第33話 勇気あるぼっち -中原和総-

 階段を上りホームへ向かう。

 朝倉さんはもう電車に乗って行ってしまっただろうか。


 いや、きっとそうに違いない、何せ至近距離で俺の射出シーンを目の当たりにしたのだ、百年の恋も冷めて当然であろう、どれだけなけなしの勇気を振り絞ったところで、クソダサの極地に等しい行いをしたのであれば、見限られて当然ではないか。

 いいのだ、これでいいのだ、俺と朝倉さんは初めから交錯するべき人種ではなかったのである、俺らしくもない真摯な紳士を振る舞おうとして結局失敗することに比べれば、まこと分相応な間抜けっぷりを晒して呆れられるのであれば、これはもはや本望である。

 朝倉さんは確かに得難い人ではあった、だがしかし、俺は元からぼっちなのである、たった一週間前に戻っただけではないか。

 泣くな和総、これが俺なのである、涙を拭け和総、俺の運命を受け入れるのだ、鼻をすすれ和総、まだ胃液の香りが残ってるぞ!


 俺が止めどない涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらホームに立つと、そこには一つの人影があった。

 滲んだ視界の中で、人影がこちらを向く。


「中原くん!」


 俺の耳に、聞き覚えのある艷やかな声が届く。

 見ると、声を放った人物がこちらに駆けて来るではないか。


「待ってたわ、中原くん」

「……朝倉さん?」


 そう朝倉さんである。もはや、二度と会うこともあるまいと、だから忘れようと、なかったことにしようと、そう思おうとしても、出来るわけがなかった、朝倉さんである。

 その朝倉さんが、俺の元へ駆け寄ろうとしているではないか。


「ま、待った、朝倉さん!」


 俺は彼女に停止するよう叫んでいた。


「どうして、中原くん!?」


 俺にはわからない、何故朝倉さんは俺に向かってくるのか、何故朝倉さんは俺を見つけた途端にそんな笑顔を見せたのか、何故朝倉さんは必死になって俺に訴えかけるのか。


「だ、だって、俺は、無様でかっこ悪くて、真摯な紳士なんて名ばかりの、ただのぼっちだから……」

「知ってるわ」

「朝倉さんを救けようとして、結局クソダサいことしか出来ないから……」

「いつものことじゃない」

「まだゲ○が匂い立ってるから……」

「構わないわ」


 何を言ってるのだ、このご令嬢は、仮にも学校一のクール系美少女として名を馳せていた朝倉さんが、俺ごときぼっちの陰キャな阿呆に向かって構わないなどと、そんな天地のひっくり返るが如き価値観の転換をしてはならない!

 俺に構ってはいけないのです、貴女は貴女の道を征かねばならない、俺のような下賤の身に心を砕いてはならないのだ、ロミオとジュリエットは創作の中だから美しいのです、俺のようなゲ○吐き野郎は全面モザイクにして画面から即刻排除しなければならないのだ!


「だってそれが、中原くんじゃない」


 俺は顔を上げた。朝倉さんは優しく微笑んでいた。


 それは、つまり……?


「えっと、普段から、臭かった?」

「あ、え、ち、違うの」

「ご、ごめん、歯磨きは寝る前と出かける前にしてたんだけど、これからは食事の後も必ずします!!」

「そうじゃなくって!」

「歯間ブラシもやります! 口臭サプリも食べます!!」

「大丈夫、臭いなんて思ったことないから!!」

「じゃ、じゃあ……?」


 一体何だというのだ、殺すならとっとと殺してくれ!


「私を救けようとして、ゲ○を吐いてしまうような中原くんだから、良いんじゃない」


 穏やかに語りかける朝倉さん。俺は初め、その言葉の意味がわからなかった。


 良い? 良いとは? 何が? どういう意味で? 俺は? 俺が? ゲ○が?


 どうやら間抜けな顔をしていたらしい、俺をずっと見つめていた朝倉さんがついに吹き出した。


「アッハハハハハハハハハハハハ!!」


 そして、いつもの盛大な笑い声を放っていたのである。

 俺は呆然とその様子を眺めていた。

 しばらくしてようやく収まりかけた朝倉さんは、目尻を拭いながらこう言った。


「ごめんなさい……、可笑しくて……」

「そう……かな……?」


 また朝倉さんが腹を抱えて悶絶する。

 わからない、まるで意味がわからない、だが、一つだけ言えるのは、朝倉さんは俺のことを嘲笑しているのではなかった。


 そう、それよりも、温かい、包み込んでくれるような、優しい、つまり、愛おしさで溢れていて……。

 これは、もしかして、ひょっとすると、万が一、たぶん、きっと、おそらく。

 悪い雰囲気では、ないのではなかろうか。


 朝倉さんは最後に一つ息を吐いて、俺に向き直った。


「ねえ、中原くん。あの時、何て言おうとしたの?」


 あの時。あの時とは、いつのことか。


「ネズミーランド」


 俺は思い出す、朝倉さんとの別れ際、逃げ出すその直前、俺が言いかけた台詞、一万回はリハーサルをしたあの文言、それでも不安だからと寝ていた愛花を叩き起こして練習台にしたあの言葉たち、それは即ち――


 俺は朝倉さんを見た。彼女は今、待っている。俺の言葉を待っている。あの時とは違う、むろん真昼の時とも違う、それはわかっている、でもやはり怖い、だがしかし、俺は……!


 ふと、先刻の警官の言葉が蘇る。


『君にはその勇気がある、告白は出来ても、痴漢を指摘出来ない人なんて、世の中には大勢いるんだからさ』


「俺……!」


 叫ぶ。


「あ、朝倉さんのことが!」


 行け。


「す、すすす、すすっ、好きです!!」


 あと、もう一歩。


「つひあってください!!」


 ――あ。

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