙をにじませながら頷く。ゆっくりと、ゲオルクの口に当てた手を引き離して、オットーは彼から距離を空けた。どうしてこうなったんだ。一息ついたオットーの心に浮かんだのは、誰にとも取れない問いかけの言葉だった。

 簡単な任務の筈だった。自分たち三人がいる砲兵中隊は三人の生まれ故郷で、戦意高揚と新兵募集のための式典に出てあとは短い休暇になる、それだけの任務の筈だったのに。

「……いいワインだったんだ」

「なに?」

 オットーの意味不明な呟きにヴェンツェルが聞き返す。

「ヴェンツェルお前と、ゲオルクが……久し振りに来るからって……おふくろがサプライズに買ってたんだ。ゲオルクが、先に家に来て……せっかくだからもう開けちまおうって、俺が地下まで……取りに行って――」

「……大丈夫か」

「大丈夫つったろ! 血は止まったよ!」

 声を張り上げてからやっと、オットーはヴェンツェルの“大丈夫”が誰に向けられたものか理解した。顔を伏せ、オットーは両手で頭を抱える。

「すまん……」

「いいさ、歩けりゃなんだって。流石に二人は引きずってけないからな。もう行けるか?」

「……」

「軍曹」

「……分かった……行こう」

 顔を見合わせた二人は頷くと、オットーはゲオルクを引き起こし、ヴェンツェルは銃を構えて周囲を見渡した。誰も居ないことを確認したヴェンツェルがオットー達に合図し、三人は通りに姿を――

「いや待て」

 現そうとした瞬間、ヴェンツェルの左手がオットーを押し留めた。

「どうした?」

「何か聞こえる」

 にわかに地に伏せる三人。オットーはホルスターから自動拳銃を抜き取っていた。件の音は増々近付いて、それは足音と何かを引きずる音だと彼らは確信した。二分と掛からず音の主は通りに姿を現し、雲のせいで暗い月明かりに輪郭を浮き立たせながら何かを運んでいた。

 色は判別できないがつばが短いヘルメットの形状から、オットー達はその人物が敵兵――ゾルケンの歩兵であることを確信する。ちらりと見えた顔の表情から三十代くらいの男性、そして引き摺っているのがこと切れた人間であることも。

「……」

 見たくない。精神が擦り切れる寸前だったオットーは一瞬顔を逸らした。ここは自分の故郷だ、死体が知り合いや顔見知りである可能性は十分にある。

「……何をする気だ?」

 まだ余裕のあるヴェンツェルは目の前の敵兵の動向をまじまじと見つめていた。充分戦場から離れて安心しきったのだろうか、男は死体をその場に置くと銃を下ろし、代わりに銃剣を抜き取る。

「~~~~!」

 男が銃剣を振り上げた時、暗がりから今度は別なゾルケン兵たちが今度は十人程、束になって姿を現した。彼らは男に詰め寄ると、押したり引っ張ったりして彼に大声を浴びせかける。銃剣を握ったままの男が獲物を振り回して抵抗すると、

「「!」」

 オットー達の目の前で、男は脳天を斧で叩き割られて死んだ。

「なん……だよ」

 怯えだしたヴェンツェルに比べて、オットーは逆に来るとこまで来たせいで帰って冷静でいられた。ゾルケン兵たちは運ばれて来た死体に群がると、死体めがけて斧や銃剣をしゃにむに打ち付け始める。手慣れているのか、死体はどんどん解体されて小さくなっていくのがシルエットにも判別できた。解体し終えて、敵兵の半分がその場にしゃがみ込む中、残り半分は今さっき殺した兵士に手をかける。

 月が雲から顔を出したのは、その時だった。

「……ああ!」

 隣でヴェンツェルが声を上げたのを聞いて、ゾルケン兵は一斉に此方へ振り返った。

 その口に、今さっき切り取った手足を咥えて。

 体格の大きい兵士が足など肉の多い部分を喰って、小柄で弱そうなものが骨と皮ばかりの部分を喰らう。殺した兵士に群がっている連中は、両の膝を切断して太ももにかかるところだ。

「……!」

 月夜に輝く幾多の双眸にオットーの目は釘付けとなる。痩せぎすの身体に黒く濁った歯茎を覗かせる、ゾルケンの政治犯兵士達。その中で一番早く此方に気付いた兵士が口を開きかけた瞬間、オットーの自動拳銃は反射的に火を噴いていた。

「逃げろ!」

 雷に打たれるようにして、オットー達は土手陰から飛び出した。同時に、後ろから響く銃声がオットーの耳を聾する。頭上を飛び越える弾丸が赤い線を引いて闇に消え、複数の足音がその軌跡に導かれるように続く。

