第31話 愛おしい人 -朝倉みなと-

 月曜日の朝、私は人生で初めての寝坊を経験していた。


 結局土曜日は、姉と共に熱海で泊まった。

 驚くことに、旅館では姉が一人で待っていた。パーティーをすると言っていたのに、部屋は二人部屋だったのだ。

 もしかして、大切な人と泊まる予定だったのではないかと問うと、


「アタシにとっちゃ、みなとも大切な人だよ」


 と言われ、私は久々に心から感謝したものだった。


 姉の好意に甘え、二日間かけて温泉旅行を満喫し、心身ともにリセットすることに努めた。

 帰宅する頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた。翌日の登校に備えて準備をし、弁当のおかずも作っていると、無意識のうちに二人分用意していた。


 私は途方に暮れた。

 準備を終えて床に就いても、一向に眠気はやってこなかった。明日、中原くんにどんな顔をして会えばいいかわからなかったのだ。


 私は中原くんのことが好きである、だが中原くんが私のことをどう思っているのかわからなくなっていた。デートに行く前日まで、私達は幸せだった。心が通じ合っていると思っていた。ところが、あのデートで何かが変わってしまった。

 中原くんは明らかにいつもと違っていた、それこそ王子様か何かになったつもりかのように。

 私が見たい中原くんは、そんなハリボテの自信を着飾った姿ではない。そりゃあ、いつぞやの私はそんな妄想を中原くんに重ねていたものだが、中原くんは中原くんなのである。

 中原くんは優しくて面白くてちょっとかっこよくて、でもどこか放っておけなくて、見てるだけで癒やされる、どうしようもなく愛おしい人なのである。


 だから、私は正直に告げたのだ。中原くんに戻ってほしくて。

 でも、そのせいで、中原くんは私の前から姿を消してしまった。

 どうすれば良かったのか、言わないほうが良かったのか、言わなければ中原くんと一緒にいられたかもしれない、でも、やっぱりいつもの中原くんといたい、けれども、こんな孤独になるくらいなら、私は……。


 考え始めると、何一つ思考は整理されなかった。

 そう言えば、ショーペンハウアー先生はこうも述べている。


「船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である」


 とは言え、今の私は進むべき未来を見失っていた。不安の波にさらわれ、私という船は今にも沈みそうになっていた。


 そうして夜明け近くまで眠れず、いつもなら目覚ましが鳴る前に起きるものを、聞き逃して寝過ごしていたのだ。

 慌てて飛び乗ったのは、遅刻しないギリギリの電車だった。

 二度とこの時間の電車には乗るまいと心に誓ったものだが、これまで継続していた無遅刻を断念するのは忍びなく、心苦しくも私は電車に乗り込んだのだった。


 しかし、私はこの決断を数分後には後悔していた。

 まさについ一週間前とまったく同じ状況が再現されたのだ。


 つまり、私は尻を撫でられていた。






 まさか、と思ったが、やはり疑いようもなかった。この体の奥まで掴みかからんとする感触は、先週味わったものと変わりなかった。あるいは、前回と同じ犯人ではなかろうか。

 やはり、この時間に乗るべきではなかったのである、何とか我慢して次の駅で降りるか、しかしそれでは無遅刻が途絶えてしまう、じゃあ降りるフリをして別の車両に移れば……


 そこまで考えて、私はふと気づいた。

 この時間、この車両、そしてこの状況。何もかもが一週間前と同じなのである。

 ということは――。


 私は僅かな希望を胸に後ろを見た。

 ということは、彼がいてもおかしくないのである。

 そう、そこには。


 私の目はそこにいた彼に釘付けになってしまった。


 だってそれは、

 同じ学校の制服を来た、

 クラスメイトの、

 平凡な成績と平凡な容姿と類まれな笑いのセンスを兼ね備えた、

 審美眼のない連中によって『永遠に売れないピン芸人』などと呼ばれている、

 私の日常の癒やしであり、

 同じ時間を共有していたい人であり、

 いついかなる時も考えてしまうほど愛おしい、

 中原くんだったのだから――


「(中原くん――!)」


 だがしかし、私は顔を伏せた。

 私は中原くんに救けを求める資格があるのだろうか。

 中原くんは私を置いて逃げ出していったのである、もう私のことなど歯牙にもかけていないのではないか。


 であれば、ここは私が我慢すれば済むのである、中原くんに期待するのはお門違いなのだ、大丈夫、一駅なら耐えられる、私は己を軟弱者に育てた覚えはない、何せ男はクソなのだ、でも、それでも、嫌だ辛いの救けて――


「ちょっと、何ひてるんですか!」


 私は振り向いた。

 そこでは、彼が仁王立ちしていた。

 どこまでも必死で、だからこそ愛おしく思う、あの中原くんであった。

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