第4話 休息は唐突に

 四 休息は唐突に


 埃のように柔らかな小雨が、じっと佇む少女のコートをしとどに濡らしていた。少女は雨でぬれたもみあげが頬に張り付くのを、うっとおしそうに頭を振って離そうとする。

「うう……どうして私がこんなことを……」

 くさめを一つ、体を震わせるヴァローナの前には、収縮自在の後ろ脚をがくがくさせながら水平位置を模索するアントンがいた。いつもの如く不調に悩まされている戦車を、ヴァローナは震えながら眺めているのだが、それは何も、彼女が病理的戦車マニアであるからではない。

「少尉、どんな風に見える。目測で良いから教えてくれ」

 雨霧の向こうから聞こえてくる、無作法なまでに陽気な声。雨の中に放り出されてただでさえ不機嫌だったヴァローナは、内なる思いをぶっきらぼうな口調に乗せて声の主へ送り届けた。

「尻が下がりすぎ! 上昇四度!」

「おお、こうか?」

 ぴたりと、まるで測量機器で測ったかのような正確さで水平を取り戻したアントン。今度はどうだ? と、薄靄の向こうからまたもお呼びがかかる。そのおどけて飄々とした声は、意味なくヴァローナを苛つかせた。

「ばっちりだよ!」

 不満だらけの今日の鬱憤をぶつけつつ、ヴァローナはアントンの傍まで歩み寄った。昼頃に自分の胸につかえた思いのたけを、取り敢えず誰かにぶつけなければ気が済まなかった。

「全く、貴族をこうも顎で使うとは。いい身分だなヴェンツェル伍長」

 ねちっこい口調で嫌みを言うヴァローナの足元から、にやけ面を浮かべたヴェンツェルの顔が台車に乗って飛び出してきた。

「そういうなよ。いつも一人で大変だから、たまには楽したいんだ」

「……規定では壊れた計算機は交換する手筈になっているだろ。貴様の道楽に付き合うほど私も暇じゃない。嫌ならとっとと新しい機械に替えてしまえ」

「つんけんしちゃって、素直じゃねえなぁ」

「べ、別にひねくれてなどいない。これはただ……勉強の一環だ。准尉、あの不躾な田舎者を見返すための布石に過ぎん」

「成程……そういうことね」

 ヴェンツェルが一旦姿を消すと、暗がりから空の台車が滑って来た。

「来いよ、手伝ってくれた礼だ。面白いもん見せてやる」

 気分屋な部下の気まぐれに呆れつつ、台車の上に仰向けになったヴァローナは地面を蹴って、アントンの腹の下、頭上に広がる闇へと吸い込まれていった。

「……おお」

 感嘆の声を漏らすヴァローナの前に、金属部品が織り成す不規則な曼荼羅模様が広がる。写真でしか見たことの無い世界、その実物がもたらす圧倒的緻密さは、ヴァローナの興味を引くのに十分すぎる程だった。アントンの脚から伸びる幾つものチューブやケーブルが、機体の各部に配置されたモーターやコンプレッサ、そして操縦席の中へと繋がれているその姿。子供の頃虫をひっくり返して足や触覚の動きを眺めていたのを、ヴァローナは思い出した。

「興味深い」

「馬とはまた違う良さがあるだろう? あれはあれで良い物だが」

 目を奪われたヴァローナの横で、笑顔になったヴェンツェルがレンチを回しながら言った。前を向いたままヴァローナが言う。

「馬に乗れるのか?」

「前は騎馬砲兵だったからな。ここで砲兵やってる連中はだいたいそうじゃないか……と」

 ヴェンツェルが硬くなったレンチをハンマーでたたき、無理やり回しだす。

「そんなことして、壊れても知らんぞ」

「馬と同じさ……繊細だが……ふう……根性がないわけじゃない。でも最近はずっと無茶させてたからなぁ。せめてもう少しだけ、持ってくれよぉ」

 硬かったボルトが外れヴェンツェルは、取り出したパーツを眺めて歪んだ所をハンマーで叩きだす。ヴァローナが良く注視すれば、部品のいたる所で叩いたり、溶接された跡が散見された。

「やはり、この図体でやっていい動きでは無いのだな」

「コイツで生き残るにはね、アテにならない操縦法をざっと五十は憶えなきゃならん」

「ふーん」

 心ここにあらずと言った様子で視線を左右させるヴァローナ。その傍らでヴェンツェルは最後のナットを締めにかかるところだった。

「これ、で……終わり。少尉、最後にもう一つ面白い仕事をさせてやろう」

 ヴェンツェルはそう言うと、ヴァローナを車の下から引っ張り出した。彼女に梯子を上らせ、操縦席に座らせると、ヴェンツェルは砲手側のキューポラからヴァローナの後ろに腰掛けて、そこから操縦席のスイッチを操作しだした。アントンのエンジンに火が入り、機体が小刻みに震える。

