愛依は祝主と言う言葉を覚える


 司凉しりょうがいない日は、翔士しょうしむらの子らと遊んでいる。

 泉恕せんど邑には翔士と同じくらいの年の子が数人いて、翔士はその子らと畔を走り回ったり、隠れ鬼をしたりして気ままに遊んでいた。


 これが貧しい邑ならもう少し事情が違っていただろうが、泉恕は依人よりうどを一人輩出した事で大いに潤っていた。


 学を希望した男の子は都の文院に進ませてもらえたし、女児であれば行儀見習いで都の貴人の家に奉公に出る子もいた。

 こうした奉公はそこそこ家柄がいい子が行く場合が多く、小作農の娘が奉公に出てもつらいばかりと思われたが、無事に数年勤めあげれば箔がつき、いい縁組に巡り合える。

 出来がよければ、更に御所の官女見習いに推挙される事も可能だった。


 という事で、諸々の特典を小さな邑に与える事となった幼い依人さま、つまり翔士は一応邑人らに感謝はされていたが、別段特別扱いはされていなかった。


 まして子どもの世界となると、その序列は体の大きさで決まってくる。

 遊びについていけないと年長の子からは邪険に扱われるし、虐めただの、虐められただのは日常茶飯事で、年の割に小柄な翔士は泣かされる事も多々あった。


 そんな時、翔士に代わって仕返しをしてやるのが向こう隣に住む緋沙ひさという女の子で、翔士と同い年ながらも非常にしっかりした子であったため、守役三人からも非常に信頼されていた。


 何と言っても、翔士はおっちょこちょいの上にやんちゃである。

 何をやらかすか予想もつかなかったので、目配りの出来るこの子にお目付け役を頼んでいた。


 緋沙は実際、十二分の働きをしてくれた。

 翔士がうっかり川で溺れた時も柿の木から落っこちた時も、守役のところに走って知らせに来てくれたのはこの緋沙である。

 ついでに言えばその両方とも翔士は死にかけて、符を裂いて祝主を呼びつける騒ぎとなっていた。


 ようやく体が丈夫になってきたら今度はやんちゃが過ぎて死にかけるんだもんな……と、子らが遊ぶ様子を遠目に眺めながら、呆れ半分、そう心に呟く宜張ぎちょうである。

 宜張自身も子ども時分はかなりやんちゃをやらかしたが、翔士ほどは親に迷惑をかけなかった。


 まあ翔士の場合、木に登れば枝が折れたり、落っこちたら落っこちたでたまたまそこに岩が突き出ていたりと、不運も大いに関係しているのだが。

 只人の子よりも運がないように見えるのは気のせいだろうか……などと宜張が頭を捻っていると、ちょうどその翔士が向こうから歩いてきた。


 先ほどまで邑の子らと凧揚げをしていたが、どうやら飽きたらしい。

 見れば、ひっく、ひっくとしゃっくりをしていた。


「そのしゃっくり、止めてやろうか?」

 宜張が声を掛けてやると、「どーすんの?」と翔士が嬉しそうに駆けてきた。


「ものすごく驚くと止まる事があるから、俺が脅かしてやろう」


 そう言った途端、翔士は警戒するように後ずさった。

「おれ、へーき」


「遠慮は要らんぞ。俺に任せておけ」

「いい。いらない」


 脅かされるのが余程嫌だったのだろう。翔士はそのまま一目散に逃げて行った。


 しばらくして、宜張のところへ妓撫きぶが首を傾げながらやって来た。

「翔士がそこで、ドキッドキッて一人で叫んでるんだけど、何してるのかしらね」


「……」


 どうやら自分で自分を驚かそうとしたらしい。

 発想は面白いが、全く効き目はないなと宜張は遠い目で心に呟いた。




 今日も元気に翔士が死にかけた。

 元気にというのはおかしいかもしれないが、祝血はふりちをもらうと翔士はすぐに元気になるし、何より祝主はふりぬしに会えた事で本人は大興奮の絶好調である。

 だからここは敢えて、元気に死にかけたと表わしたい。

 

