第2話 どうしてこうなった -中原和総-
朝倉さん。朝倉みなとさんとは、二年続けて同じクラスである。
すらっと伸びた手足、端正な顔立ち、そして波打つようにたおやかな長髪、これらを併せ持った学校一の美人である。
彼女を我が物にせんと欲する男子生徒はクラス単位で存在し、その予備軍ともなれば優に三倍は数えるという。
事実、朝倉さんが告白されているのを目撃したという話は、ぼっちの俺でも知るところであり、しかも多い時には週三で発生していたというのであるから、かぐや姫も斯くやと思われる。
だがしかし、彼女はたとえ相手がイケメンだろうがブサメンだろうが、決まって同じ一言でにべもなくフッてしまうのだという。
「興味ないから」
素晴らしい、さすが朝倉さん。興味がないなら仕方ない。相手も納得せざるを得ないだろう。決して『ちょっと違う』などという意味不明な文言ではないのだ、朝倉さんは相手に対する敬意というものがあるに違いない。というか、やっぱり未だに『ちょっと違う』は納得出来んわ!
そんな慈悲深い朝倉さんだが、群がる男子共を軽くあしらうのはもちろんのこと、その他の男子や女子、果ては先生にまで誰に対しても態度を変えないのであった。
やがて朝倉さんは一年生が終わる頃には、敬意と畏怖をもってこう呼ばれていた。
『絶対に媚びない系女子』と。
その『絶対に媚びない系女子』である朝倉さんが、今は俺の目の前で痴漢に遭っている。
朝倉さんは閉じた扉の前に立ち、卑劣な痴漢がその背後から覆いかぶさるようにして密着している。
いつも細い眉をきりりと吊り上げほとんど表情を崩さないことから、軟弱な男ではその前に立つだけでも思わず背筋を伸ばしてしまうのだが、その眉が力なく垂れている。
ふと、朝倉さんと目があった。朝倉さんは静かに首を振った後、顔を伏せてしまった。
気にしないでと気遣ったのだろうか、恥ずかしいから見てほしくなかったのだろうか、それとも。救けを求めたのだろうか。そしてそれを、諦めてしまったのだろうか。
いいや、そんなことは知ったことではない。何せ女はクソなのである。俺が救ける道理がないではないか。だいたい、正真正銘の痴漢行為なのかもわからないのだ、この満員電車だ、身体が多少密着するのは仕方のないことである、これで俺の勘違いで痴漢を指摘して仮に彼のその後の人生が台無しになるようなことがあればどう責任を取るというのか。
それでも、朝倉さんは辛そうだった。『絶対に媚びない系女子』として何があっても誰と対しても決して表情を変えない朝倉さんが、見るからに辛そうだった。
電車がカーブに差しかかる。遠心力で乗客がカーブの外側に流れる。朝倉さんの背に、卑劣漢の身体が押し付けられる。朝倉さんが苦痛に顔を歪める。
「あ、あの!」
気づいた時には声を上げていた。自分でもびっくりするぐらいの大声である。
「ちょっと、何ひてるんですか!」
噛んだ。あと、声が裏返った。
痴漢は血の気が引いて青ざめていた。朝倉さんは大きく目を見開いた後、これまでに見たこともないような優しい笑みを浮かべた。
え、ヤバ、可愛い。
ふと、我に返ると、車内の全視線が俺に集まっていた。明らかに不審者を見つめる眼である。
何か急に恥ずかしくなってきた。あれ、痴漢を指摘するのってどうすればいいんだっけ、そういや『この人痴漢です!』って叫んでるポスターを見たことがある、そうだアレの通りにすればいいんだ、いやでも痴漢がやってないとか反論してきたらどうするんだ、証拠なんてないぞ、てかむしろ冤罪だなんて言われたらどうするんだ、逆に俺の人生が終わるじゃないか、そして朝倉さんの笑顔がすげえ可愛い!!
ヒートアップした俺の脳はまさに混乱に相応しい出力をした。つまり、
「この人、俺をずっと触ってるんです!」
どうしてこうなった。
ぎゃあああああああああああああああああああああああああ、恥ずかしい、クソ恥ずかしい、恥ずかしさで死んでしまう、何で俺が触られてることになってるんだよ、おかしいだろ、こっちの方が証拠ないわ、完全に冤罪でしかないわ、というか何で叫んだ時に噛んでるんだよクソダサかよ、声も裏返ってクソダサの自乗だわ、やばいもう穴があったら入りたい、穴じゃなくてもいいから入りたい、てか入ってるよ、トイレの個室に!
俺が意識を取り戻すと、ちょうど駅のトイレの個室で便器に向かって語りかけていたところだった。混濁した記憶を整理すると、俺の叫びによって車内が騒然とし、痴漢も白目を剥きながら意味不明なことをまくしたてる男子生徒(俺)にドン引きし、どうにもいたたまれなくなった痴漢と俺は次の駅で降りて、俺はそのままトイレに直行したらしい。
思い出しただけでも吐き気がする、主に恥ずかしさで。
このまま自主休校してしまいたい、雨が降って外に出る気が失せるレベルで。
というか、時計をよく見たら一時間目が始まっていた。どうやら、軽く三十分は便器の前で呆然としていたらしい。落ち込みすぎだろ、俺。
意を決した俺は、そのあと二時間ほどトイレの中に居座り、昼休みの始まる時間と共に登校し、何食わぬ顔で己の机に着席したのであった。
こういう時は普段からぼっちでいて助かった。誰にも話しかけられないことを幸せに感じる時が来ようとは思いもしなかった。いやいや、こんなことを言えば、まるで俺が話しかけられないことを寂しいと思ってるように勘違いされるではないか、うるせえ寂しいわ!
午後の授業を受け終わったら、ダッシュで帰ろう。帰ってオ○ニーしよう。
そう固く心に誓って終業のベルと同時に下駄箱まで一目散に駆け下り、そのまま校舎を出ようとしたその時、
「中原くん!」
背後から艷やかな声に呼び止められた。
「待って、中原くん」
「……朝倉さん?」
そう朝倉さんである。痴漢から救けようとしてクソダサの極みに等しい醜態の一部始終を至近距離で見られていた朝倉さんである。うえっぷ、思い出しただけでも吐き気が。
「今日はありがとう。救けてくれたのよね?」
「あー、いやまあ」
「中原くんの気遣い、嬉しかったわ」
「はい?」
「自分が痴漢に遭っていただなんて、私が恥ずかしい思いをしないように、わざとそう言ってくれたのよね」
「え? あ、そ、そうそう!」
違う、朝倉さんの笑顔が可愛すぎてテンパってたのだ。
「私、中原くんのこと、前から面白い人だと思ってたわ」
何と、朝倉さんも絶望的に笑い音痴の人だった。
「でも、今日は、ちょっとかっこよかった」
トイレで吐きかけてたの黙っとこう。
「ところで、中原くん。誕生日はいつ?」
「えっと、五月四日……」
「そう、あと十ヶ月待たなきゃいけないのね。じゃあ、まずは同棲から始めましょうか」
「あの、はい?」
「私は一人暮らしだから、同棲するには問題ないと思うの。あっ、それとも中原くんの家の方がいい? そうね、ご両親に挨拶は済ませておきたいものね」
「ちょっと待って、何の話」
「何って、二人の結婚の話でしょう?」
おい、常識どこに行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます