第32話 来たれぼっちパワー -中原和総-

 月曜日の朝、俺はいつもの時間に電車へ乗り込んだ。


 結局、昨夜も眠れなかった。

 もう何日も寝ていなかった、朝倉さんを痴漢から救けたその日から、俺の処理能力を超える異常な密度で人生が押し寄せていた、とうの昔にポンコツな頭脳は悲鳴を上げていたのだが、眠気は一向に訪れようとしなかった。


 だが、俺は殊勝にも早く登校しようなどとは考えなかった。やはり、学校に行く気が失せ、不眠を理由に自主休校を申し出たのだ。それでも、母さんに説得されて行かざるを得なかった。


 学校で朝倉さんに会えばどんな顔をしたものかと、混み合った車内でもみくちゃにされながら回らない頭で考えていると、何と目の前に見目麗しき美少女が佇んでいるではないか。


 俺は二度見した。

 朝倉さんなわけがなかった。

 いや、朝倉さんだった。


 今この瞬間最も会いたくない、なのに一瞬で脳内が桃色ウイルスに染まってしまう朝倉さんであった。

 俺は何かを振り払うように頭部を回し、今後の方針を考え始めた。まず出た案は、即時撤退であり、具体的には他の車輌へ移ることであったが、この混み合った車内では後ろを向くことすら困難を極める。次の案は情報封鎖であり、具体的には気づかないふりをしてやり過ごすことであったが、その時もたらされた新情報により議会は中断となった。


 つまり、朝倉さんが、また痴漢に遭っていたのだ。

 しかもよくよく見ると、痴漢もまた先週と同じ男ではないか。


 何故朝倉さんがこの時間に、という問いは、大して意味を成さなかった。先週はみさき先生から痴話を垂れ流され出るのが遅くなった、という愚痴を金曜日に聞いていた。今日も恐らく淫猥教師に厄介ごとを頼まれたのではなかろうか、あるいは俺と同じように眠れなかったのかもしれないが、朝倉さんに限ってそんなことはないと思われる。


 問題なのは、この後の俺が取るべき行動についてであった。

 何せ、俺には朝倉さんを救ける道理など持ち合わせていないのだ。

 俺はこの先の一生をぼっちとして生きると決めた、俺と朝倉さんは二度と人生において交錯することなく、互いに別の道を歩んでいくのだ、何なら、先週の出来事はすべて夢幻であり、天がいたずらに仕組んだ幻想であって、うつしよのものではなかったのだ。


 だから、俺には朝倉さんを痴漢から救ける理由など、どこにも存在しないのだ。


 たとえ、

 同じ学校の制服を来た、

 クラスメイトの、

 クールで知的で成績優秀な美少女の、

 あまりに誰に対しても媚びないので『媚びない系女子』と呼ばれている、

 俺の話を朗らかに笑ってくれる、

 怪我をしても献身的に介抱してくれる、

 いつまでもそばにいたいと願うたった一人の女性である、

 朝倉さんであったとしても――


 その朝倉さんと目が合う。

 だが、朝倉さんはすぐに顔を伏せてしまった。


 まるで、気にしないでと言わんばかりである。あなたのせいではない、これは私の問題だから、もう構わないでいいから、そういった気遣いを盾にした悲鳴が聞こえた気がした。


「あ、あの!」


 俺は叫んでいた。


「ちょっと、何ひてるんですか!」


 案の定、声が裏返っていた。あと、盛大に舌を噛んだ。


 俺の叫びに車内が騒然とし始める。痴漢がまた青ざめていく。朝倉さんが、あの優しい微笑みを俺に見せる。


 ああ、もう、やっぱり可愛い。


 何故に俺は叫んだのか。救ける道理などどこにもないというのに、何故俺は叫んだのか。


 そんなものは決まっている。


 俺は、

 朝倉さんが、

 大好きなのだ。


 俺は朝倉さんと仲良くなりたいのだ、ずっと一緒にいたいのだ、他人が思わず目を覆いたくなるほどイチャラブしていたいのだ!


 だがしかし! 朝倉さんは女なのである、正確に言うなら「性別・女」であり、女は総じてクソなのである、そう、真昼や『ママ』のように、弄びそそのかし最後には裏切るのである!

 俺はもう傷つきたくない、もう惨めに捨てられたくない、あんな痛みは二度と経験したくない!!


 だがしかし! ……そう、だがしかし!


 俺には朝倉さんが必要なのだ。

 俺の未来に、朝倉さんがいてほしいのだ。

 俺の隣で、いつまでもあの調子で笑っていてほしいのだ!


 正直嫌だ怖い救けて逃げたい知らない無視したいなかったことにしたい何もしたくない。


 だが、それがどうした!

 俺の行末に、朝倉さんがいないことに比べれば、そんな痛みはクソくらえだ!!

 行け和総! 所詮貴様はぼっちで陰キャでヘタレのクソで阿呆でどクズなのだ! 生きてるだけで恥ずかしい人類の最汚点なのだ!! 今更どんな恥をかこうが罪を背負おうが罰を与えられようが、世界は変わりもしないし人類は滅亡もしない!!