 さて、司凉が胡坐をかくと、当たり前のように翔士は膝に座りに行った。

 太腿の上にだれーと上半身を乗っけてみたり、お腹の辺りに鼻先を突っ込んだり、仰向けで寝っ転がって司凉の手の動きを目で追ったりと大層 せわしない。


 卓の上の茶器に手を伸ばそうとした司凉が、ふと気付いたように翔士に声を掛けた。

「おい、座ってろ」

 うっかり動き回られると、茶をこぼしかねない。


「うん」


 翔士は司凉の言う事には絶対服従だ。

 すぐに起き上がると、ちんまりと司凉の膝に座り直した。


 その時、翔士の袖がちょっと捲れて、見事な歯形が露わになった。


「おい、その歯形は何だ」

 聞かれた翔士は、まじまじと自分の左腕を見た。


「ちおんに噛み付かれた」

 智穏ちおんとは、近所に住む三つ上のガキである。


「蹴ったら、噛み付かれた」

「……何で蹴ったんだ?」


「ちおんが気持ちよさそうに歌を歌ってたんだ。二回も!」

「……それで?」


「うるさかったから、蹴った」

「……お前が根源か」


 ちょうど翔士はすぐに手が出るお年頃だった。


「手は出すな。口ならどう言ってもいいが、むやみに手を出すんじゃない」


 そばで聞いていた守役三人は秘かに感心していた。

 珍しく躾けらしい事を司凉が口にしたからだ。


「ふうん」

 翔士は司凉を見上げた。

「口で言うのならいいの?じゃあ、ちおんのこと、ちんちんって言っていい?」


 司凉は茶を噴き出した。

 初めての躾は、間が抜けた形で終了した。



 さてこの日、翔士は祝主と言う言葉を覚えた。

 そして、それが自分と司凉の特別な関係を指し示すものだという事を知って興奮している。


「しりょーはね、しょーしのはふいぬし」

 ぴたっと司凉の体に張り付いて、翔士は何度もその言葉を繰り返す。


「しりょーは、しょーしだけのはふいぬし」

 だけの、というところが特に翔士の気に入っている。



 そんな折、いつものように佑楽うらくが泉恕に顔を見せた。

 嬉しそうに佑楽に寄り添う架耶かやを見て、「うらくが、かやのはふいぬし?」と翔士が目をきらきらさせて尋ねる。


「ああ」と佑楽が頷くと、翔士は今度は残りの守役二人を見た。

「じゃあ、ぎちょーがきぶのはふいぬしなの?」


 指さされた二人は鳥肌を立てた。


「冗談じゃねえ!」

「冗談じゃないわ!」


 宜張はここぞとばかりに、自分の祝主の自慢を始めた。


「俺の祝主はな、宮の信頼も厚く、傍近くで眠りを見届ける役目を授かったほどの依人だぞ。

 有能な上にそれはきれいで優しいんだ!」


 愛依ういである宜張は言葉に尽くせぬほど、祝主の沙羽さうを慕っている。沙羽の事を語らせたら、おそらく一日では足りないだろう。


 翔士は宜張の言葉を馬鹿正直に繰り返した。

「きれいで、やさしいはふいぬし?」

「そうだ」


 側で聞いていた妓撫が、横から割り込んできた。宜張の祝主だけを褒めるなど、許せる事ではない。


「あたしの祝主の成唯せいいだってすごいのよ。

 依人よりうどの中で一番偉いのが葵翳きえいっていう依人で、成唯はその補佐役に選ばれているの。

 依人筆頭補佐っていう大切なお役目よ!」


 翔士はこてんと首を傾げた。

「よいうどひっとうほさ?」


「そうよ」

 妓撫は重々しく頷いた。

「覚えておきなさい、翔士。貴方の祝主だって、成唯の言う事は絶対聞かなきゃいけないんだから!」


 翔士は、目を瞠った。

「せいいは、よいうどひっとうほさ」


 そしてぶつぶつと呟いた。

「だからしりょーは、せいいの言うことは絶対きかなきゃいけないんだ……」


 そしてその言葉は翔士の脳裏の奥深くにしっかりと刻み込まれた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る