「援護する、ゲオルクを早く!」

 ヴェンツェルが叫んで、追っ手に向かって拳銃を打ち鳴らす。二、三人がやられようが気にも留めず、夜の冷気を凌ぐため薄茶色のマントを纏った猟犬達は、幽鬼のように通りを走り抜けて此方に向かってきた。

(まずい……)

 衝撃的な光景にオットーは総毛立つ思いだ。ヴェンツェルが拳銃で抵抗する間に、ゲオルクを何とか引っ張っていこうとするが、一人で怪我人を連れていては歩くことも儘ならない。

「軍曹……ヴェンツェルと一緒に行ってくれ。俺は……もう無理だ」

 力の入らない手で腹の傷を抑えるゲオルクの、消え入りそうな声が聞こえた。

 冗談じゃない。オットーは取り合わず逃げ続けた。ゾルケンの屑共のせいで故郷も家も家族もなくなった、これ以上奴らに何かを差し出せというのか。

「ヴェンツェル、これを使え!」

 ホルスターに備えた機関拳銃を取り出すと、オットーは手にした得物をヴェンツェルの側へ放り投げた。刹那、機関拳銃独特の軽快な銃声が響くと、一番近くまで寄っていたゾルケン兵四人が前のめりに倒れ伏した。

 否、一人だけ。四人のうちの一人、オットー達に最も早く気付いた兵士だけは前にしゃがんで躱すと、咄嗟の事に反応できずにいたヴェンツェルの横を悠々と駆け抜けていった。

「軍曹、一人そっちに行った!」

「……!」

 もう一つある拳銃を抜き、オットーは迫っている筈の敵に照準を付ける。

(いない!)

 ヴェンツェルの攻撃をあっさり躱した兵士、手練れである筈の優秀な兵士は、対処すべき武器を持ったオットーではなく、瀕死状態のゲオルクを銃剣の餌食に選んでいた。

「~~~~!」

 声にならない呻きを上げるゲオルクは力を振り絞り、攻撃してきた兵士を思い切り突き飛ばす。飢餓状態の兵士はあっさり突き飛ばされるが、最後の力を使い切ってしまったゲオルクは、それ以上一歩も動けなくなってしまう。

「ぬうう……立て、ゲオルク! 立つんだ!」

 いくらオットーが揺さぶろうと、ゲオルクは地に膝をついたまま動こうとはしない。追いついたヴェンツェルが手を貸すが、力が抜けた人間は二人掛かりでも運ぶのは困難だ。腕を肩に乗せようにも、持ち上げる事すらままならない。

「ゲオルク、頼む!」

 そんなオットー達へ向かって、ゾルケン兵たちは銃剣の切っ先を突き付け真っすぐに突っ込んできた。

 敵の先頭を行くは、ゲオルクを刺突した手練れの兵士だ。その敵愾心剥き出しの目と、赤い血に濡れた銃剣が目に入った時、オットーの手は無意識に、最後の切り札に伸びていた。キャップを開け、紐を引き、敵集団へ向け真っすぐ投げつけられた柄付き手榴弾は、敵兵が気が付く前に夜の闇に溶け込んだ。

「伏せろ!」

 オットーが叫び三人が伏せた瞬間、敵集団を覆いつくすように広がった光が月の明かりを吸い込み、辺りは一瞬闇に包まれた。

 遅れてくる衝撃、鉄片、吹雪のように駆け抜ける肉片。手榴弾はゾルケン兵たちの中央で爆発したおかげで、伏せていたオットー達には殆ど被害はなかった。

対照に、敵はその殆ど全員が手榴弾の破片と衝撃を浴びて、爆発に近かったものから順に凄惨な死体を月明かりに晒していた。顔を上げたオットー達が辺りを見回すと、両手両足を無くしてなおもがく者の他は、敵は炭か肉片かのどちらかになり果てていた。執拗に狙って来た手練れの兵士も恐らく。

「……呆気ねえ」

 呟くオットーは痙攣する肉塊を前に呆然と立ち尽くしている。いきなりの幕切れに思考が追い付けていない。

「そうだ……二人は――」

「軍曹後ろ!」

 振り返ったオットーの背中に、鋭い衝撃が走った。

「な、ん……」

 両足から力が抜けていく感覚に耐えながら、オットーはもう一度後ろ振り返り、そして見た。見えぬものは背中に感じた。自分の右わき腹に深々と突き刺さる銃剣を。血走って濁った眼、全身火傷を負って、所々骨の覗く腕で銃剣を掴む兵士の姿を。

「ぎ、ぎ……!」

 それは憎しみか、愉悦か。ズタズタになった歯からこぼれる、兵士の不気味な声。だがその声はオットーを臆させるというよりは、むしろ怒りを増大させた。

(どういうつもりだ……)

 自分は、今日帰る家を無くした。

 故郷も無くなった。

 家族も消えた。

(それでも……!)

