第2話 初邂逅

 二 初邂逅


 朝露の香りが残る午前八時頃。雑多なガラクタと物資に囲まれた空き地にそれはいた。

 それは百二十二mm改造砲とドーム状の胴体、六本のたくましい脚をもつ鉄の化け物。戦車と呼ばれる戦場の狩人である。

 それを知らない人々には、車種名であるベルヒリンゲンという名で呼ばれる。それをよく知る者には、アントンと言うフォネティックコードで親しまれる怪物である。

 怪物は、前屈みになって大砲を思い切り上にした状態で静止していた。その状態が正常というわけでは無い。機械式計算機の故障で姿勢制御の入出力が狂っているだけだ。アントンの足元に寝そべる操縦手が手を動かす度、伸び切った後ろ脚の油圧サスペンションは小刻みに上下し続けた。

「おい、まだ直らないか」

 小刻みに揺れるアントンの丸っこいボディの上。胡坐をかいている准士官――スカラベ戦車小隊指揮官のオットー・ブロウベル准尉は本意では無い苛立ちを部下にぶつけた。部下からは何の返答もない。

「……とっとと新品に替えちまえよ……」

 肘をついて悪態をつくが、別に部下の行いに怒ってはいない。長いことエンジンをかけたままだと、だんだん尻が上がってくるのがこの機体の癖だったし、部下も部下でちょちょいと直してしまうので気にしたことは無かった。現に、地面が見えるほどつんのめっていたアントンは水平を取り戻しつつある。

 問題は、長時間エンジンをかけ続ける原因を作った、愚かな待ち人の方にあった。

「遅えな」

 すでに待ち合わせの時刻からは一時間を過ぎている。その間彼は黒い髪もぼさぼさのまま朝食も簡単なもので済ませ、丸っこくてつるつる滑る不安定な車上にずっと胡坐を組んでいるしかないのだ。

(上客気取りめ……)

 イライラしながら、彼は顎の下の無精髭をゴシゴシこする。まばらに飛び出した毛が指の腹に突き刺さった。別にこの髭は、朝の支度が不十分だったからこうなのではない。自分が持っているカミソリがなまくらの域に入り、紙も満足に切れないせいなのだが、今のオットーは全ての悪の根源を、無作法な待ち人に押し付けかねなかった。

「ふう……手間かけさせる。大分腹に据えかねてるな、准尉」

 アントンの脚の下――計算機を調べていた操縦手のヴェンツェル伍長は、青い剃り跡も残らぬ顔で、陽気なサングラスにふさわしい笑みを浮かべてオットーを見上げた。

「ん」

「随分しけた挨拶だなぁ。顎の髭と言い、それじゃあいやいや徴兵された地方人と区別つきませんぜ」

 どうでも良いと、オットーの一瞥が足元の剽軽者に突き刺さる。ヴェンツェルはそんなものは知らんとばかりに車上へ上がる。来るなとばかりに顔をしかめるが、ヴェンツェルの手に握られたライ麦パンを口に突っ込まれた途端、オットーの拒絶の心は少しだけ和らいだ。

「そんななりしてちゃあ、いい男に生んでくれた母親に失礼ってもんだぜ」

「代わりに待ってくれる親切な部下がいればな。後よく切れる剃刀」

 オットーはライ麦パンから視線を上げようとはしなかった。

「ダメダメ、そんな来ないものまっていたってしょうがない」

ヴェンツェルがひらひらと手を振る。

「俺の顔を見てみなよ。物がなくたって、しっかり手入れしてやれば刃物なんてすぐ使えるようになるさ」

「そうだな、“柄”までピカピカの剃刀を持っているんだ。さぞいいやり方があるんだろう」

「うっ……」

 一瞬の隙をついてオットーは、ヴェンツェルのポケットから彼御自慢の剃刀を取り上げる。手に持った剃刀は刃こぼれの一つもなく、柄は角も擦り減らずきれいな直角を維持していた。それはもう、手入れでどうこうするというレベルでは無いほどに。眼が泳ぎ出したヴェンツェルを、オットーは肘で小突く。

「俺にもくれよ。いつ手に入る?」

「いいけどよ、金はあるのか」

「長期休暇も無しに地獄で三ヶ月。ここらの楽しみにゃあ飽きが来てるんだ」

「成る程……分かった、そう遠くないうちに何とかしよう」

「ねえ准尉」

 びくりとして二人は、車体中央にある百二十二mm砲の陰から顔を覗かせる少女―無線手のハンナ一等兵の方へ振り返った。ハンナの茶色い眉は不可解の形にゆがみ、青い目が訝しむように細められていた。