「いちいち火入れせにゃならんのがなあ」

「おい、私はどうすれば良いんだ」

「目の前に操縦レバーがあるだろ、それを掴むんだ」

 半信半疑のヴァローナが恐る恐る操縦レバーを握った。両方のレバーには親指の来る位置に、小さなジョイスティックに似た入力装置が付いていて、なんだかすごく握りづらい。レバーについた革バンドの存在を教えられて、ヴァローナは漸くししっかりと握ることが出来るようになった。

「しっかりしめたか? じゃあ少尉。ゆっくりと、好きな方向に入力してみな」

 ヴェンツェルに言われ、ジョイスティックを静かに左へ滑らせるヴァローナ。急に視界が左へと傾いて、彼女も座席の上を横滑りした。

「おお……!」

「ハハハ! そら、今度はもっと大胆に……」

 ヴェンツェルがヴァローナの手を取ってジョイスティックをぐりぐり動かす。右、左、右、左。操作に合わせてアントンも、脚のシリンダーが伸び縮みさせて機体を振る。

 前にかがんで、砲を地面ギリギリまで近づける。後ろにのけ反れば、天球の全てを覆いつくすどんよりとした雲が見えた。と思っているうちに、今度は再び右に左に機体を傾ける。スティックを押し込むと、機体は沈み込んでリズムを刻んだ。

「ブギウギブギウギ……てな。まあこんなもんだろ、楽しめたか?」

「多少は……それにしても、不思議なものだな」

「何が?」

「これだけの質量を動かすのに、私は大した力もかけずにそれを成せるのだ。頭では分かっていても、やはり奇妙だよ」

「それもこれも、全ては計算機のおかげってね」

 ヴェンツェルは操縦席の横にある黒い箱を指差した。その鋼鉄の箱を撫でる彼の手を見つめる、ヴァローナの顔は複雑だ。

「……歯車の塊が機械を動かすというのは、どうにも馴染めないな」

「それを云やあ俺達だって、脳味噌って正体不明の内臓に頼りきりじゃないか」

「私にはそっちの方が腑に落ちるよ。ゾルケンの戦車が動くのは実に納得がいく」

 ゾルケンの戦車に宗主国から提供された生体計算機が搭載されているというのは、プファイツ臣民にとって当たり前の常識だった。

「政治犯から脳味噌を切り取って戦車に乗せ換える。不気味な話ではあるが、歯車の塊よりはしっくりくると思わんか」

「おっそろしい話だよ、少尉」

「だがなヴェンツェル、生体計算機は何も共産圏だけの技術じゃない。同盟国に頼み込めば、我々もその技術が使えるんだ。この時代遅れのからくりに頼ることなくアントンを動かせる」

 得意げに語るヴァローナは、後ろで聞いているヴェンツェルの表情が渋いものに変わったのを気が付かない。

「……よく知ってるな。どこの噂だ?」

「噂じゃない資料だ。士官学校の資料室には外国の軍事資料も入ってくるからな。研鑽を積み、少しずつ力を付けて、あの嫌味な田舎者もすぐにひれ伏させてやる。覚悟しろよぉ……」

 不気味な笑い声を上げるヴァローナの後ろで、ヴェンツェルは溜息を洩らした。

「じゃあ先ず、騎士鉄十字章くらいは取らないとな……少尉」

「騎士……鉄?」

 意気揚々としていたヴァローナは一転して、何か異界の言葉でも耳にしたような、呆けた顔で聞き返す。その狼狽えようにヴェンツェルは、この上ない程口角が上がり切った顔で返した。