 それでもまだ、お前は足りないというのか。ただ一つ残った友の命、この俺自身の命まで貪る気か。お前は、お前には……!

 手榴弾を取り出したのと同じ、動物的本能によってオットーは銃剣を抜き取ると、間髪入れずに兵士の襟首を右手に掴む。そしてその胃袋、心臓でも首でもなく胃袋を、一撃一撃、憎しみを込めて銃剣で抉った。

「ふざけるな、ふざけんじゃねえ! 手前に、そんな価値が、一片でもあると思ったか! 俺から全部奪って、二人から全部奪って、まだ足りねえだと、ふざけるな! 消えちまえ、お前なんざ、お仲間と同じ、地獄の底で這いまわってろ! 二度と現れるな!」

 ぶちりと音を立てて、襟を引き千切られた兵士は力なく後ろへ倒れる。怪物を打ち倒したという満足感で、オットーはその日初めて笑った。狂気じみた悪魔の笑みだった。

「ハハハ……ざまあ……み、ろ……」

 兵士の姿を真正面から見た時、オットーは続けるべき言葉を見失った。兵士は兵隊というには、実に小さな体躯であったのだ。

怪物じみた兵士の正体は、子供だった。

「……」

 何故、機関拳銃の弾丸をこいつが躱せたのか、オットーはやっと理解した。余りに背が低かったから、そもそもの狙いがずれていたのだ。大人を撃つための照準位置では、位置が高すぎて撃つことが出来なかったのだ。

「……う」

 十歳ほどの少女が苦しそうに血を吹きだす姿に、オットー怯え切った声を漏らす。力尽きて、鬼神の如き勢いも失われた少女の目には沼のように濁った闇が広がり、オットーの心を掴んでやまない。銃剣を持った手がぶるぶる震える。ヘルメットが外れ血だまりに広がる金髪、少女の長い髪から、目を離すことが出来なかった。

(なんだ……なんなんだ……)

 訳も分からない涙がオットーの頬を伝う。殺したい、渇望するほど殺したかった筈の相手だった。何故……何故……こんなにも……

 彼の視線は握りしめたままの右手に移る。右手には引き千切った襟と一緒に、紅白の飾り紐も握りしめられていた。紐の先に結ばれているのは、血と錆で汚れた煙突掃除夫の飾りである。オットーも見たことがあるものだった。

「マルツィショル……」

 それは春と、幸運の訪れを表す素朴な装飾品である。男から、女への――

〈お父……さん……〉

 今わの際に少女が放った異国の言葉は、語学にうといオットーを狂乱させるのに十分な一撃だった。




 声も無くオットーが目を開けたのは、夜の二時を回った頃である。

(……夢)

 薄暗く、明かりの落ちたテントの中で一息つく。なんてことは無い、いつも見る悪夢の一つだ。言い聞かせて落ち着いた頃、オットーは無性にのどが渇いているのを感じた。テーブル代わりの木箱の上にある明かりに、彼が手を伸ばそうとしたその時、

 闇の向こうから投げかけられる視線に気づいて、彼はハッと顔上げた。

「……」

 視線の正体は、隣で寝ている一人の少女のものだった。

 今日保護した二人の捕虜の片割れの目が、暗闇の中で鈍く光っていた。

「……何をしてる、子供は寝る時間だ。寝ろ」

 不機嫌にオットーが言おうと、彼女は視線を逸らそうとはしなかった。焦燥感。少女の視線が注ぎこむ鉛のような重圧は、焦燥感と合わせてオットーをますます不機嫌にさせる。いや、焦燥から逃れるための怒りか。

「寝ろ!」

 それで少女は静かに目を閉じた。とんでもない所だ、オットーはつくづくそう思う。大人も子供も見境なく、戦場ではおかしくなる。そしてそのことを誰もおかしいとは思わず、おかしいと思ったやつはどつぼにはまる。戦闘神経症という狂気の檻の中で。

「……ろくでもない」

 どいつもこいつも、オットーは一人ごちた。ロクデナシばかりだ。子供を戦争に使う奴も、子供のくせに戦争に来る奴も、

……子供を、殺す奴も。

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