第10話 お兄ちゃんには早すぎた -中原和総-

 こ、これは、この距離感は、あの、キス――

 途端、俺の脳内に忌まわしき記憶が蘇る。






 あれは昨年の文化祭、その一週間前のことである。

 俺はいつものように、真昼と二人で下校しようとしていた。

 玄関口から夕日が差し込む。下駄箱の周囲には、二人の他に誰もいなかった。


「ねえ、ピン君」


 真昼が振り向きながら言う。


「どうして、ピン君は私といっしょに帰ってくれるの?」


 いやいや、一緒に帰ろう、と誘ったのは真昼の方ではないか。


「そっか、そうだっけ?」


 真昼が人差し指を口に当てて、考えるフリをする。


「でも、ありがとう! ピン君、いつも、付き合ってくれて」


 言いながら、真昼が俺に抱きついてくる。いやだから、そうやって馴れ馴れしくくっつくなよ、勘違いされるし、勘違いするし、ていうか勘違いだったんだけどな!!


「私、ピン君だったら……」


 真昼が目を閉じて背伸びする。身長が低くていつもは見下ろしている真昼の顔が、眼前に迫ってくる。


 こ、これは……! これはあの、非現実の結晶である接吻せっぷんではないか? 愛し合う二人が情動のあまり口と口を重ねてしまうという、互いの好意を確認しあう聖なる行為、つまりキスだ!!

 そうだ! ついに真昼は、信頼する愛すべき男性として、俺を認めたのだ!


 そう舞い上がっていた俺はまさに阿呆の極みであった。

 俺は真昼に合わせて目を閉じた。そして、顔を近づけて、さあいざ接触となった時――


「あいた!」


 俺はデコピンをされていた。痛みで目を開けてみると、真昼が口を手で覆いながら笑っていた。


「ピン君、キモーっ! なーに、勘違いしてるのっ!」


 真昼はそう言い残し、一人で校門へと走り去っていった。


 ……って、はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、まひるううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!


 そうだ、全ては勘違いなのだ、真昼は天使などではない、悪魔の化身、いや、悪の権化そのものなのだ!! 俺はもう騙されない、勘違いしない、過ちは犯さない! 清廉潔白たるどこに出しても恥ずかしくない日本男児として、俺はまっとうに生きていくのだ――






 ハッ、と我に返る。

 眼前には朝倉さんのうるんだ瞳、そして艷やかな桃色の唇……。


「ご、ごめん!」


 俺は咄嗟に朝倉さんから離れた。

 遠くから昼休みの喧騒が聞こえる。

 俺と朝倉さんの間に、静寂が訪れた。


 徐々に高鳴る鼓動に、俺の鼓膜は支配されていく。

 内外からの圧迫に耐えかねた俺は、言葉を叫んでいた。


「あ、あの、朝倉さん、ごめん、躓いてしまって、それで……」


 何とか取り繕った台詞も長くは続かなかった。

 回転木馬のように陳腐な音と単調な挙動を繰り返して空転しだした思考が、先刻のシーンを映し出す。

 つまり、俺は、今しがた、朝倉さんにキスをしようとしていたのだ。


 はっはっは、何て非現実な、何の冗談を、ありえないありえないありえない、いやいやいやいやいや何やってんだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!


 危ない、否、危ないどころではない、あと残り僅か数センチで接触しているところであったのだ、これは勘違いうんぬんの話ではない!


 有罪! ギルティ! 即刻死刑である!


 そりゃあ、俺とて男である、『壁ドン』を試みた先に朝倉さんとの睦まじきバラ色の学生生活を想起していたことは弁明しないが、さりとていきなりキスなど、世にはびこる野蛮人よろしく出会い頭に淑女の唇を奪おうなどという下劣な姦計を巡らせていたわけではないのだ!

 そうだ、俺は全世界に誇るべき紳士たらねばならないのだ、真なる平和主義の旗手として、非接触三原則を掲げて真摯に向き合わねばならない!


 ノーモアー勘違い! ノーモアータッチ! ノーモアー真昼!!


 ああそうだ、物事には順序というものがあり、だからこそ俺は正当な手順に従って『壁ドン』を遂行するべく、ここまで一寸の狂いもなく緻密に土台を組み上げてきたのである。不意の事故とは言え、腐れ外道に足を踏み入れるなど言語道断。道は正しく進まねばならない、俺の目指すべきところはあくまで『壁ドン』であり、ひいては朝倉さんとのバラ色の幸福に満ちた人生なのだ! さあ、残すは第三の条件である、『愛の言葉』だ。今こそ、俺のありったけの想いを、彼女にぶつけ――


「きっ、きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?!?!??!??」


 朝倉さんが悲鳴を上げていた。


 うん? え、きゃあ?


 見ると、朝倉さんは耳まで顔を真っ赤に染めていた。

 そして、口を両手で覆うや、俺の脇をすり抜け、階段を脱兎のごとく駆け下りていった。

 残されたのは、床に尻餅をついたただのぼっち、つまり俺である。


 ……って、何でえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!?!??????


 俺はまだ何もしてない、そう、壁ドン三大条件の二つを満たしただけであり、完遂していないのだ、ということはアレか、キスか、ニアミスか、残りわずか数センチだからか!? だがしかし、あれもすんでのところで回避したはずではないか!?

 というか、今まで散々誘惑してきたのは朝倉さんのほうではなかったのか!? いきなり、結婚と同棲と両親に挨拶と、それから子作りを迫ってきたのは他ならぬ朝倉さんではなかったのか!?


 いや待て、落ち着け、まだ朝倉さんに嫌われたと確定したわけではない、そうだ、俺だって突然のことにテンパるのはよくあることではないか、そう例えば痴漢に対して有りもしない冤罪をなすりつけたり! だから、朝倉さんも、不慮の事態に遭遇して驚いただけなのだ、後でまた会えば、いつものようにあの笑顔で中原くんと――


『ピン君、キモーっ! なーに、勘違いしてるのっ!』


 ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ごめんなさああああああああああああああああああいいいいいいいいいいいい!!!!!


 もはや判決は下されたのだ。


 有罪。ギルティ。即刻死刑。


 俺は絞首台に連行され、変態の烙印を押された挙げ句、怒号をあげる衆目に身を差し出し、己の肉体と永遠の別れを告げるのだ。

 思えば短い人生であった、良いと思うべき過去は何一つなかった、最後に一つだけ、願わくは朝倉さんと仲良くしたかった。いや、朝倉さんを裏切ったのは俺である、非接触三原則を犯し、紳士とは名ばかりの下衆に成り果てたのだ。この報いは受けなければならない。

 俺はやはり、日陰者として生きていく他に道はなかったのだ……。






 どれくらい時が経ったかわからない。気がつけば、明かりが灯っていた。


「……今度は、何があったの、お兄ちゃん」


 愛花の顔が光の中に浮かぶ。

 あのまますぐに帰宅した俺は、例のごとく布団という名の防空壕の中で縮こまっていたのだ。


「俺は、罪を犯したのだ」

「はあ、何の?」

「わからない」


 妹がまた訝しがる。しかし、俺とて未だによくわからないのだ。ただ、一つだけ、確かなことがある。


「妹よ、『壁ドン』は、お兄ちゃんには早すぎた」

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