愛依は祝主に引っ付きたがる



 一つを過ぎた辺りから、翔士しょうしはよたよたと歩き始めた。最初は足をもつらせては転ぶので、守役らは目が離せない。

 それに目についたものを拾って口に入れる事があるため、これも要注意だ。

 ただ、大人の言う事は理解できるので、「めっ」と言えば取り敢えず止める。

 が、ちょっと目を離すと、大人の方を窺いながらまた口に入れようとするので油断がならない。


 言葉もだんだんと増えてきた。

 片言で何やら言っているが、意味不明の言葉も多い。

 そしてら行もうまく言えなかった。


 だから翔士は司凉しりょうの事を「しよー、しよー」と呼ぶ。

 因みに、妓撫きぶの事は「きう」、架耶かやの事は「かあ」、宜張ぎちょうは「ぎよー」だ。

 それは宗主の名前だと宜張が呟いていた。


 一番悲しいのは、翔士の父親だった。「お父さん」と言えない翔士は、父親の事を「おっさん」と呼ぶ。

 言われた父親の背中は、なんだか寂しげだ。



 ある日、司凉が部屋で書を読んでいると、突然腕と腹の間からずぼっと小さな頭が出てきた。言わずと知れた翔士である。


 翔士がいるというからにはここは泉恕せんどであり、要はいつものように熱を出して都から呼びつけられていた。

 非常に不本意だが、前の晩の札遊びで独り勝ちをし、獺桂だっけいを堪能したため司凉の機嫌は比較的良い。


 一方、深衣の間から顔を覗かせた翔士は物珍しげに司凉が手にしている書を見つめ、それから徐々に頭を下げていった。

 書と司凉の腹の間に丸くおさまり、大好きな深衣に頭をすりすりしている。


 司凉は書を片手にうんざりとため息をついた。

「お前は猫か」


 払ってもいいのだが、司凉にひっきつきたがりのこの愛依は、追い払われて素直に引くような事はしない。


 この前は、膝の上がだめならと背中からよじ登ってきて、両肩に足を乗せる格好で頭にしがみついてきた。

 いわゆる肩車の体勢である。


 相手をするのが面倒くさかったので放っておいたら、後でものすごく肩が凝った。

 あの体重を両肩に乗せて長時間同じ姿勢でいたのだから、当たり前と言えば当たり前である。


 今回はおとなしく膝に丸まっていたが、しばらくすると飽きてきたようだった。

 胡坐をかいた司凉の膝の中から首を巡らせてあちらこちらを見ていたが、そのうち膝の上に這い上がり、更に上を目指して登り始めた。

 前回と同じパターンである。


 司凉の深衣の袖を掴み、襟首を引っ張って体を持ち上げ、目指す地点は司凉の頭だ。

 肩車の態勢で落ち着いたところで、司凉は徐に翔士の両脇を掴んだ。

 早々に降ろさないと後で肩が凝る。


 翔士は、「ふよっ」と抗議の声を上げたが、なす術もなく床に下ろされた。

 畳の上に降ろされた翔士はしばらく周囲を見渡していたが、再び司凉の膝の上に乗っかってきて、また上を目指して登り始めた。

 小さな手が袖を掴み、うんしょうんしょと言いながら登っていく。

 そして後頭部にしがみついたところで降ろされる。この繰り返しだ。


 はっきり言って煩わしかったが、傍で騒がれても煩いので、司凉は放っておく事にした。

 積極的に相手をしてやらなくても、一人で勝手に遊んでくれるのだ。考えようによっては楽と言えるかもしれない。


 が、ある時翔士は向きを間違え、後ろ頭ではなく、司凉の顔面にへばりついた。

 当然司凉は腹を立てる。


「おい、どけ!」

 司凉はやや乱暴に翔士の服を引っ掴み、思い切りべりっと引き剥がした。


 が、この時はたまたま、翔士は司凉の髪の毛を引っ掴んでいた。

 引き剥がした途端に、ぶちぶちぶちと数本黒髪が引っこ抜かれて、司凉はマジでブチ切れた。


「めんちゃ(ごめんなさい)」と、翔士は何度も謝ったが、司凉は絶対に許してやらなかった。

 司凉 いのちの翔士は泣きに泣いた。

 泣き過ぎた挙句、最後には、げぼぅっと吐いていた。


 子どもって泣き過ぎても吐くんだ……と、新たな事実を知った司凉だった。




 さて、泉恕せんどの邑には子どももたくさんいて、ひとつと半分を過ぎた辺りから、翔士は邑の子たちに混じって遊び始めた。

 赤子の時に依人認定された翔士だが、特別扱いはせずに育てて欲しいと宗家から命じられている。

 なので大きい子たちの後ろをついていき、田んぼや畔の方に行く事も多くなった。


 翔士の存在が鬼に勘づかれないよう、守役らは翔士の家を中心に広範囲に結界を張っていた。

 そこから外に出てはいけないと翔士にはきつく言ってあるし、結界内であればどう遊んでもあまり心配はない。


 ただし、怪我をしたとなれば話は別だった。依人の血の匂いは無条件に鬼や異形を呼び寄せる。

 気配は結界でごまかせても、血の匂いを漂わせればはぐれ鬼を呼び寄せかねない。

 だから守役たちは幼い翔士に口が酸っぱくなるほど言い聞かせた。


「怪我をしたら、すぐに私達に言う事」


 翔士がやんちゃで傷を拵える度、守役らはその傷口に匂い消しの膏薬をせっせと塗り込んだ。

 それだけでなく、血の匂いを中和させるために樵木しょうぼくの葉を火でいぶしもした。


 だから邑人たちは樵木を燻した独特の臭いが漂ってくると、与黄よきの三男坊がまた傷を拵えたんだなと気付くようになっていた。


 そうしてやんちゃを繰り返しながら翔士は大きくなっていったが、体のひ弱さは相変わらずだった。

 そこら辺を駆け回っていたと思っていたら、晩に小さく咳をし始め、翌日には熱で顔を真っ赤にした子どもの出来上がりだ。

 

 実を言うと、病気になると司凉が来てくれるので、翔士は寝込む事が嫌いでなかった。

 少々体がしんどくても、司凉に会える方が余程いい。口舐めも大好きで、隙あれば司凉に口舐めをせがんでいた。


 ある日、妓撫が翔士に、「翔士は司凉にちゅってするのが好きね」と言うと、「うん!」と嬉しそうに照れていた。


「じゃ、宜張にもちゅっしてみて」と、妓撫が面白がって言うと、宜張の方へ駆けて来て、ほっぺにちゅっと唇をくっつけてきた。

 そしてその後、拳で唇を拭った。


「おい」

 思わず悲しみを覚える宜張だった。




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