第29話 宝石の日々 -中原和総-

 俺は一人で帰宅した後、自室に引きこもっていた。

 さっきまで愚妹が部屋に来て怒鳴り散らしていたが、ようやく追い払うことに成功した。

 俺はお笑い動画を見るのに忙しいのである、まったく、邪魔をするのもいい加減にしてほしいものだ。俺はこれから十六回目のリピート再生をするのだ、愚妹の妄言に付き合ってる暇はないのである。


「ハッ。ハハッ。ハハハ……」


 最高だ、最高に面白いではないか、何度見たって面白いのだ、やはりお笑いは最高だ、笑いを制する者は、世界を制すると言っても過言ではない!


『真昼さんと朝倉先輩は違うんだからね!』


 イヤホンをした耳に愛花の声が再生される。俺はいもしない愚妹に向かって苛立ちと共に言葉を投げていた。


「あんなヤツのことは、もうどうでもいい」

『まさか、『ママ』のこと、まだ引きずってるの!?』

「その呼び名を口にするな」

『私、東京駅で朝倉先輩見たよ、一人で東海道線に乗ってっちゃったよ!』


 東海道線……、そう言えば、昨日休み時間に、朝倉さんがこう語っていた。


「お姉ちゃん、明日、熱海で温泉旅行なんだって」

「へえ、ついに大事な人でも出来たのかな」

「あのお姉ちゃんがそんなわけないじゃない。カレシとカレシとカレシと夜のパーティーを開くらしいわ!」

「さすが、みさき先生」

「しかも、私も一緒に来ないかって誘ったのよ、信じられる!?」

「えっ、明日、行くの!?」

「行くわけないじゃない、だって、明日は……」


 頬を赤く染めながらそう言っていたあの朝倉さんが、東海道線に乗ったと。そうか、朝倉さんも熱海へ向かったのだな、何だ、あれだけみさき先生のことを罵っていたというのに、結局のところ朝倉さんもとんだビッチだったのではないか、期待するだけ無駄だったのである。


『お兄ちゃんがどうしたいか、望まないと何も変わらないんだからね』


 ふん、一体何を望めと言うのか、俺はもう何も望まない、期待しない、願わない、そんなものを当てにしているから、ついには身を滅ぼすのだ。

 ショーペンハウアー先生だってかような至言を残している。


「あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ」


 そう、だから俺は一人で生きていくのだ、中学だってぼっちだった、高校でもぼっちだった、これからも俺はぼっちで生きていくのだ、何も変わりはしない、俺はぼっちとして、最高の人生を歩んでみせる!


 それから、日付がまたいでも俺はお笑いの動画を延々と見続けた。最高に笑えた。しかし、何故か心が痛んだ。






 いい加減、動画を見ることに疲れた俺は、これからの展望をシミュレートしていた。

 明日は普通に学校に行こう、朝倉さんと会うかもしれないが、どうせ彼女は俺のことなんて無視するに違いない、当然だろう、もう彼女は俺のことなんてどうでもいいのだ、俺だってビッチに話しかけられなくてせいせいする。

 しかし、先週は毎日のように朝倉さんから話しかけられていた。






 金曜日の午前、体育の授業で男子はサッカー、女子はテニスに分かれていた。

 俺は前日の転落事故により足を負傷していたため、晴れて見学の大義名分を得ていた。

 グラウンドの片隅で球蹴りごときに精を出すクラスの連中を思う存分見下し、優雅な気分を味わっていると、


「ごめんなさい、中原くん」


 休憩時間だったのか、朝倉さんが声をかけてきた。朝倉さんは例のごとく髪を頭の後ろでくくり、元来の華やかさに爽やかさが加味され、やはり惚れ惚れするほどに綺麗であった。


「いやいや、朝倉さん、何も謝る必要などない、俺はむしろ幸せなのです、何故なら、球蹴りなぞ人類がするものではないのだから」

「フフ……」

「人間の足は地を蹴るために存在するのだ、あのような醜悪極まりない遊戯に交わらなくて俺はせいせいしているところなのです、俺の靭帯はまことにいい仕事をした!」

「アッハハハハハハハハハハハハ!!」

「……朝倉さんはよく笑うよね」


 朝倉さんは目尻を拭いながら答えた。


「中原くんが面白いことを言うからよ」

「そんなに面白いかな」

「ええ、もちろん」

「こんなよもやま話で良ければ、いくらでも言うよ」

「期待してるわ」


 最後に微笑んで、朝倉さんはコートへと戻っていった。

 今思えば、デートのときに、こんな会話をしていなかったかもしれない。






 昼休み、俺はやはりぼっち飯を敢行するのだ、もはや慣れたものである、教室で堂々と食らうも良し、ぼっちオーラを周囲に撒き散らすべく食堂で食うも良し、虚勢を張るのに疲れた場合は安定の便所飯で落ち着いて食えば良い。