「小隊の戦車通算撃破数四百両を記念して、准尉は陛下から直々に賜ったのさ。少尉……アンタはその、制服に勲章を付けないタイプか?」

「私……私は……」

 無論今日が初陣のペーペーに、勲章などというものは、ない。




「二人ともぉ、お夕飯ですよぉ」

 雨音に負けない元気な声は、静かに落ち込んでいたヴァローナを車内から這い出させた。外にはこちらに大きく手を振るハンナと、エプロン姿で静かに佇むゲオルクがいる。

「……ああ、もうそんな時間か」

「元気ないなぁ少尉。今日はシチューですよ、腕によりをかけて作りました。軍曹が」

「頑張りました」

 なぜか胸を張るハンナの横で、穏やかに笑うゲオルク。彼の首元に一級鉄十字章が輝いているのを見て、ヴァローナの収まりかけていた苦悩は早くもぶり返す。

「……ホントに、大丈夫ですか少尉」

 だんだん不安になってきたハンナの気遣いも、しかめっ面のヴァローナは煩わしいと顔を背けてしまった。

「大丈夫……だから、早く上がってこい」

 オットーはまだ姿を見せないが、腹をすかせたヴェンツェルの提案で四人は先に食事をとることにした。車座となり、スプーンを受け取った各人に飯盒が渡される。

「さて、お手並み拝見だな……」

 興味半分、恐ろしさ半分。開けられた飯盒の中身にヴァローナの視線が注がれる。旨そうな匂いを立てているが、あまり具は見当たらないシチューに、ヴァローナは慎重を期する手つきでスプーンを差し入れた。

「……」

「お味どうです?」

 期待を込めた眼差しで、ハンナがヴァローナの顔を窺う。

「まあ、前線の食事だな」

 そう言いつつ、シチューを掬う手を止めはしないヴァローナ。その横で、ハンナとゲオルクは小さくハイタッチを決めた。

「畜生、ムカつく雨だな。テントは使えないのか?」

 和やかなムードの三人に対して、愚痴を垂れながらシチューをかきこむヴェンツェルは恨めしそうに顔をしかめる。嬉しさに浸るハンナが答えた。

「今日は救出した部隊に貸してやれってことらしいですよ」

「嘘だろ……一日の労働の対価がこれかよ」

 愚痴をたれつつ、食事を続けるヴェンツェル。雨を凌ぐだけならアントンの中に籠ればいい。だがあのオイルの激臭の中で食事をしたい猛者はそうそういない。暖房でもつけようものなら、エンジンの爆音とむせ返る排気の香りもセットでついてくる。

「あーあ、せっかくの飯がもったいねえ」

 ヴェンツェルがいくら不満を漏らそうが、降りしきる雨は弱まらない。無視してヴァローナは食事を続けるが、すぐにそれも難しくなって来た。元々半分しか入っていないシチューを、若い食欲に任せて一気に頬張っていたので、早くも飯盒の底が見えてきたのだ。

「……」

 ヴァローナの物欲しげな目が、ハンナの傍に置かれたオットーの飯盒に注がれる。ヴェンツェルではないが、一日の労働に対してあまりにも少ない対価に、ヴァローナも思わぬものがないわけでもない。特に准尉に、特に准尉に。

(補填は……あっても良いよな?)

思い立つが早いか、ヴァローナの手はハンナの懐から飯盒をかすめ取っていた。

「あー!」

「しっ!」

 抵抗を試みたハンナの飯盒に、追加でシチューが突っ込まれる。

「これで同罪だ」

「あー……」

 懐柔完了と、今度はヴェンツェル達の方へにらみを利かせるヴァローナ。二人がさっと視線を逸らしたので、ヴァローナは自分の飯盒にシチューを移す。昼の報復、しめて八掬い。

「ふん、アイツにはこの位でちょうどいいわ」

 オットーが姿を現したのは、ヴァローナが飯盒の蓋を締め終わったまさにその時だった。

「お前ら、テントが使えるようになったぞ」

 雨に霞む人影となったオットーがそう言うと、ヴェンツェルとゲオルクは車上を滑り降り、期待のこもった眼差しでオットーの元へ詰め寄った。

「確かですか准尉」

「歩兵共に『今日の命があるのは誰のおかげだ?』って言ってやったら、快くな」

「よく言う、恨めしそうな顔が浮かぶぜ」

 オットーの脇腹を小突くヴェンツェルが朗らかに笑う横で、一息つくゲオルクも降りつめる雨を恨めしそうに見上げていた。

「准尉、隊員には自分が伝えてきます」

「頼むぞ軍曹……一等兵、それとお前。いつまでそこに座ってるつもりだ。早く来い」

 オットーの呼びかけにヴァローナ達はびくりとする。二人の間には件の飯盒が心細げに佇んでいた。どうする? と情勢を窺っているヴァローナの耳に、装甲板をひっかく微かな金属音がした。見れば彼女の右手のすぐそばに、オットーの飯盒が寄り添うようにして置いてあった。

「一等兵……!」

「うわ……」

 飯盒から手を離し、勢いよく車上から滑り降りたハンナ。ヴェンツェルの陰に隠れて恐る恐るヴァローナの反応を窺う卑怯者を前に、拳を振り上げたい衝動に駆られたヴァローナだが、訝しむオットーの視線に寸でのところで押しとどまった。

