愛依は祝主に甘えまくる

 つかまり立ちやはいはいをするようになった翔士しょうしは、今、木箱の中に入れられている。

 木箱の高さは、ちょうど翔士の肩くらい。つかまり立ちして顔を覗かせる事はできるが、脱走は不可能という絶妙の高さである。


 その木箱の中で、翔士はすやすやと眠っていた。今日も義理堅く死にかけて、つい先ほど、司凉しりょう祝血はふりちを美味しくいただいたところだ。


 自分の部屋の布団で寝かせておいてもいいのだが、目が覚めたら司凉の残り香に気付き、司凉を求めて、ふえふえ泣き出すのは目に見えている。

 なので、守役らが暮らす本宅の方に木箱ごと連れて来た。


 ……木箱は簡単に持ち運べるので、大変便利である。

 そこら辺に転がっているような簡素な木箱だが、そこはそれ、依人よりうどさまを寝かせているので、一応、木箱の底には分厚い座布団が敷かれ、眠っている翔士の上にはふんわりとした掛布団が掛けられていた。

 寝心地はそう悪くはない筈だ。


 そして、その木箱を部屋の隅に置いて、依人四人が真剣にやっているのが花札だ。

 宜張ぎちょう妓撫きぶ架耶かやと司凉。最近は、この四人が集まると、最近は自然と卓子を囲むようになっていた。


 ことの発端は、館のくりやに鎮座している『獺桂だっけい』の樽だった。


 この獺桂、口に含むと、酒本来の芳醇な甘みとすっきりとした香りが口いっぱいに広がり、そして飲み下すと、喉元にふわっと上品な吟醸の余韻が残る。

 上質の米と水を使用している上、丁寧に時間をかけて精米されているらしく、雑味というものがほとんどないのだ。

 不見みずでも五本の指に入るだろう。


 出回っている数自体が少ないため、依人と言えども簡単に手に入るような酒ではないのだが、赴任の際、鄙での生活を案じてくれた宗家が、一樽まるごと泉恕せんどに送ってくれていた。

 なかなか太っ腹な宗主である。


 守役三人は賢明にこの話を誰にも漏らさなかったが(同胞はらからが度々、翔士を見にやって来るので、知られるとあっという間に飲み尽くされるからだ)、司凉はどうやら父親からこの話を聞いたようだった。

 で、ある時、守役たちに勝負を持ち掛けてきた。

 曰く、花札の勝負で最終的に勝った者が、この銘酒を一杯だけ味わえるようにしないかと。


 依人は皆、闘争本能の塊みたいなものだ。

 勝った、負けたの勝負事には目がないし、こんな面白い話から逃げる選択肢なんてはなからない。

 瞬く間に話がまとまり、いつの間にか、四人揃えば必ず札遊びをするようになっていた。


 自分の愛依そっちのけで花札に興じる祝主。どこか間違っている気もするが、勝負の前には些末な事だ。


 各々の手札を見つめる、依人たちの目は真剣だ。もしかすると、鍛錬をしている時よりも集中しているかもしれない。

 札をめくりながら思い出すのは、獺桂の甘い芳香とまろやかな舌触りだ。悔しそうな三人を見ながら飲み干すあの一杯は、いつにも増して旨い気がする。

 

 などと考えていたのがいけなかったのか、司凉は今日、完全にツキに見放された。

 互いの碁石入れに入っている碁石や貫木かんぎの数をざっと見ると、今日の勝者はどうやら架耶のようだ。

 追い上げているのが妓撫で、男二人は大きく水をあけられている。


 今日はツイていないなと胸で呟いた時、後ろで「あぶう」と声がした。

 妓撫があっという顔をした。翔士を部屋に連れて来ていたのを四人が四人ともすっかり忘れていた。


 司凉を除く三人が振り向くと、木箱の中で翔士がむずかるように目をこすっていた。

 と、ぼんやりと辺りを見渡した翔士が、ふと何かに気付いたように、くんと鼻をうごめかす。


 以前から司凉の衣に異常な執着心を見せていた翔士だが、どうやら翔士は司凉の匂いだけは違わずに嗅ぎ分けられるらしい。

 その嗅覚の鋭さはまるで犬並みだ。

 