 しかし、金曜日は、朝倉さんと二人で食べていた。






 昼休み、俺と朝倉さんは校庭のベンチに腰かけて、お弁当を広げていた。

 我が学舎には屋上など存在しない、もちろん文字通りの屋上は存在するが、都合よく物語の主人公だけが侵入出来る屋上なんてものは残念ながら存在しなかった。


 それでも別に構わないのだ、何せ、朝倉さんの手作り弁当を頂けるのだから。

 聞けば、朝倉さんは火曜日からずっと作ってきてくれていたのだという、そして、その弁当を置き忘れたがために、あの踊り場で再会することになったのだとも。


 震える手で蓋を開ける。色とりどりのおかずと、華やかなふりかけに染められた白米で箱の中は満たされていた。それぞれが何の料理であるか、乏しい俺の知識で判別するのは困難であるが、おそらく和食であろうおかずが多様に詰め込まれていた。


「お口にあうかわからないけど」


 謙遜して言う朝倉さんをよそに、俺はすぐさま口に運んだ。


「おいひい!!」


 頬張りながら俺は叫んでいた。無粋な味覚しか持ち合わせていないゆえ、何がどう美味しいかは解説しかねるが、とりあえず俺の舌は美味いと告げていた。


「そう、良かった」


 安堵するように、朝倉さんは微笑んだ。


「ホントに美味しい! 美味しいよ、朝倉さん!」

「褒めすぎよ」

「いやあ、だって、スッポンがうんぬんって言われたときはどうしようかって」

「あ、あれは! ……あれも、墓場送りにしましょう」

「あ、はい」


 真顔になった朝倉さんに、俺は首肯するしかなかった。

 食べ終わって、次の月曜日のおかずは何が良いかと尋ねられた。

 貧困なメニューしか想像できなかった俺は、おかずの定番であろう、卵焼きをリクエストした。朝倉さんは任せろと言わんばかりに大きくうなずいていた。


 だが、俺が朝倉さんの卵焼きを食する機会は、今や永遠に失われた。






 帰り道、俺は当然一人で歩むのだ、気楽な道中である、いっそスキップでもしてやろうか。

 しかし、先週の木曜日は朝倉さんに我が家まで送ってもらった、そして金曜日にも帰路を共にしていたのである。






 金曜日の放課後、俺と朝倉さんは駅に向かって共に歩いていた。

 互いの家族に対する愚痴や弁当のおかずについて議論し合った後、必然的に翌日のデートについての話題になった。


「私、実は初めてなの」


 目を逸らしながら朝倉さんが言う。


「え、デート?」

「もちろん、そうだけど……って、違う! ネズミーランド!」


 おお、つまりは朝倉さんも初デートというわけか、これは何だか嬉しい。


「でも、意外だね」

「昔は私が行きたいって親にせがんでたんだけど、お姉ちゃんが嫌がったの、『私は妄想に生きてるからいいの!』って」


 どこかの文学少女が言いそうな台詞である。


「でも、お姉ちゃんったら、大学デビューした途端に、今度は一緒に行こうって向こうから誘うようになったの。逆に私は『そんな俗物じみたところに行きたくない』って意地張っちゃって」


 とことん噛み合わないのは朝倉家の伝統芸能なのかもしれない。


「……中原くんのおかげで、長年の夢が叶うわ」


 いやあ、と俺は照れ隠しに頭をかいた。この点はみさき先生に感謝する他ない。


「明日、晴れるみたいだよ」

「ホント?」

「うん、当たるといいんだけど」

「そうね……」


 それから、しばらく無言になった。

 何か話そうかと思ったが、特に必要性を感じなかったため、ついに言葉を発しなかった。

 お互い、顔も見合わせず、ずっと交互に出てくるつま先を見つめていた。それでも、俺達は時間を共有していた。


 駅が近づいていた。朝倉さんが、じゃあ、と言って手を小さく振った。


「私は喫茶店に寄るから」

「そっか、じゃあ、また明日」

「ええ。明日」


 朝倉さんは微笑みを見せて、喫茶店へと向かった。

 俺は朝倉さんの姿が見えなくなるまで、手を降っていた。


 だが、俺達に、明日が訪れることは二度とない。






 そうだ、あのような幸福に満ちた日々は二度と訪れることはない。

 何故なら俺は、金輪際ぼっちとして生きていくことを決めたのだ。

 いかに朝倉さんと過ごした数日が、光り輝く宝石のごとき煌めいていた瞬間であったとしても、俺はすでにその所有権を手放したのである。宝石が美しく見えるのは、その希少性がゆえのことなのだ、であれば、あの数日はぼっちの神様が見せてくれた儚い幻であったのだ。


 背伸びをしてはいけない、己の分際を見誤ってはいけない、何も望んではいけない。

 何かを失うことに比べれば、現状で我慢するほうがよっぽどマシなのである。

 望んだがゆえに失敗して痛い目にあうことに比べれば、何もせずに耐えているほうがよっぽどマシなのである。


 そう、クソの女に騙され、裏切られ、捨てられることに比べれば、どれだけ孤独でぼっちで惨めであろうとも、マシに決まっているのだ!

 そうでもなければ、俺が味わったあの苦しみに、説明がつかないではないか!!

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