第18話 私だけの中原くん -朝倉みなと-

 半日ぶりに二人の視線が重なる。

 私は驚きの余り、身じろぎも出来ずにいた。

 中原くんは今までに見たこともないような嬉しそうな笑顔を見せた。

 その顔を見た途端、私の心臓がキュッと音を立てた。

 慌てて顔を伏せる。


 ええ、何で、ここに、中原くんが、ヤダ、どうしよう、私、何の準備も出来てない!


 完全に頭が真っ白になった私に向かって、中原くんが言い放つ。


「あ、あの、朝倉さん。き、昨日は、その、ごめんなさい!」


 中原くんが頭を下げる。


「ああああああれは、その、事故であって、俺の意図したことではなくって、つまり……」


 違うの、私だって期待してたの、でも、あの時はまだ王子様だって思ってたから、それでびっくりしちゃって、今は全然そんなことなくって、だから、そう、つまり!


「ごめんなさい!!」

「仲良くなりたくって!」


「え?」

「え?」


 仲良く……? 中原くんが、私と?

 え、そんな、突然言われても、ああ、でも、前にも言われたっけ、ううん、あの時は王子様だと思ってたから、あれ、でも、中原くんはずっと私のこと……?


 私が一つの可能性に気付くと同時、


「朝倉さん!」


 中原くんが私に向かって一歩を踏み出した。


 だ、ダメ、今来られたら、私、どうにかなっちゃう!?


「あの、連絡先を――」

「えっ、あっ、きゃっ」


 思わず後ずさった私の右足は、地面を踏んでいなかった。

 そう、階段を踏み外して、私の身体は階下へと今まさに滑落し始めていたのだ。


 うん、これ、ダメなやつ。


 私が絶望と諦めに身を支配されたその時だ、


「あぶないっ!」


 左手を誰かに引っ張られた。

 次いで、右肩を掴まれて抱き寄せられる。

 その人物は、もちろん、


「(――中原くん!?)」


 そう、中原くんである。王子様でも何でもなく、ただの中原くんである。そして、今この瞬間において、やはり中原くんは、私だけの中原くんであった。


 見つめ合っていたのも束の間、中原くんがバランスを崩した。そのまま、私を踊り場に押しやり、自分は一階へと落下していった。

 慌てて階段を駆け下りる。見ると、中原くんは真っ逆さまになって倒れていた。仮に頭を打ち付けていたら、大事であった。


 私を救けるために、そこまでしなくてもいいのに。中原くんに驚いて足を踏み外したのは私自身なのだ、それなのに身を挺して庇ってくれるなんて。……ううん、思えば、中原くんは最初からそうだったのだ、あのときだって、そう、私が痴漢に遭っていたあのときだって、まともに会話もしたことがなかった私を、ただのクラスメイトだった私を救けてくれたのである。しかも、痴漢に遭ったのは自分だなんて嘘まで言い張って。


 私が王子様だと勘違いするのも、仕方がないではないか。

 だって、中原くんは。

 単なる面白い人じゃなくて。

 かっこよかったんだもの。


「……中原くん」


 私は彼に寄り添った。


「朝倉さん?」


 中原くんが目を覚ます。私は安堵と同時に気恥ずかしさを覚えて目を逸らした。

 まだ、中原くんと一緒にいるのは、とても恥ずかしい。

 でも、それ以上に、私はこの人と、一緒にいたかった。

 私は中原くんに向き直った。


「……大丈夫?」

「だ、大丈夫大丈夫、ちゃんと生きて――いたっ!」


 中原くんが左の足首を押さえる。もしかしたら、落ちた拍子に痛めたのかもしれない。


「あの、朝倉さん、俺は大丈夫だから、気にしないで!」


 作り笑いをしながら、無理に立とうとする。でも、やはり痛めた左脚が気になるのか、歩き方がぎこちない。


 もう、ちょっとは私のせいにしてくれたっていいじゃないの。

 じゃないと、私が悩んで落ち込んで憤って、一人でくるくる踊ってバカ丸出しじゃない。

 だって、私は、

 アナタのことが――


「あの!」


 私は声をかけていた。まだ、ちゃんと目を合わせられない。でも、手は差し出せるはずである。


「……行きましょう」

「え?」

「保健室、行きましょう」






 さて、負傷した中原くんを保健室に誘導するのは良いとして。

 問題は、保健室の主である。

 あのビッチの姉のことだ、私が中原くんを連れて現れようものなら、


『そっかそっか、ふーん、みなともやることやってたのか』


 なんてことをほざきかねないのだ。

 姉が恋愛沙汰で妄想と勘違いを繰り広げるのは今に始まったことではない、それによってあのクソビッチが色情の海に溺れようとも一向に構わないが、その変態的妄想を中原くんに対して吹き込むことだけは何としても阻止せねばならない。