「ずっと居たいんならそうしろ」

「憶えてろ……」

 眉間にしわを寄せるヴァローナは毅然とした足取りでオットーの下へ近づくと、右手に持った彼の飯盒を決断的速度で突き付けた。

「……? どうも」

 戸惑いつつもオットーが受け取る。ヴァローナは顔を背けると、儀仗兵の如くきびきびとした足取りで三人の前を行った。腑に落ちないオットーを引っ張ってヴェンツェル達はあとに続く。泥と化した道の上に、ヴァローナの規則正しい足音が響いた。

「そう言えば准尉、イーダの新しい戦車は貰えたのか」

 何気ないヴェンツェルの呟きに、ヴァローナも後ろへ意識を集中させる。

「いいや。歩兵部隊に付けると言ってきかなくてな」

「なにぃ、只のトーシロに使えるわけがない。明日からの計画は?」

「変更なし。小隊は代わりの装輪装甲車を引き連れて各所の火消しに回り、最後は唯一の撤退路である鉄橋の守備に就く……ったく、どうしろってんだ」

「日程は大幅に変えにゃならんな、准尉。今のままじゃ身が持たねえよ」

 話題に加われぬ歯痒さを抱えつつ、ヴァローナは足を進めた。ここで駄々をこねたところで、オットーに面倒くさそうな顔で適当にあしらわれるだけだから。ならば今は、時期を窺うべき時期だろう。連中の鼻を明かすその時まで、せいぜい好きにさせておこう。

(今に見てろぉ……)

 決意も新たに霧の向こうを睨むヴァローナが、落とした肩を直そうとしたその時――

「うわっ!」

 後ろにいたハンナが彼女の肩を掴み、自分の側へ引っ張り寄せた。姿勢を崩したヴァローナはハンナに両肩を支えられて何とか持ち直す。

「貴様、何をする!」

「静かに!」

 聞いたことの無いハンナの真面目な口調に、ヴァローナは押し黙った。ハンナの視線は、近くにあった茂みの中へ注がれている。

「誰か……います!」

 固まっている二人の前にオットー達が立ち塞がり、茂みの方を睨みつけた。

「ハンナ、武器は?」

「ええと……」

 冷静に尋ねるオットーと対照的に、ハンナがポケットを探る姿はあまりに滑稽だった。

「すぐ出せるところに身に着けておけ!」

 ヴァローナが自分の拳銃を出してハンナに押し付けると、自分は腰に吊ったサーベルを抜きオットーの左側に並ぶ。雨粒に揺られる茂みは一見無害だが、偏見は危険だ。

「勘違いか?」

 早くも拳銃を下ろしかけるヴェンツェルに対し、オットーは自前の機関拳銃を茂みに突き出す。負けじと、ヴァローナもサーベルを構えて襲撃の構えを取った。

「先に撃つ、向かってきたら斬りかかれ」

「分かった」

 オットーの提案に対して、ヴァローナの答は素直だった。頷き返し、オットーは茂みに向けて機関拳銃の狙いを付ける。

「いくぞ……3、2、1」

 タタタタ、と雨粒が弾けるような銃声。茂みから転がり出てきた小さな二つの人影は、ヴァローナたちとは反対の方角へ走っていく。もう一度、今度は左にいる人影のすぐ傍を弾丸がかすめていった。

〈止まれ!〉

 ゾルケン語でヴァローナが怒鳴ると、左側の小柄な兵士は足を止めて銃剣を投げ捨てた。

〈止まれ!!〉

 もう一度、今度はより強い口調で制止するヴァローナ。往生際の悪い兵士は水たまりの中に立ち尽くすと、銃剣のついた小銃を油断なく彼女たちに突き付けた。

(まずい!)

 ヴァローナの踏み出そうとした足が止まる。窮地に立たされ動揺した兵士を、急に動き出して刺激するのは避けたかった。互いの眼光に射すくめられ、両者が立ち尽くす。

 冷え切った雨が、六人を静寂の中に取り残した。

「全員下がってろ」

 最初に足を踏み出したのはオットーだった。彼がヴァローナの前に立ち塞がると、兵士の狙いはゆっくりと右にずれる。

「無駄だ。一人やる間に残りの三人にやられるぞ」

 オットーは右手の銃をしまうと、腰に下げていた飯盒をすぐに止まった兵士に差し出した。銃を構える兵士が何か言うが、飯盒の蓋はすぐに開けられ、中からシチューの温もりを伴う香が解き放たれる。兵士は飯盒を傾け、中身をラッパ飲みする。ヘルメットがずり落ちて明らかになった顔は、頬骨が皮膚を突き破りそうな勢いで尖っていた。

