魂魄のマールツァイト

文化振興社

第1話 お勉強の時間

 一 お勉強の時間


 昨日の友は今日の敵。

 言ってのけた初の人間は、この世の英知は全てわが手にというぐらいの驕りをもって、聴衆の前に立ったに違いない。

 確かに的をえた、得過ぎている。東洋の神学に通じる、虚無主義にも捉えられかねない写実性でもって、この世界を切り取る出来た格言だ。

 だがその“良い”出来ぐあい故に、私はふと思わざるを得ないときがある。この言葉を残した者は世界に殆ど関わりも持たず、時の流れを見世物であるかのように斜に構えて見据える臆病者でしかないのではと。

 現にこの国の危機と真正面から向かい合っている者たちには、斯様なうわごとを垂れる暇などありはしない。裏切りに対する憎しみは当事者にとって、理屈を超越した次元の生き物として成長を遂げていくのだ。真理の一つや二つで、掻き消されはしない。

 世界最終戦争と言われた、四十七年前の大戦。塹壕と近代科学の前に敗北を期した我が国、プファイツ王国はその領土を大きく切り取られ、大陸有数の列強から弱小国家へと成り下がった。

同君連合として王国の工業を担っていた、ゾルケン公国も独立し二十年の後に革命が勃発。ゾルケン・ラシイェト人民共和国として、社会主義陣営の仲間入りを果たす。そして隣国の革命こそが、不幸続きの我が国に対するとどめとなるか否かというのが、目下の我々に突き付けられた課題であった。

 神の御手は赤旗に変わる、ゾルケンは我々に標語を突き付けると同時に国境を突破したのが一年前。宗主国ラシイェト連邦からもたらされた最新兵器をもって国土を蹂躙した。同盟国にも見放された我々が、国の北東で敵を食い止め早六ヶ月。戦局は均衡を見せ、どちらに傾くとも知れぬ。英雄の時代が来たのだ。待っていたとばかりに士官補である私――

「オルレンドルフ、余所見をせよと何時言いました!」

 投げられたチョークを掴み、侮蔑に変わって投げ返した私―ヴァローナ・フォン・オルレンドルフは、ガラガラになった士官学校の講堂窓際で、名門らしい貴族の名前当てゲームに興じていた。

「……よろしい。ではこの空欄になっている貴婦人の名前を」

 退屈だ。ただその一心に尽きる。答える代わりに私は板書を写したノートを破り、紙飛行機にして飛ばしてやった。飛行機は教壇の遥か上を超えて、壇上に立つ教師の髪にすぽりと突き刺さる。退屈な授業で石と化した同期たちから笑いが漏れた。面白いか? 私は訝しんだ。こんなことは何度もやって、彼等も何度も見た筈だから。

(皆……退屈の虜というわけだ)

 私が机の上に肘を突き出すと、老女の頬がぶるぶると震えた。

「何ですかその態度は! 曲がりなりにも高貴な、淑女の態度ではありません!」

 甲高く吠える教師が投げ返す飛行機は、急なループを描いて、私の左目に飛び込む。目蓋に衝撃。熱い血液が目尻を伝う。気にすることは無い。血を流すのは私のかくし芸だ。

「危ない危ない。“高貴な”貴族の目を潰したらことです。ホント、こっち側でよかった」

 私が左目、いや、左目を覆う眼帯に指を滑らせると、冷静になったのであろう老女は冷や汗を流しながら視線を下げた。こんな私でも、高貴で格式高い存在だと一応認識されてはいるらしい。

「……」

「ちょっと失礼。淑女は身なりに気を使わなくては」

 有無を言わせずに席を離れ、化粧室の洗面台へと向かった。眼帯をずらし、左目をぬるく温まった水につけると、赤い水が洗面台に吸い込まれた。幸い血はすぐに収まる。傷は小さかったらしい。

「ひどいものだ」

 鏡に映る我が相貌を眺め、大した感慨もなく呟いた。授業はまだ続いている、外に出て逃げる事も戻って真面目に授業を受けることも出来ない私は、当てもなく廊下を彷徨い続ける。疲れ切った私は、窓の向こうを行く駄馬の群れに羨望の眼差しを向ける。

 風が欲しい。塞ぎ切った我が心には、それが何より入り用だ。


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