第15話 現実の住人 -中原和総-

 半日ぶりに、二人の視線が重なる。

 俺は、顔をほころばせていたかもしれない。

 朝倉さんの目は大きく見開き、その頬は夕日に照らされてか、紅く染まっていた。


 だが、俺が言葉を発しようとした途端、朝倉さんは顔を伏せてしまった。

 やはり、朝倉さんは昨日の一件を根に持っているのだろうか、もう俺とは口も利きたくないと、そう思っているのだろうか。

 だとすれば、俺に出来ることはもう何も残されていないのではないか、いいや、せめて、昨日のことだけでも、たとえ不意の事故であったとしても、その謝罪はして然るべきであった。


「あ、あの、朝倉さん。き、昨日は、その、ごめんなさい!」


 俺は頭を下げた。


「ああああああれは、その、事故であって、俺の意図したことではなくって、つまり……」


 いや、違う、確かに俺が意図したのは壁ドンであったが、朝倉さんとキスをするのが嫌かと言えば、そんなことあるはずもなく、むしろ今となってはそういう関係になることを切望してやまないわけで、だがしかし、俺は真摯な紳士として非接触三原則を全うせねばならず、ああもう、だからそう、とにかく!


「仲良くなりたくって!」

「ごめんなさい!!」


「え?」

「え?」


 そうかそうか、仲良くなることすら、俺は許されないというのか、うん、心のどこかで可能性として想定していたものの、目の前で本人に直接言われるとまでは想定していなかった。

 ええい、こうなれば、討ち死に覚悟である、せめて連絡先だけでも聞き出すのだ、これで断られたら潔く腹を切ってやれ、ああそうだ、惨めな俺が輝くには死して名を残すしかない、愛花、我が愚妹よ、お兄ちゃんは名誉の戦死を遂げる所存である、骨だけは拾ってくれい!


「朝倉さん!」


 俺は眼前の美少女に向かって一歩を踏み出した。


「あの、連絡先を――」

「えっ、あっ、きゃっ」


 朝倉さんは俺の歩調に合わせて後ずさった。

 そして、階段から足を踏み外し、悲鳴を上げていた。


「あぶないっ!」


 身体が咄嗟に動いていた。

 バランスを崩した朝倉さんが宙に浮く。

 白く細い腕が空を舞う。

 その繊細な左手を、俺は右手で掴んだ。

 さらに左手を伸ばして、朝倉さんの右肩を抱き寄せる。

 抱いたその身体は思った以上に華奢だった。

 俺たちは再び、互いの呼気が感じられる距離で見つめ合っていた。


 だが、次の瞬間、無理な体勢に耐えかねた腰が悲鳴を上げる。

 着地をすべく伸ばした左脚が、そこにあるべき床を踏み抜いた。

 そう、俺は朝倉さんを救けるために、踊り場から半分ダイブしていたのだ。


 あ、これ、ダメなやつ。


 俺は朝倉さんを踊り場に向けて差し出した。

 反動で俺の身体が階下に落ちていく。

 空を切った左脚が、三つ下の段に足首から着地する。

 足首が歪な方向に曲がった。


「あいた!」


 着地の衝撃を吸収しきれず、足首から崩れて俺の身体は真っ逆さまに階段を滑り落ちていった。

 ようやく止まったと思ったら、そこが一階の地面であった。

 頭は少々打ったが、意識ははっきりとしていた。うん、心配ご無用、もとからマトモではないのだ。


 それよりも、朝倉さんが無事でよかった。俺が呼びかけたせいで朝倉さんに危害が及ぶなど、あってはならぬのだ、たとえ嫌われていようとも、今後の人生で交わることがなかろうとも、朝倉さんに害を成す人間にはなりたくなかった。