「子供……?」

 ヴァローナの眉間にしわが寄る。目の前のそれは人間であることが疑わしい程、異形な存在であったからだ。落ちくぼんだ眼の奥で異様な輝きを放つ目が、獣のものと瓜二つである。

「ちょっと良いか、また後でやるから」

 オットーが少年の手から飯盒を取り返すと、今度は銃を構えたままの兵士に飯盒を差し出した。ゆっくりと、確実に距離を詰めるオットーは、銃剣に手が触れるくらいの位置で停まった。

「腹減ったろ」

 逡巡する兵士の袖に少年の手がとりついた。漸く観念して、銃を地面に落とした兵士がヘルメットを脱ぎ捨てる。栄養失調特有の縮れ毛。肩まで伸び切った彼女の髪は、泥や雨に薄汚れてまともに手入れされた様子もない。兵士がメットを取った瞬間、オットーの頬と首筋が痙攣するのを、ヴァローナは見逃さなかった。

「何をしてる、早く渡してやれ」

「……ああ」

 少年の時とは打って変わって、あからさまに躊躇って見せるオットーが飯盒を渡した。ひったくって、少女は飯盒の中身を素早く胃に流し込む。少年がねだってコートの裾を引くが、彼より一回り大きい少女は情けを与える気などない。

(ひどいものだ)

 ヴァローナがそう思ったのは少女に対する中傷や、少年への哀れみからではなかった。ヴァローナよりも幼く見える二人が戦場にいるのは、彼らがゾルケンの政治犯収容所出身だからに他ならない。あの国では親が捕まった時、子供は例え妊娠三ヶ月であっても“反革命精神”が伝播していると言って刑務所に送られるのだ。

 生まれた時から罪を背負った子供は、生きるため逃げるため行いうる限りの手段を尽くし、そしていつかは犯罪者の烙印にふさわしき面容と心持を手にする。そして今度は立派な犯罪者として鞭うたれるのだ。刑務所が犯罪者を作り出す、以上としか言いようのない仕組み。ヴァローナのひどいは、そうした体制に対するあらん限りの義憤に他ならない。

「ハンナ、司祭を呼んで来い。ヴェンツェルはテントの確保だ」

「了解」

 オットーが二人に指示を飛ばしている間も、少女は飯盒から口を離そうとしなかった。少年は両手で彼女を引っ張り、声を出してダダをこねる。眉をひそめ、うっとうしいと振り払った少女は、ポケットから出した半月状の何かを、泥の中に投げ落とした。

「無体な……弟だぞ」

 流石に顔をしかめるヴァローナが、落とした何かを拾おうと手を伸ばした。

 ぐにゅり、と物体の中に指がめり込む。甘ったるい腐臭を上げるそれは握ってみて初めて肉だと分かるほど黒く変色して、わずかに無事な表面は人間の表皮のように……いや、確実に人間のそれである。

「うわぁ!」

 ヴァローナが取り落とした物体を拾い上げ、茂みの向こうへと思い切り投げ捨てたオットー。反射的に、少年が茂みに向かって駆け出した。

「拾うな!」

 オットーが少年の襟首を掴み、無理やり抱き寄せた。少年はなおも手を伸ばし続けるが、オットーにがっしり捕らえられて逃れられない。少女が、飲み干した飯盒を地面に捨てた。

「食い物ならある、食い物ならあるんだ!」

 落ち着きを取り戻す少年。泥だらけになったオットーが短く言った。

「……来い」

 オットーは項垂れる少年の手を引いてテントへ向かう。すれ違いざま、オットーの鋭い視線を浴びた少女は、泥の入った飯盒を拾ってぞんざいに投げて返す。オットーは顔を逸らし黙って立ち去る。少女の銃を拾い上げたヴァローナが、不機嫌な顔をした彼女にぎこちなく微笑む。

〈弟は、奴に任せておくと良い。行こう、貴様の分もある〉

 ヴァローナが差し出す手に目もくれず、少女は先を行くオットー達の背中を睨みつける。

 怒っているのか――初めヴァローナはそう思った。しかし少女の目は、単に腹を立てたとか不愉快だとか、そういうちんけな感情を表しているのではない。彼女の見開かれた目は、まるで……猛禽のそれを思わせるものだった。

〈弟が、気になるか〉

 問いかけに少女は反応を見せない。思い返せば彼女は、少年に対して姉らしい振る舞いを一切していない。思い込みか、ヴァローナは考えを改める。

〈あの子は、どんな関係だ?〉

 下から窺うようにしてヴァローナが尋ねると、少女は真っ直ぐ指を立て、その指で少年の背中を――刺した。

「飯」

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