 なにせ、私達はまだ何も始まっていないのである、というか始まるも何も私達はそう言う仲ではなくて、いやでも、仮に中原くんがそれを望んでいるというのであれば、もちろん私としてはやぶさかでないが、ええいとにかく、私達には私達のペースというものがあるのだ、それをかき回されてはたまったものではない!

 そうだ、姉は一族の面汚しなのだ、あのヤリマンクソビッチと遺伝子を四分の一も共有しているなど恥ずべき事実なのである、あれが血を分けた姉妹なのだと、中原くんに知れ渡るのは末代までの恥なのだ、お嫁に行けたものではない!


「中原くん」

「ひゃいっ!?」

「着いたわ」


 ついに保健室の前まで着いてしまった。早々に離脱をせねばならない。


 ごめんなさい、中原くん、アナタとは一緒にいたいけれども、姉の前で一緒にいるわけにはいかないの!


「それじゃあ、私はこれで」


 私は忍のごとくすり抜けて脱出を図った。だが、


「あ、朝倉さん!」


 中原くんが呼び止めたのである。今の私に、中原くんの言葉に逆らう術はなかった。


「……何?」

「あ、いや、その……」


 口ごもる中原くん。


 お願い、言いたいことがあるなら早く言って、でないと、あのクサレビッチが!!


「あ、あの……、ええと、一緒に!」


 えっ、一緒に?


「一緒に! 入りませんか!?」

「はい?」


 そんな、一緒に保健室に入ろうだなんて……、ハッ、まさか!

 まさか、中原くん、すでにみさきお姉ちゃんが私の実の姉だって、知っているのでは!?


「いや、その、ただ送ってもらっただけっていうのも、申し訳ないっていうか」

「い、いいの、私は」あの姉と同じ場所でアナタと一緒にいたくないんですうううううう!!

「いやいやいや、ここまでしてもらっておいて、何もしないというのは中原家の家訓に背くので!」

「ホントに、私は!」アナタと一緒にいたいんだけど、姉の前で一緒にいたくないんですうううううう!!

「いいや、朝倉さん! 俺は自分に誠実でありたいのです!!」

「違っ、そうじゃなくて――」


 業を煮やした私が声を張り上げた時、


「ああ、もう、廊下で騒ぐんじゃない!」


 ついにビッチオブビッチがその姿を現した。

 恐れていた事態が、起こってしまったのだった。


「あれ、みなと、まだ帰ってなかったの?」


 いや、電車に乗って最寄り駅までは帰っていたのである。そう、弁当さえ忘れなければ、こんな最悪の事態には発展しなかったはずなのだ。朝倉みなと、一生の不覚であった。

 すると、姉はまじまじと中原くんを見つめて、こう言い放った。


「ははーん、アンタ、中原くんでしょ?」


 ああもう、どうしてそう鋭いかなあ、それだけわかってるなら、アンタの妹が現在進行系で絶望に打ちひしがれてることも察してくれないかなあ。


「そっかそっか、ふーん、みなともやることやってたのか」


 あーうん、まったくもって予定通りだわ、一字一句そのままそっくり想定通りだわ、そして中原くん、さっきからずっと口開けたままだよ、でもね、それも想定通りだから、うん、何か泣けてきた。


 ええい、何故こうも恥の上塗りのような仕打ちを受けねばならぬのか、私はただ平穏にゆっくりじっくり中原くんとの仲を縮めていきたいだけなのだ、それを、この――


「いい加減にして! お姉ちゃん!!」


 私の叫びに、中原くんとみさきお姉ちゃん、双方ともが不思議そうな顔を返したのだった。

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