第3話



 木曜日。

 外は分厚い雲が覆っていた。雨の降りそうな独特の匂いが息苦しく感じた。

 そんな中、リナリアさんはブランケットを纏って立ち尽くしていた。


「寒くはないんですか?」

「大丈夫よ。寒いのも、痛いのも、慣れてしまったから」


 リナリアさんはゆっくりとこちらに歩いてくる。


「ただ、今日は隅っこに居たい気分」


 扉のすぐ横の壁に、背中を預けて座る。


「ほら空人くん。キミも座りなさい」


 ちょこっと指先を覗かせて、ポンポンと隣を叩いて促す。


「はい。失礼します」


 僕が並んで座ると、リナリアさんは寄ってきてブランケット越しに肩が触れ合った。ちょっと気恥ずかしい。

 ただ、そんな気持ちはすぐに霧散してしまった。


「今は、絵は描いていないの?」

「……どうして、知ってるんですか?」

「名前を知っているのだもの、訊き込んだりして調べたわ。空人君は結構有名人なのね」

「大したことありません。今だって、描いてないので」

「やめてしまったの?」

「いえ、この時期は筆が進まないってだけです。心配するようなものじゃないです」

「そう……」


 それきり、リナリアさんが理由を言及する事はなかった。


「私は、世界を好きになりたいのよ」


 隣を盗み見ると、リナリアさんは遠くを見つめていた。


「人が生きてるって残酷だわ。地球には優しくないし、隣人にすら、優しくないもの」


声音は儚げだった。しっかり聴いていないと虚空に消え入りそうなほどに。


「リナリアさんは、僕にも優しくないという事ですか?」

「……確かに優しくしたつもりは無いけど、厳しく接したつもりも無いといったところね」

「そうですか、少しホッとしますけど」

「本当は皆穏やかで、そして必死に生きている。日常でも終末でも、それは一緒。そう、信じてる」


 僕はひるがえって意気消沈した。いつもと同じように、表せず形にならない事に歯噛みした。


「どう? 秋の空は高いのか、低いのか、分かった?」

「いえ、分かりません」


 純粋な答えも、裏の真意も、何も分からないままの僕はそう答える。冷たい風が吹きつけた。


「じゃあヒント。空人君の好きな答えでいいのよ」

「そうなんですか? 何にも理解していないんですけど」

「答えの理由は知りたいところね。ただ、終末は明日までだから、ゆっくり考えてる時間は無いけれど」

「……はい」


 それから僕たちは、何を話すでもなく、ただ並んで座っていた。じっと何かを待っているかのように。

 遠くから喧騒が聞こえる中、空に浮かんでいる複数の点を眺めた。

 ハトとかカラスだろうか。集団で飛んでいるが、突然風が吹いたかと思うと、群れから小さな点がはぐれた。でもすぐに合流し、ひとつの集まりに戻って何処かに行ってしまった。

 やがて、リナリアさんが立ち上がって言ったのだった。


「今日の暗雲は、終末を感じさせてくれたわ。明日、終わりを迎える前にキミの答えを教えてね。ここで待ってるから」



「おうもっちー、納得のいく絵は描けたか?」

「和弘か。お疲れ」

「おうよ、帰ろうぜ」


 昇降口で偶然会った和弘と一緒に校門をくぐる。


「今日は部活だったの? それともクラス?」


 和弘はクラスメイトで、バレーボール部に所属している。バリバリの運動系だ。今でも指にテーピングを付けていた。


「クラスの方だ。いやー、いい口実になって助かるし、早く焼きそば作りてえよ」


 僕たちのクラスでは文化祭に焼きそば店を開く。当然、今は事前準備中なので、内装の用意なんかを続けている。

 和弘は余程楽しみなのか、両手で手を回転させ、ヘラを動かす仕草をしてのけた。


「それで、連日のサボりの成果は出たのか?」

「……ごめん。文化祭、もう明後日からなのに手伝えてなくて」


 リナリアさんが言うには、明日世界が終わるそうだけど。

 どことなく心がざわつく。

 今日が終わり、明日を迎える。それをどんな心持ちで居ればいいのか、今の僕にはさっぱりだった。


「そっちはどうでもいいさ。それより、描けたのかよ?」

「描けてないよ」

「ひとつもか?」

「そうだよひとつも書いてない。悪いか!」


 言い放ってから、語気が荒くなったことにしまったと思った。


「そりゃ、悪いだろ。描いてみりゃいいさ」


 和弘はあっけらかんとしていた。


「簡単に言うけどさ、それが無理だから悩んでるんであってな」

「それでも形にするしかないだろ? 俺にはサッパリだが、お前なら出来る」


 どんな根拠があってそんな事を口にするのだろうか。


「まだ何も見つかってないよ」

「そんなことないだろ。この数日のありのままでいいだろ」

「……ありのまま、か」


 ふとよぎる屋上。

 終末とおぼしき景色。

 ただ、そこには本当に何も見つからなかったのか?

 いや、そんなことは断じてない。

 僕とリナリアさんが、たった数日だけどそこで邂逅し、言葉を交わした。

 ささやかな終末を過ごした。

 ――空人君の好きな答えでいいのよ。

 今日のリナリアさんの言葉が蘇ってきた。好きにすればいいと、確かにそう言ってくれた。


「そっか、そのまま標せばいいのか。日によって姿を変える空。どうしてか机とかあって、黒髪をなびかせるリナリアさんがいるのを」

「なんだそれ? でも腹は決まったっぽいな。一発かましてやれ」

「かますって何さ……。でも、描いてみるよ」

「その意気だ。それじゃ、クラスの方は気にすんな。がんばれよ優等生」


 背中をバシンと叩かれる。


「そんな大それたもんじゃないよ! じゃあなー」


 僕は、いつもの通学路の交差点で駆けだしたのだった。



 人よりちょっと絵が上手いってだけ。

 それで少しもてはやされただけ。

 たったそれだけの事で天狗にでもなったのだろう。

 昔、我が物顔でクラスの文化祭出し物にスプレーアートと提案した。

 以外にも皆ノリ気で、一丸となって尽力し、どうにか形にしていた。

 発案者の僕を除いて。

 理由は単純だ。僕は、自分の絵を描くのに夢中だったのだ。

 コンテスト間際で、それしか考えられなかった。

 のちに、僕の絵は表彰されて素晴らしいと褒められたが、クラスでは非難の的となった。

 僕は、無責任だった。

 薄情だと責め立てられたのが、未だにわしゃくしゃと転がっていた。

 それからも絵は描いた。

 好きだったから。褒められて嬉しかったから。

 でもどうしても夏の終わりから秋の間は筆が止まってしまうのだ。

 …………けど、進みたい。

 描きたいと望んでいる自分がいる。

 机に向かい、目を閉じる。

 思い出す。

 今日を。

 昨日を。

 一昨日を。

 屋上を。


「よし!」


 強く念じて、軌跡を、描く。

 その晩、机の明かりを頼りに、窓から漏れてくる月明かりを背にして、握った筆を走らせ続けていくのだった。

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