第8話 引いてダメなら押してみろ -中原和総-
俺は失意のどん底にあった。
人生でこれほど落ち込んだ瞬間がかつてあったであろうか。
信じた人に裏切られることほど、辛いものはないのである。
俺は今日、朝倉さんを信じてみようと思ったのだ。
朝倉さんは美人で気立てもよく、成績優秀にして何故か俺と笑いのセンスを共有する奇特な御仁である。
ただ、如何せん、朝倉さんは不幸にも女性なのだ。端的に言うなら「性別・女」であり、女は例外のかけらもなくクソなのである。
それでも、信じてみようと思ったのだ。
妹の言うことにも一理はあったし、俺が心のどこかで朝倉さんとのつながりを求めていたのも、白状してしまえばその通りなのである。
だから、お話したいとも言ったし、それで朝倉さんと心が通じ合ったとも思ったのである。
だがしかし、朝倉さんはこうのたまった。
「私、子供は三人がいいなって思うの。男の子が一人と、女の子が二人」
早い、あまりに早すぎる。何せ、俺達はまだ一介の高校生に過ぎないのである。義務教育こそ修了したものの、未だ大学にも進学しておらず、ましてや高校の卒業証書すらもらえていないのだ、このままでは仮に退学して労働に励もうとも、まともな就職口にありつけるはずもなかろう。だいたい、俺達はまだ結婚も、両親への挨拶も、同棲すらも経験していないのである、これを早計と言わずして何と言うか!
そして、俺の気がかりは、これだけではなかった。
朝倉さんの言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは例の悪魔が言った台詞である。
「えっ、子供が欲しいって? あは、ピン君、それセクハラだよっ!」
何故だあああああああああああああああああああああああああああ、何がセクハラだよ、単に子供が可愛いって言っただけだろ、ていうか、子供が好きかどうかって聞いてきたのお前じゃねえか、だったら何て答えたら正解だったんだよ、お前だって子供みたいにちっこいくせにさ! ああだからそうやってはにかみながら見上げてくるなよ、やっぱり可愛いんだよ、真昼このてめえちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!
これ以来、俺にとって「子供」はNGワードにリストアップされていたのである。
朝倉さんは見事にそれを踏み抜いた。
やはり、あの朝倉さんとてクソの一部でしかなかったのだ。
何のことはない、信じた俺がクソ以下の阿呆だったのだ。
やはり、信じられるのは己だけである。俺は一生、このまま閉じこもって生きていくのだ……。
その時、俺の部屋のドアがノックされた。
「お兄ちゃん、いるんでしょ、入るよー」
我が愚妹、愛花である。
「うわっ、暗っ! 電気も点けずにどうしたの……?」
「やめろ、点けるな! 空襲されるぞ!!」
「また、何わけのわかんないこと言ってんの」
明かりが点く。白日の下に貧相な我が身が晒されるに当たって、俺はぎゃあ、とうめきを上げた。
「……お兄ちゃん、何やってんの?」
「見てわかるだろ!!」
「わかんないから訊いてんでしょ!」
「座敷わらしだ!!」
ハァ? と、心底バカにしたように愚妹が言い放つ。
その視線の先、つまり俺はベッドの上で体育座りをしながら、布団を身体に巻くようにして被り、その中でガタガタと身体を震わせて縮こまっていたのだ。
「何、風邪でも引いて頭おかしくなっちゃったの? まあ、元々おかしかったけど」
「違う! 俺がおかしいのではない! 世界が間違っているのだ!」
「ああ、それ。よくテロリストの人が言う台詞らしいよ」
そう言いながらも、愛花が迫ってくる。
「く、来るな! 寄るな! 寄るとお前にも呪いがうつるぞ! お前もぼっちになるぞ!!」
「はいはい、言い訳はあとで聞くから、こっち来ましょうねー」
愛花は俺の絶対防衛ラインを構築していた布団をいとも簡単に剥ぎ取り、ついで俺の手を引いてベッドから下ろし、自分はベッドに腰かけて俺を見下しにかかった。何故、俺が床に手をついて正座させられているのかは意味不明である。
「で、何があったの? 午後、自主休校したらしいじゃない」
怜悧な尋問官のように愛花は質問を始めた。もはや、こうなってはライオンの前に跪いた子鹿も同然である。俺は今日の顛末を話すことにした。
「……つまり、朝倉さんはクソなのだ!」
紆余曲折はあったものの、結論としてはこれである。他の事実に対していくら解釈の余地があろうとも、これだけは揺るぎようのない真実であった。
「で、お兄ちゃんがクソ以下の阿呆なのね」
まあ、それは百歩譲ってもよい。
「ハア、あの『絶対に媚びない系女子』で有名な朝倉先輩が、そんなことするわけないと思うけどなあ。お兄ちゃんじゃあるまいし」
「いやいや、何を言うか! 俺は自分の行動を脚色することはやぶさかでないが、他人の行動を捏造したことはないぞ!」