「どうして柄がピカピカだと、良い研ぎ方だってわかるんですか?」

「え……それは、その……」

 オットーのパンを持つ手が本人の苦悩に合わせて宙を舞う。彼自身、この少女に後ろ暗いことはあんまり教えたくはなかった。何故ならば――

「つまりだな、普通なら角がすり減ろうが気にしない柄も、俺は気にしちまうのが他の連中とは違うって、准尉は言いたいんだな」

「ああ~、確かにそうですね」

 と、こんな風に人を疑うことを知らないからだ。

「准尉はすごいなぁ。私、人の道具の使い方なんて気にした事も無くて」

 まあな、と言いつつ、オットーはぼさぼさの髪を撫でつける。小さな紡績会社の箱入り娘という事実を抜きにしても、この娘の“純真さ”は、己の姿が小さく感じる程輝いて見えた。

(どこで育ちを間違えたのか)

 ヴェンツェルとふざけ合っている彼女を見ていると、オットーは自嘲めいた感傷に浸らざるを得ない。彼自身戦いの前はもう少し愛想も良く、不正を憎む心を持ち合わせていた筈なのだが……

「准尉。指揮官殿をお連れしました」

 再び不意を突かれたオットーが視線を下げると、そこには若干太り気味の装填手――ゲオルク軍曹が、生まれつきの困り眉をもっと困らせて佇んでいた。

「ご苦労だったな」

「いえ、事務所で物資の無心をしてたら、いきなり声を掛けられただけです」

 ゲオルクはそう言うと、青い剃り跡の残る頬を微かに上げて肩をすくめた。押しに弱い奴の事だ、道を指差しで示すだけでは済まなかったのだろう。オットーも微笑み返して辺りを見回し、そして肝心の待ち人がいないのに首を傾げた。

「おい、連れてきたんじゃないのか?」

「……それが着いては来てたんですが、途中であっちこっちに行くもんですから――」

「おお、これがわが愛馬か」

 無遠慮なよく通る声が、戦車が立ち並ぶ配車場に響いた。

「ん?」

 いきなり現れた未知の存在に対し、オットーは訝しむ表情を隠せなかった。若い、というより随分と幼く見える少女が、将校の格好をして仁王立ちしていたからだ。

「見たところ、貴様がこの隊の先任士官であるようだな。おい下士官、馬上から上官を見下ろすとは何事だ。さっさと降りろ」

 横柄な右腕の一振りで、少女は降車を促す。疑問の眉を不愉快に変え、オットーは黙々と指示に従った。愛車の脚についた梯子を伝い、毅然とした足取りで少女を威圧するように近付く。胸を張り、影がかぶさる近さで気を付けになる。

「け、敬礼はどうした!」

 こいつは――精一杯背を伸ばして威厳を示す少女に、オットーの目に鈍い色が混じった。

 身長は百六十強。青い目は目の前の大人に対し警戒するので精一杯で、落ち着きがない。ご自慢の長い金髪を冗談みたいに長く伸ばしている姿は、慰問のために来る劇団役者を思わせる。

(金髪……)

 無意識のうちに肩に力が入るのを、オットーはそれと悟られずに抑え付けた。

……極めつけは、左目に付けた刺しゅう入りの眼帯だ。他にもサーベル、拍車、馬鹿馬鹿しいのを上げればきりがないが、傷を偽るほどオットーが気に入らないことは無い。眼帯は愛車の名の由来となった騎士のアイコンだが、ファッションでそんなことをする奴は自分が馬鹿だと認めているようなものだ。

(只の、ガキだな)

 オットーはなおざりに手を挙げて、敬礼とも挨拶ともつかぬ仕草を取る。

「……ふん! 分かれば良い。官姓名を」

「先任士官、オットー・ブロウベル准尉。貴様は?」

「貴様だと……ハルシュターゼン士官学校、第九十七期卒。ヴァローナ・“フォン”・オルレンドルフである。准士官と貴様や俺などと、気安く呼び合う身分ではない!」

 新任少尉ヴァローナは顔を背けると、そのままオットーの時計回りに歩き始めた。

「准尉。今まで他の指揮官は、貴様の横柄な態度を見逃してきたのかもしれないが……」

一周回り切った辺りで、ヴァローナは俯いているオットーに向かって精一杯のにらみを利かせる。彼女の怒り顔の裏にある僅かな不安をかぎ取るのは、オットーにとって造作のないことだった。