 チクショウ、もう嫌だ、逃げたい! でも、俺はやる! 俺はやるのだ! 救けて朝倉さん! 違う! やれ、やるのだ! 嫌だ、死ぬ!! いや、死ね、戦って死ね! 朝倉さんを救けて死ね! うわあ、チクショウううううううううううううううううううううう、今こそ来たれぼっちパワーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!


 ヒートアップした俺の脳はまさに混乱に相応しい出力をした。つまり、


「なんで俺じゃないんだよ!!」


 どうしてこうなった。


 ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、何で俺は痴漢にせがんでるんだああああああああああああああああああああああああああ、誰もしてほしくなんかないわああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!


 フッ、フフフ、フハハハハ、アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ、ええい、やはりこうなる運命なのだ、俺が何かをしようとしてもクソダサにしかならないのだ、だったらこのまま突き進むのが筋であろう、ああ、そうだ、俺はクソダサなのだ、ただのぼっちで陰キャでヘタレのクソで阿呆でどクズなのだ、天が俺に相応しい結末を与えんとするなら、俺はその期待に全身全霊を持って応えてみせよう、さあ全世界のぼっち諸君よ、俺は永遠のぼっちとしてぼっちらしくぼっちするぞ、さらに集えぼっちパワー!!


「俺だけを見てるって言ったのは嘘だったの!?」


 ハハハ、何という支離滅裂! いいぞ、もっとやれ!


「ずっと信じてたのに!」


 やばい、意味不明すぎて、手が震える。うえっぷ、あと吐き気が。


「どこにも行かないって、言ったじゃない!!」


 うわーい、もうどうにでもな~れ。


 いよいよ、周囲が色めき立つ。同時に、俺の胃液もせせり上がる。

 先に音を上げたのは痴漢の方であった。


「ハア、何わけわかんないこと言ってんだよ!?」


 フン、何を今更、こちとらとうの昔に論理性を遥か彼方に置き忘れてきたのだ、わけなどわかってたまるか、むしろ俺が知りたいわ!!


「そうやってしらを切るつもりなんだね!!」


 素晴らしい、見たかこの卑劣漢め、口から出任せなら俺は無敵だ!!


「こ、コイツ、おかしいよ、狂ってる!!」


 まさか、痴漢に狂ってると言われる日が来ようとはな、何たる光栄、何たる僥倖!


「嬉しい、さあ今こそ、愛してごばッ――」


 その時、俺の口から黄金水が放たれた。

 そのまま至近距離にいた痴漢に直撃する。臨界点を突破した胃液が、消化中の朝食と共に撒き散らされていた。

 ちなみに、朝倉さんは痴漢の影に隠れて事なきを得たらしい。奇しくも、痴漢が巨体で助かったのだった。






 その後、俺の吐しゃ物によって車内は阿鼻叫喚地獄となり、次の駅にて全員が車外へ退避し、ついでに胃液にまみれて大人しくなった痴漢を他の乗客たちとともに取り押さえ、駅員に引き渡すことに成功した。俺と朝倉さんは駆けつけた警官に事情聴取をされ、解放される頃には二時間目が終了していた。


 駅の事務室からホームに戻ろうとすると、俺は警官に呼び止められた。朝倉さんに先に行くよう伝え、警官の元へ戻ると、握手を求められた上でえらく感謝された。

 どうやら、例の痴漢は警察でも目を付けていたらしく、余罪も出てきそうなのだとか。


「君の勇気ある行動で助かったよ」


 衆人環視の最中で汚物を吐き散らした俺に向かってよくも言えたものである。新手の皮肉であろうか。


「いえ、俺は小心者なんで」

「謙遜をするなあ。そういや、あの子とはずいぶん仲良くしてたけど、付き合ってるの?」

「いやいや、そんなわけ……」


 純真な瞳で警官が見つめる。俺は耐えかねて付け加えた。


「えっと、そうなれれば、嬉しいんですけど」


 若くて人の良さそうな警官は、ふむ、と少し考えてからこう言った。


「一つ他愛ない話をしよう」


 警官は語った。高校の時に三年間同じ部活だった好きな子がいたこと、当時は勇気もなく告白できなかったこと、卒業式の日にその子から告白されたこと、しかし別の進路が決まっていたため断ったこと、最近偶然に再会しデートを重ねていたこと、一昨日ついに温泉旅行に行く予定だったのがドタキャンされてしまったことを。


 どこかで聞いたような話ではあるが、まさか世間がそんなに狭いわけもあるまい。


「それは、なかなか壮絶ですね」

「だろう? でもさ、埋め合わせにって、来週末デートに誘ってくれたんだ」


 警官がはにかむ。何だか可愛い人であった。


「いやあ、良かったですね!」


 ああ、と警官は首肯した。


「まあ、高校の時にもう少し勇気があれば、こんな回り道をしなくても良かったんだけどね。君にはその勇気がある、告白は出来ても、痴漢を指摘出来ない人なんて、世の中には大勢いるんだからさ」


 そう言えば、彼女とさっきの子、同じ名字だったな、と最後に警官は呟いた。

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