愛依は鬼に襲われる
さて、四つの時に
守役らが万全の結界を張っていたのに、何故、鬼に襲われてしまったのか。
理由は単純明快である。
翔士がうっかり結界の外に出てしまったからだ。
勿論翔士は口が酸っぱくなるほど守役から注意をされていた。
ここから先は何があっても足を踏み出してはいけない、と。
何度も何度も言い聞かされ、本人も重々承知していたのだが、そこはそれ、子どもなので急に何かを思い立って思いもかけない事をやらかしちゃうものなのである。
ちょうど冒険という言葉に憧れていた翔士は結界とやらの
このちょっとした冒険が見つからぬよう、翔士は人目につかない場所を選んだのだが、選んだ場所と言うのが非常に問題だった。
苔むした無縁仏の墓石が並ぶ一角で、しかも数日前、痩せさらばえた野良猫の親子が食い詰め、苦しみながら事切れた場所であったのだ。
一歩踏み出した途端、急に視界がぶれたような違和感を翔士は感じた。
翔士は踏み出した足を慌てて元に戻した。
けれど、不穏な空気は元に戻らなかった。
翔士自身を守る結界を自らの意思で超えてしまった事で結界に綻びができてしまい、不浄がじわじわと内部に入り込み始めていたからだ。
何かを決定的に間違えてしまった事を翔士は思い知り、懐に入れていた符を本能的に握り締めた。
万が一の時に使うようにと、祝主と守役三人から渡されていた符だ。
躊躇なくその符を次々と裂きながら、翔士は邑のどこかにいる守役たちの所へ一目散に駆け出した。
その頃、雅やかな管楽の宴に出席していた
そしてそれは、邑に散らばっていた守役三人も同様だった。
翔士は遊びで符を破る事はしない。
一度それをやって、守役からしこたま怒られていた。
符を破れば、術の返しが符を作った
どの符を誰に渡したかを依人たちは把握しており、符が破られれば、助けを呼んでいる
血相を変えた
咄嗟に
一番遠くにいた
その頃、司凉は
翔士の符が破られるや直ぐに宴の席を立ち、用人に命じて愛馬を用意させた司凉である。
土ぼこりを立てて泉恕へと入れば妓撫が門のところに待ち構えていて、「鬼に襲われたの!」と悲鳴のような声を向けてきた。
「容体は?」
「左肩の辺りを食いちぎられて、出血が止まらないの。瘴気もかなり浴びているわ!」
扉を蹴破るように中に入れば、愛依のむっとする血の匂いが鼻を突き、中央の寝台では蒼白な顔色をした翔士が肩で喘ぐように息をしていた。
瘴気を浴びたせいで意識も朦朧としており、弱々しく開いた翔士の口に司凉は
鬼にやられた傷はなかなか血が止まらないため、肩に巻いた包帯からはまだ真新しい血が滲み続けている。
そこにも祝血を滴らせ、取り敢えずの処置を行った。
大量の出血で手足の先が冷え切った翔士のために
架耶はまだ帰ってきていない。結界の補修とあの一帯の後始末に手間取っているのだろう。
不浄が体中に回っているため、その後も翔士は脂汗を流しながら浅い呼吸を繰り返していたが、四半刻が過ぎる辺りから何とか状態も落ち着いてきた。
蒼白だった顔に血の気も戻ってきて、その頃になってようやく、覚えのある香が部屋を満たしている事に司凉は気付いた。
血の匂いを中和する
翔士の表情も穏やかになってきて、新しい血が肩の包帯を濡らす事もなくなった。
肉をかなり抉られていたが骨には異常がなく、治癒能力に優れた依人であれば、丸二日も寝ていれば肉も盛り上がって来るだろう。
大量に浴びた瘴気は時間が経たない限り抜けないが、これは日薬で治るものなので心配ない。
「一体何があった」
その寝顔を見ながら低く問い掛けた司凉に、守役らはちょっと顔を見合わせた。
「多分、面白半分に結界の外に出てしまったのだと思うわ」
先ほど外から帰ってきた架耶が、疲れた口調で答えた。
「翔士に渡していた符が裂かれて、慌てて駆けつけたら鬼に襲われてたの。
宜張が鬼を仕留めている間に、私は結界の修復にかかったのだけど」
司凉が宜張の方を見ると、宜張は軽く肩を竦めた。
「結界を超えてすぐ、全員分の符を裂いたんだろう。多分、空気が変わった事に気付いたんじゃないか」
鬼を認めてから符を裂いたのでは手遅れになっていた。
その判断能力だけは誉めてやってもいいがと、乾いた語調で宜張が続ければ、妓撫が怒ったように口を開いた。
「判断能力があるって言うなら、結界を越えなきゃ良かったのよ!
後一歩、宜張が駆けつけるのが遅かったら、確実に鬼に食い殺されていたわ」
妓撫は声を震わせ、目尻に滲む涙を乱暴に拭った。
「あれだけ結界に近付いたらダメって言いきかせてたのに! 目が覚めたら、ただじゃおかないんだから」
その言葉通り、目が覚めた翔士は守役三人からとことん叱られる事となった。それはもう、今までの比ではないくらいにすごかった。
何をどう叱られても悪いのは自分だとわかっていたから、翔士はひたすらごめんなさいを繰り返していたが、いつもなら一番に声を荒げてくる筈の司凉が妙に静かである事にようやく気が付いた。
そう言えば、目が覚めてから一言も口をきいてもらっていない。
「しりょー……?」
おそるおそる声を掛けてみたが、大好きな祝主は返事をしてくれない。
「馬鹿な事をして本当にごめんなさい。もう二度としません。本当に本当にごめんなさいっ!」
枕に頭をつけたまま、翔士は一生懸命一生懸命謝った。
なのに司凉は唇を引き結んだまま、何も答えない。それどころか翔士と視線を合わせようともしなかった。
ややあってその口から出てきたのは、翔士が思いもしない言葉だった。
「もうお前のような愛依は知らん」
「しりょ……?」
「散々手を煩わせて反省をするどころか、面白半分に結界を超えただと。
呆れ果てて言葉もない。
もうお前のような愛依は要らん。顔も見たくない」
あからさまな拒絶に、翔士は心の臓が砕けて散るかと思った。
誰よりも慕う唯一無二の祝主から、そんな言葉を言われる日が来るなんて思いもしなかった。
「しりょ……、ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
ぼろぼろと涙をこぼしながら翔士は必死に謝った。けれど司凉は冷ややかな顔でそっぽを向くばかりで、何も答えようとしない。
「しりょー、お願い。今度からちゃんといい子になるから! きちんという事を聞くから……!
だからお願い、しょうしのこときらわないで……!」
「……知るか!」
腹立たしげに司凉は立ちあがり、そのまま大股で部屋を出て行った。
後には大声で泣きじゃくる愛依が取り残された。
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