 愛依ういは確かに己の祝主はふりぬしの匂いを嗅ぎ分けられるものだが、翔士のような事はない。肌に顔を寄せて、ようやく祝主の匂いを感じ取れる程度だ。

 祝血で育ったような赤子なので、愛依としての感覚が人一倍鋭くなっているのかもしれない。


 その翔士は司凉の匂いを嗅ぎ取ったらしく、「だあっ」と叫んで四つん這いになり、木箱の縁につかまり立ちしてきた。

 木箱から顔を出して、「ばぁぶ、だあっ」と必死に司凉を呼ぶ。


 司凉はちらりと翔士を見るが、抱き上げに行ってやったりはしない。面倒くさいからだろう。

 代わりにすぐに立ち上がり、迎えに行ってやるのは優しい架耶だ。腰を屈めて翔士を抱き上げ、箱から出してやる。

 床に下ろされた翔士には、もう司凉しか見えていない。短い手足を必死に動かして、まっしぐらに司凉の元へと向かっていった。


「ばぶぅ」

 全身で喜びを表しながら、翔士は胡坐をかいている司凉の膝の上に這いのぼった。そこから伸びあがるようにして、司凉の胸に抱きついていく。

 司凉が小さく吐息をついて、片手で愛依を抱き上げた。


 翔士は司凉に抱きつきたいのだ。一度はきちんと抱き締めてやらないと、この甘えたの愛依がいつまでもぐずるのは目に見えている。

 司凉の首に両手でしがみつき、翔士は司凉の顔に頬をすりすりした。ついでにちょっとだけ口舐めをする事も忘れない。


 実を言うとこの口舐め、祝血と同じように気分けの効果があった。

 祝主の体液は血でも唾液でも愛依にとっては極上の滋養となるため、他の祝主たちは当然のように自分の愛依に口舐めを許してやっていた。

 が、翔士がはつ愛依となる司凉はその事実を知らなかった。

 司凉の場合は愛依が同性であったので、教える必要はないと思われたらしい。


 その判断は確かに間違ってはいない。司凉だって男相手に口舐めを許そうとは微塵も思わないからだ。


 が、相手が赤子であれば、そこまで頑なに嫌がるつもりはなかった。

 毎回、破邪の刃で皮膚を裂いて血をやるより、口舐めの方がはるかに手っ取り早い。

 なので、翔士が五、六か月になった辺りから、司凉はそれを許してやるようになっていた。


 祝血と同じように美味しく、体も楽になると知った翔士は、以来、腹が空くとへちゃあっとくっついてきて、口舐めをせがむようになった。

 非常に煩わしいが、勝手に舐めて勝手に元気になってくれるので、便利と言えば便利である。


 という事で、定番の口舐めを済ませた翔士は散々甘えて気が済んだか、大人しく祝主の胡坐の中に落ち着いた。

 太腿の辺りでもぞもぞと動き回ったり、お腹の辺りに顔を突っ込んで祝主の匂いを嗅いでいたりしていたが、やがてうとうとと微睡み始めた。

 病み上がりなので、まだ体力がないのだろう。


 深衣に涎をたらされたくない司凉は、すさかず座布団を自分と翔士の間に割り入れた。

 祝主の体温が感じられなくなった翔士は、ん?と、一瞬不満そうに頭をもたげたが、司凉が頭を撫でてやるとそのまま騙されて寝入っていった。

 ……割とチョロい。


「続きをしようか」

 札を手に取り、司凉が言った。

 いつもの事ながら、切り替えが早い。膝で寝ている愛依のことなど、もうこれっぽっちも考えてはいないのは明白だった。


「もう、勝負はついたんじゃないの?」

 呆れたように架耶が言ったが、残りの三人皆、首を振った。勝負事は下駄を履くまでわからないものだ。



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