愛依は祝主に絶対服従

 言葉を覚え始めた翔士しょうしは、よく喋るようになった。


 守役たちの姿を認めると、近所のガキと遊んでいても駆け寄ってきて質問する。

「どこいっていたの?」


 が、翔士はその答えに興味はない。聞いただけで気が済むらしく、守役らが口を開くより先に回れ右して、またすぐにガキたちの所へ戻っていく。

 後には間抜け顔をした守役が取り残される事になる。


 服も自分で脱げるようになり、守役らに自慢するようになった。


 袖から脱ごうと、まず右手で左袖口をぎゅっと掴み、強く引っ張る。少しだけ袖が脱げたが、袖が脱げる以上に、引っ張った分だけ体が右に回った。

 また袖を引っ張るので、更に体は右に回る。

 その場で右周りを始めた翔士を、架耶かやは生温かい目で見つめた。いつまで経っても服が脱げそうな気はしないが、翔士は必死だ。


 さりげなく手を貸してやり、無事に脱げた翔士に「すごいね」と褒めてやった。

 褒められた事が嬉しかったのか、翔士は後日、司凉しりょうの前で服脱ぎを披露したが、手を貸してやる人間が傍にいなかったので、ひたすらぐるぐると回る事になった。


「こいつは一体何がしたいんだ?」


 司凉は愛依の成長には余り関心がない。

「たまには褒めてやったら?」と妓撫きぶが言うと、嫌そうに顔を背けていた。




 さて、翔士は人参が苦手である。

 お皿に人参があると器用にそれだけを残すし、「食べなさい」といくら母親が叱っても「ヤダ」を連発するようになった。

 成長の過程で子どもが通る道、つまり反抗期に入ったのである。


 母親だけでなく、気の知れた守役らに対しても「ヤダ」を口癖のように言い始めた。

 架耶が服を着るのを手伝ってやると、「自分が着るの!」と叫んで、着せてもらった服を全部脱ぐ。そして、最初からもたもたと着始める。

 手を出さなければ出さないで、今度は「着せて着せて」とかしましかった。


 子どもはそういうものだと頭ではわかっていたが、手こずらされた三人は酒を片手に時々愚痴り合った。

 そんな時ふと、司凉に対してはどうなんだろうという疑問が浮かんだ。

 大好きで堪らない祝主はふりぬしに対しても、翔士は果たしてわがまま放題を貫くのだろうか。


 という事で、守役らは人参の入った皿で翔士を試してみる事にした。

 司凉は面倒くさがったが、この守役らには常日頃より自分の愛依ういが大層世話になっている。断るという選択肢はなかった。


 一方、何も知らない翔士は祝主と一緒にご飯が食べられると聞いて朝から大喜びだ。

 時々、皿の上のおかずより司凉の顔を見て物欲しそうに涎を垂らしていたが、そこは誰も気にしない。


 いつものように、匙や手を使ってもたもたと皿の上の料理を食べていた翔士は、今日も人参だけ残してきれいに完食した。

 守役が考えた通りの流れである。


 正面で食べていた妓撫が司凉に目配せし、司凉は不本意そうに口を開いた。


「皿の上の物は全部食え」

「ヤ……」


 ヤダ……と言おうとして、翔士は賢明に口を閉じた。祝主の目が氷のように冷たくなった事に気付いたのだ。

 司凉が食えという風に顎をしゃくると、翔士は逃げ場を失って目を泳がせた。


「えっと、しょーしね、しょーしね」

 翔士は小さい頭で一生懸命言い訳を考える。

「しょーし、これ食べると、口から出しちゃうの」


 一見理が通っているようで、全く通っていない。

「出すな」


 無情な祝主の一言に、翔士は黙り込んだ。それから祝主の顔を見上げると、「ふえーん」と泣きまねを始めてみる。

 このところ、翔士は日々、いろんな知恵を身につけつつあった。

 しかし、姑息な嘘泣きが祝主に通用する筈もなく、更に眉間に深い皺を寄せられて、翔士はいよいよ追い詰められた。


 翔士は皿の上の人参を悲しそうに見て、ちらっと司凉の顔を窺った。「食べなくていい」と言ってもらえるのを待っているのだろう。

 が、そんな事を司凉が言う筈もない。