「自分の行動も自重しなさいよ……」
「面白くないだろ!」
「誰も面白さなんて求めてないから!!」
だから永遠に売れないのよ、などと聞き捨てならないことを言いながら愛花が額を手で抑える。
「で、お兄ちゃんはどうしたいの?」
「全世界に『女はクソ』運動を広めるべくユーチューバーになる」
あっそう、と愛花が人生で一番どうでもいいといった顔を向けてくる。
「で、本音は?」
「……朝倉さんと仲良くなりたい」
つまるところ、どうやらそうらしい。クソの女と付き合うなど悪寒の走る思いであるが、朝倉さんだけは信じてみてもいいかもしれなかった。笑うと可愛いし。
すると、愛花は大げさにため息を吐いた。
「まったく、始めからそう言いなさいよ。屁理屈ばかりこねるんだから」
仕方あるまい、屁理屈はこねるために存在するのだ。
「じゃ、本心がわかったんだからもういいよね」
そう言って愛花が立ち上がろうとする。
「ま、待った!」
俺は愛花の袖を掴んですがった。
「こんなところで見捨てるなんてヒドいではないか! ちゃんと朝倉さんと仲良くなる方法まで教えろ!」
「はあ? それくらいわかるでしょ!」
「ぼっちの俺にわかるわけないだろおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ああ、と愛花が額を手で押さえる。
「これでは農業もやったこともない浮浪者をかき集めて未開の大地に連行して、『さあどうぞ耕して』と言って放逐するようなものではないか! 救けたからには、最後まで面倒を見るのが救けた者の責任であろう!」
愛花が俺の剣幕に後ずさる。
ついには、わかった、と折れた。当たり前だ、悪いのは愛花の方なのだからな。
「……うーん、仲良くねえ。私は自然に仲良くなっちゃうからなあ」
この高等遊民め! 悔い改めろ!!
「だいたい、恋愛って駆け引きなんだよね」
ほう、駆け引き。
「ほら、よく言うじゃない。『押してもダメなら引いてみろ』って」
ふむ、なるほど。押してもダメなら引いてみろ、か。うん? 待てよ。
「朝倉さんは常に押しっぱなしで、俺は逃げてばかりいるんだが」
そうだった、とまた愛花が頭を抱える。
「うーん、じゃあ。お兄ちゃんが押してみたら?」
ほうほう、『引いてもダメなら押してみろ』と、こういうわけか。
「ホラ、例えばさ、お兄ちゃんから手をつないでみるとか」
「はっはっは! なかなか面白いことを言うなあ。そんなこと出来るわけがなかろう、具体例を挙げるならもっと現実的なものを出したまえ」
半目で愛花が睨んでくる。
「じゃあ、肩を抱く」
「何の冗談を」
「腰を引き寄せる」
「ありえない」
「キス」
「ムリムリムリムリムリムリムリムリ!!」
コイツ、俺をなめているのか! 伊達に二年間もぼっちで過ごしているわけではないのだぞ!!
「お兄ちゃん、本当に押す気があるの!?」
「あるわ!! だから、もっとこう、非接触的な押し方はないのか!?」
今度は愛花が頭をかきむしりだした。ふん、メンタルの弱いやつめ。スーパーぼっちの俺の方がよっぽどマシではないか。
「はあ……、わかった。じゃあ、『壁ドン』は?」
「『壁ドン』……?」
「女の子を壁に押し当てて逃げられない状況を作った上で、愛の言葉を囁くの」
ふむ、なるほど。それなら、確かに非接触ではある。
「だが、それは、その。わりと恥ずかしいのでは?」
すると、ついに愛花が金切り声を上げて憤怒した。
「恋愛に恥ずかしいもクソもないわああああああああああああああああああああああ!!」
愛花が人差し指を俺に突きつけて怒鳴りつける。
「だいたいね、お兄ちゃんは他人と付き合うってことに甘えがありすぎるのよ! ていうか、結局、自分が傷つきたくないだけじゃない! 朝倉先輩と仲良くしたいんだったら、多少のリスクくらい負いなさいよ! それが嫌ならクソ以下の阿呆以下のどクズのままのたれ死になさい!!」
「そ、そんなに怒らなくても」
「お兄ちゃんが煮え切らないからでしょ、このヘタレ!!」
「し、しかし……」
「やるの!? やらないの!? 生きるの!? 死ぬの!?」
「……や、やります」
さすがの俺とて死ぬのは嫌である。
「はい、じゃあ、終わり! いつものやつ、お願いね!」
プリンとケーキとシュークリームのことか。
「あ、プリンは普通のじゃなくて、焼きの方が好きだから。コンビニのプライベートブランドのやつ」
「おい、それ、通常の三倍の値段がすると言われるあのプレミアムシリーズじゃ」
「よ・ろ・し・く」
愛花はとびきりの笑顔を見せて部屋を後にしたのだった。
こうなっては仕方あるまい、多少のリスクを負ってこそ、得られるものに価値が生まれるというものだ。
良いだろう愛花、兄の威厳にかけて、人類史上最高の『壁ドン』を朝倉さんにお送りしようではないか!!
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