第9話 史上最高の壁ドン -中原和総-

 翌日、いつものように始業時間ギリギリに登校した俺は、授業を聞き流しながら最重要案件に関して脳内討議を開催していた。

 議案は『壁ドン』についてである。

 壁ドンの定義は愛花の言った通りだ。


『女の子を壁に押し当てて逃げられない状況を作った上で、愛の言葉を囁くの』


 これを整理するに、『壁ドン』を成立させるには次の三つの条件をクリアせねばならない。


 一、対象の女の子と二人きりになる。

 二、対象の女の子を逃げられない状況にする。

 三、『愛の言葉』なるものを口で伝える。


 ここまで考えて、俺は困り果ててしまった。条件一からして、まるで成功するビジョンが想像出来ないのだ。

 朝倉さんと二人きりになるということは、俺から何らかのアプローチをしてどこか人気のないところに呼び出すということである。

 それはつまり、俺から朝倉さんに話しかけているということに他ならない。


「それが出来たら苦労しないわ!!」


 数学の授業中に叫んだ俺が、お呼び出しの上で通常の三倍の宿題を課せられたのは、世界三大悲劇の華麗なる序幕であった。


 条件一ですら難解であるというのに、条件二など、まるでどうすればいいのかわからない。

 非接触かつ逃げられない状況って何だ? 

 いわゆる『壁ドン』における描写においては、男側が壁に片手をついている光景が往々にして描かれている。


「だからそれが恥ずかしいんだって!」


 英語の授業中に叫んだ俺が、お呼び出しの上で英語の五分間スピーチを課せられたのは、世界三大悲劇最大のハイライトであった。


 だがしかし、たとえ条件一、二をクリアしたとして、残された条件三の難易度は遥かに前者を凌駕する。


 ――『愛の言葉』。それは華麗にして甘美、聞いた者を心地よいまどろみの中へと誘いとろけさせてしまう魔法の言葉である。

 具体的に言うなら、そう。


 好きだ!

 愛してる!

 ずっと一緒にいよう!

 アイ・ラブ・ユー!

 ティ・アーモ!

 ジュ・テーム!

 イッヒ・リーベ・ディヒ!

 ウォーアイニー!

 ヤー・ティビャー・リュブリュー!


「こんなもの書けるか!!」


 現代文の授業中に叫んだ俺が、お呼び出しの上で評論文『世界の愛の言葉』に関する感想文一万字を課せられたのは、世界三大悲劇の大いなるフィナーレであった。


 とにもかくにも、我が愚妹・愛花が提示した『壁ドン』はあまりに実現可能性が低すぎるのである。やはり愛花のアドバイスは時期尚早だったのだ、だいたい、ウルトラぼっちの俺が他人にアプローチなど出来るわけがないではないか、何が『引いてもダメなら押してみろ』だ、俺は朝倉さんから過分にアプローチを受けているのだ、それをちゃんと受け取れば済む話なのである、こちらからアピールする必要など、どこにもないではないか!


「それが出来ないんだよなあ……」


 俺はトイレの便座に腰かけながら乳白色に塗られた天井を見つめて独白した。

 ここは校舎棟の一階にあるトイレの個室である。

 我が学舎は四階建てであり、上階から順に三年、二年、一年の教室がある。一階は保健室や職員室などがあるため、多くの生徒はわざわざ一階に降りてまでここのトイレを使おうとはしない。そのため、ぼっちの俺が唯一心を落ち着ける場所として、普段から重宝していたのだ。


 さて、と俺は便座から立ち上がった。

 もうすぐ、昼休みが終わるのである。教室にいるとまた朝倉さんに弁当を一緒に食べようと誘われそうで、怖くなってここに避難していたのだ。朝倉さんとは仲良くなりたいと言っておきながら、およそ本末転倒な行いであることは重々承知ではあるが、怖いのだから仕方ない。

 五時間目は絶対に受けたくない授業ナンバーワンの体育である。出席することすらおぞましいが、出るからには予め着替えておかねばならない。俺は重い足取りを引きずって、教室への階段を登っていった。


 ――その時だ。


 一階と二階の間にある踊り場に差しかかったところ、上階から降りてきた見目麗しい黒髪の美少女と遭遇したのである。


「中原くん!」

「あ、朝倉さん!?」


 そう、朝倉さんである。

 朝倉さんは学校指定のジャージに身を包み、普段は下ろしている長髪を頭の後ろでポニーテールに括っていた。野暮ったい青色のジャージも、朝倉さんにかかればまるで舞踏会の衣装のようにきらびやかに見えてしまう。手にした淡い青色のタオルが、華やかさを際立てていた。


 ああ、やっぱり朝倉さんは可愛いなあ、などというピンク色の霞に脳内を汚染されていると、途端俺に天啓が舞い降りてきた。

 つまり、俺と朝倉さんは、今この瞬間に置いて、二人きりなのであった。

 まさしくこれは、『壁ドン』成立の条件其の一に他ならない。あの、永遠に不可能とさえ思われた条件をクリアしてしまったのである。


 まさに天運としか言いようがなかった。このような機会など、今後起こりうるとは思えない、千載一遇の好機である!

 いかな朴念仁の俺とて、ここは躊躇するべきではなかった。今こそ汚名返上、名誉挽回の時。大丈夫、俺には全世界のぼっち諸君が後ろにいるのだ、さあ、我に来たれぼっちパワー!


「中原くん、ごめんなさい。私、また昨日変なこと言っちゃって……。ホントは今日も中原くんとお話したかったんだけど、どこかに行っちゃったから、それで……」

「朝倉さん」


 俺は対象の女の子に向かってずんずんと進んでいった。こうなれば、条件其の二をクリアするのだ。そのためには、どうにかして朝倉さんを逃げられない状況にせねばならない。

 そうだ、もはや手段を選んでいる場合ではない、何としても、朝倉さんを壁際に追いやり、その横で片手を壁に押し付けるのだ!


 朝倉さんがこちらに気づく。だが、もう遅い。俺はもうすぐそこまで迫っているのだ。今こそ俺は、『壁ドン』をするのだ!


 だが、次の瞬間、


「あいた!」


 俺の両脚は絡まりながら宙を舞っていた。何のことはない、緊張のあまり脚がもつれて躓いたのだ。


 このままでは、正面衝突を起こしてしまう。

 顔を驚愕の色に染めた朝倉さんが目を見開く。俺は「危ない!」と叫びながら両手を前に出した。激突の寸前、俺と朝倉さんは同時に目を閉じた。

 両手に壁のひんやりとした感触がある。他はどこも触れていない。どうやら、すんでのところで衝突を回避したようである。俺は安堵した。そのままゆっくり目を開けると、


「――!?」


 朝倉さんの大きな瞳が、眼前にあったのである。

 互いの眼と眼、そして口と口がすぐそばにあった。


 こ、これは、この距離感は、あの、キス――

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