 食べ物を残すなどといった行儀の悪い事を司凉は子ども時分からした事はなく、何故残すという目で冷ややかな目で愛依ういを見た。


 このままでは、いつまでたっても食事が終わらないだろう。

 傍で見ていた架耶は小さくため息をついた。


「翔士、司凉が手ずから食べさせてあげるって」

 架耶の言葉に、司凉がぎょっとしたように架耶を振り向くが、架耶は動じない。

「どうする、翔士。もうこんな事、二度とないわよ」


 翔士は皿の上の人参を見て、司凉を見上げ、再び皿の上の人参に目を落とし、また司凉の顔を見た。

 幼子の葛藤が手に取るようにわかり、守役三人は苦笑する。


 そして翔士は祝主への愛の前に自我を捨てた。


「これ食べたら、しりょー、ぎゅっとしてくれる?」


 司凉が何か言い返そうとしていたので、守役三人はぎっと司凉を睨みつけた。司凉は一瞬天を仰ぎ、忌々しげに頷いた。


「ああ」


「じゃあ、しょーし、食べるね」

 ぽろりとひとしずく涙を零しながら翔士が言い、大きく開けた口に中に司凉は人参を突っ込んでいった。

 ……食べさせるというより、突っ込んだという言い方の方が、まさにこの行為の本質をついていた。


 鼻をつまみ、ついでに目もギュッと瞑っている翔士の口の中に司凉は人参を突っ込み、飲み込んだのを確かめて、また次の人参を口の中に放った。


 そうやって何度かごっくんを繰り返すと、皿の上の人参は見事になくなった。


 片目でそっとそれを確かめた翔士はぱあっと顔を輝かせ、大好きな祝主の胸に飛び込んでいった。

「しょーしね、しりょーのためにがんばったんだよ!」


 何かもの凄い犠牲を払ったような言い方だが、何て事はない。皿の上の人参を食べただけだ。


 司凉は腕に愛依を抱いたまま「ふん」と呟き、一つあくびをした。

 くだらないと、でかでかとその顔には書かれていた。


 そんな風に昼餉ひるげも済み、一息ついたところで翔士が「ねえ」と祝主に問い掛けた。

「しりょーは女の人が好きなの?」


 まるで、今日の天気は何? みたいな質問だった。

 が、その内容が内容だけに、いろいろと純粋でない大人四人は身構えた。

 

 司凉が御所で女性らと浮名を流している事を、守役三人は当然知っている。


 そもそも御所に勤める官女らにとって異形を払う依人というのは憧れの偶像的存在で、依人と関係を持っている事を殊更に吹聴する官女も多くいた。

 だから司凉が節操なく遊んでいる事は同胞はらから内では周知の事実であったが、だからと言ってそれを小さな愛依に聞かせたいかと言うと、そんな事は絶対にない。


 誰がこいつに教えたんだ? という目で司凉が隣の宜張ぎちょうを睨み、宜張は俺じゃないと慌てて首を振った。

 ふと妓撫に視線をやると、妓撫があからさまに目を逸らしてきて、他の三人は犯人はこいつだと確信した。


 犯人はわかったが、それより先に翔士の疑問に答えておかねばならない。

 司凉は慎重に言葉を選んだ。


「女の人って誰の事だ? 若い女か、それとも年を取った女を言っているのか?」


 そう問い返すと、翔士は「大人の女」と答えた。

 見事な切り返しに、司凉が思わず絶句する。


 こいつはどこまで意味が分かっているのだろうか。

 幼児とはいえ侮れないと周囲が変な汗をかいていると、「でもね」と翔士が言った。


「でも、何だ」

「だけど、タヌキは歌わないんだよ」


「は?」


 『だけど』の使い方が完全に間違っているし、そもそも司凉の女好きとタヌキは関係ない。何故、タヌキがここに出て来るかもわからなかった。


 結局は幼児の戯言たわごとであったようだ。本気で焦った大人が馬鹿みたいである。


 大好きな祝主とおしゃべりができて満足そうな愛依と対照的に、祝主は疲れたように天井を向いて嘆息した。





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