 うん、そうだ、これでいいのだ、俺はよくやった、愛花よ、お兄ちゃんは頑張った。


 目を閉じて、うんうんと肯く。俺のミッションはかくしてコンプリートとなったのだった。


「……中原くん」


 誰かが呼んでいる。うっすらと目を開けると、天女のような神々しい黒髪の乙女がこちらを見つめていた。


「朝倉さん?」


 そう、朝倉さんである。もはや見限られたとばかりに思っていた、憧れの君である朝倉さんであった。

 その朝倉さんが、一度顔を伏せたあと、向き直ってこう言った。


「……大丈夫?」

「だ、大丈夫大丈夫、ちゃんと生きて――いたっ!」


 頭は何ともなかったが、左脚を激痛が襲った。足首が猛烈に痛い。どうやら捻ったようであった。


 何とも情けない、朝倉さんを救おうとするたびに、みっともない姿を見られてばかりいる。

 仮に童話に出てくる白馬の王子様であれば、颯爽と現れて姫を救い出し、数々の称賛を欲しいがままにすることだろう。

 だがしかし、これはあくまで現実だった。俺は悲しいかな現実の住人であり、現実は分相応に不格好なのであった。


「あの、朝倉さん、俺は大丈夫だから、気にしないで!」


 俺は作り笑いをしながら、立ち上がろうとした。

 これ以上、朝倉さんに迷惑をかけるのは、良心の呵責以上に己の不甲斐なさに耐えられなかった。

 朝倉さんに背を向けて歩き出す。だが、どうにも左脚が言うことを聞かない。想像以上に重症であった。


 あの! という声が、背後から上がる。


「……行きましょう」

「え?」

「保健室、行きましょう」






 俺は二人で歩いていた。

 朝倉さんに肩を貸してもらい、保健室への廊下を歩んでいた。

 左腕の下にある朝倉さんの身体はやはり華奢である。

 というか、咄嗟のこととは言え、先程抱き合った時の感触がまだ残っており、このまま抱きしめたくなる衝動が沸き起こる。


 ええい、この破廉恥め、朝倉さんは親切心から俺を介添えしてくれているのだぞ、それを無為にして下心で動くなど言語道断、俺は紳士たればこそ人間社会にかろうじて食らいついていられるのだ、このまま畜生道にまで転落したくなければ、今こそ非接触三原則を履行せねばならない!

 だがしかし、非接触を謳おうにも、すでに接触は果たしているのである。いや、接触どころか密着に等しく、互いの心音がいつ相手に伝わってもおかしくないのだ。このような状況下においては、有事特例法が適応されるのではないか、そうだ、毒を食らわば皿までだ、男は狼なのだ、脱草食系を標榜し、新たな中原和総を打ち立てるのだ!


 俺が朝倉さんに支えられた左腕に力を込めんとしたその時、


「中原くん」

「ひゃいっ!?」


 思わず背筋が伸びる。


「着いたわ」


 朝倉さんがこちらを覗き込みながら言う。

 俺は低速通信下における動画のように、カクカクとした動作で振り向いた。

 見ると、保健室の前に辿り着いていた。

 俺は落胆と安堵のため息を吐いた。


「それじゃあ、私はこれで」


 朝倉さんがそばをすり抜ける。


「あ、朝倉さん!」


 思わず呼び止めていた。朝倉さんがわずかに振り向いて応える。


「……何?」

「あ、いや、その……」


 しまった、何も考えていなかった。


「あ、あの……、ええと、一緒に!」


 うん、一緒に?


「一緒に! 入りませんか!?」


 はい?


「はい?」


 うん、その反応は至極正しい。


「いや、その、ただ送ってもらっただけっていうのも、申し訳ないっていうか」

「い、いいの、私は」

「いやいやいや、ここまでしてもらっておいて、何もしないというのは中原家の家訓に背くので!」


 そんなものは存在しない!!


「ホントに、私は!」

「いいや、朝倉さん! 俺は自分に誠実でありたいのです!!」


 だったら、その口から出任せを即刻中断して、舌を噛み切れ!!


「違っ、そうじゃなくて――」


 盛大に慌てる朝倉さんに違和感を覚えたその時、


「ああ、もう、廊下で騒ぐんじゃない!」


 保健室の引き戸が勢いよく開き、中から現れた女性の養護教諭が声を荒らげた。

 何故か朝倉さんが白目を剥いていた。


「あ、あの、これは、その」


 口ごもった俺に目もくれず、保健室の先生は朝倉さんを見て叫んだ。


「あれ、みなと、まだ帰ってなかったの?」


 うん? みなと? 何故名前を?


 先生は次いで、俺を見て、再び朝倉さんを見て、最後にまた俺を見てニヤっと笑った。


「ははーん、アンタ、中原くんでしょ?」


 何故それを!?


「そっかそっか、ふーん、みなともやることやってたのか」


 ちょっと待った、何かを勘違いされてる上に、状況がまったく理解出来ない。


「いい加減にして!」


 ついに朝倉さんが叫んだ。


「お姉ちゃん!!」


 お、おね……姉?


 俺は見た。保健室の先生が身にまとっている白衣、その胸元の名札に記された文字を。

 そう、そこには、『朝倉』の二文字が書かれていたのだった。

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