「私の前では控えて貰おうか。というより、止めろ。不愉快だ」

「……」

自惚れもいいとこだ。脅威を全く感じさせない有り合わせの芝居に、オットーは彼女を目で追うことすら辞めていた。

「おいチビ」

「な……いうに事欠いて、貴様は―!」

「貴様では不満だと言うから変えただけだ。俺も親しくする気なんざ毛ほどもない」

「ああ、不味いぞ」

 言葉とは反対に、ヴェンツェルは嗜虐的な笑みを隠さない。いがみ合う二人に一番近いゲオルクがうんざりとばかりに目を閉じた。

「良いかチビ、幾つか言っておくぞ。一つ、軍隊に時間が守れない奴は必要ない。出撃の時刻はもうとっくに過ぎてる。一つ、士官学校での軍人ごっこならもう忘れろ。その眼帯も――」

 オットーは指で彼女の眼帯を軽く弾いた。隠しきれない声が漏れる。

「――つけるのはてめえの勝手だが、バカ丸出しなのに気づけよ。サーベルと拍車もだ」

「……っ」

「それから最後に……アントンはお前の愛馬じゃねえ、俺のだ! 欲しけりゃてめえの実力で勝ち取れ!」

「黙って聞いていれば……この!」

 ぶるぶると震える拳でヴァローナはオットーの胸を殴った。当然、彼の肉体はそんな程度で揺れる程やわではない。逆にオットーはヴァローナの小さな拳を掴んで、簡単に投げ返してしまった。

「う……」

「それだけ分かれば、今はそれでいい。乗れ!」

 指で指して、オットーはさっさとアントンの梯子に手をかけた。

「出発だ、全員乗車!」

「貴方たちで最後ですよ。他の小隊機も待っていますから急いで」

 先に乗っていたゲオルクが、オットーの体を引き上げる。虚を突かれたヴァローナもこれに続くが、アントンの脚についた梯子は途中で途切れており上るのに手間取っていた。

「ちくしょう……!」

「……手伝ってやれ」

 オットーは振り返りもせずにさっさと車内にもぐりこむ。続いてゲオルク、最後にヴァローナが転がり込むようにして席に着く。尻をさすりながらヴァローナが顔上げれば、主砲の砲尾が目と鼻ほどの距離の場所にでんと構えていた。

「うぉ……」

一番奥に着席する彼女の周りは砲弾と備品の山で埋め尽くされ、彼女の前で隙間を縫うようにオットーとゲオルクが左右の席についている。さらに前では一段下がったところに居るヴェンツェルとハンナが、備品と機器の間から後頭部と肩を覗かせる。

「ハーネスは締めとけ」

 それはオットーにとって数少ないやさしさだったが、ヴァローナはそっぽを向く。

「……どういうつもりだ?」

「逆に聞くが、そんなに危険なものなら何故貴様はしない? 先輩風でも吹かしたつもりか」

「隊長、どうする?」

 後ろを振り返るヴェンツェルの心底楽しそうな笑顔が目に入った。仕方がない、オットーはハッチを開けると後続車に向け手で合図する。

「発進!」

「ヤボール、カピテン」

 ヴェンツェルが操縦レバーを前に倒す。すると黒い排気をどろどろと吐き出しながら、アントンが六本ある脚の三本を持ち上げ、勢いよく地面に突き刺した。

「……!」

 演習の砲撃をゆうに超える衝撃が、ヴァローナの尻に響いた。続いて二歩目。

「……」

「もう一度言っておくぞ。ハーネスを、締めろ」

 腰をさすっているヴァローナに対するそれは、とうに優しさなど失せていた。

「うるさい……良いからとっとと行け」

 冷や汗を流しつつ、取っ手にしがみ付くヴァローナは吐き捨てる。首を振るオットーは、前にいる操縦手の肩を三回蹴った。

「おおお……!」

 とってから手を離すまいと手を突っ張るヴァローナ。アントンは気にも留めず、脚を地面へしゃにむに叩き付けた。整えられた車道を超え、泥濘と化した大地を戦車は駆ける。

 貫き、引き抜き、押し出す。その動きを十秒の間に何度繰り返すことか。騒音、振動、揺動。車内の隅々で不快指数がカンストする。洗濯機の中、というにふさわしい喧騒の中でオットーは、ヴァローナの瞳が卵のようにかき混ぜられるのを目撃した。

――肩の力は抜けよ。

ちゃっかりハーネスを締めたオットーは、他人行儀に念を送った。


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