第三章 策謀を張り巡らせるもの 2
肌を突き刺すような寒風が吹き始めている。濃灰の空からは、間もなく雪が降り始めるだろう。秘宝が失われた神殿の前で、息を吐くと真っ白になった。赤鷲の呪術師の通りになったな、と苦い表情でウムトは空を見上げる。彼女との会合は、いよいよ明日に迫っていた。
「ウムト、ここに居たのか」
「――兄さん。何かあったか」
「父さんがお前を探していた。お前が知りたがっていたことを教えてやると。あとで父さんの天幕に行ってみるといい」
「そうか、わざわざ知らせに来てくれてありがとう」
一番目の兄に礼を言って、ウムトは愛馬にまたがり神殿を後にした。父に聞きたいと頼んでいた情報――それは、ここ三十年ほどの間に赤鷲へ嫁いだ女は誰なのか、ということだった。それがわかれば、ユラの素性も少しは分かるかもしれない。ウムトはここまで来てもまだ、ユラが味方なのか敵なのかをはかりかねていた。
一番大きな天幕の前で馬を止め、中に入る許可を求める。布の奥で父が手招きをする。促されるまま天幕の入口をくぐると、難しい顔をした父が座っていた。
「来たか、ウムト。そこに座りなさい」
「失礼します、父上」
ウムトの父のルヴルはそう言って茶をすすったきり、黙り込んだ。灰狼の社会では年少者が年長者より先に発言をするのはあまりよくないとされているので、ウムトは父が口を開くのを辛抱強く待った。そうしてようやくルヴルが重たい口を開いたのは、だいぶ時間がたってからだった。
「お前は最近赤鷲族に灰狼から嫁いだ娘はいたか、と聞いたな」
「はい。あの赤鷲の呪術師が、灰狼と赤鷲の混血だと言っていたので」
「そうか……一番最近灰狼から赤鷲へ嫁いだのは、私の妹だ」
「――父上の、ですか」
「ああ。五番目の妹で、あまり体が強くなくてな。嫁いだ先で子を産んだが、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまったのだ」
すこし昔を懐かしむような表情で、父はそう語ってくれた。赤鷲の前族長と恋に落ちて、どうしても嫁ぎたいとウムトの祖父に頼み込み、赤鷲に嫁いでいったのだという。だがその時すでに赤鷲の前族長には正妻がいたため、ずいぶんと祖父も父も反対したらしい。一夫多妻制をとる赤鷲と違い、灰狼は生涯ひとりの伴侶のみと添い遂げる。先妻がいれば必ず争いも起き、苦しい思いをすると説得をしたが、彼女は全く聞き入れなかったのだと父は苦笑いしながら語った。
「では……ユラはその方の娘の可能性があるのですね」
「いや、それはない。あの子が産んだのは男の子であったらしい。それに、赤鷲族から生まれた子も間もなく息を引き取ったと聞いた。きっと別の娘の子だろう」
「では、他にもまだ赤鷲に嫁いだ方がいるのですか」
「ああ。十八年前にアガのところの娘、十二年前にルヴォのところの娘が嫁いでいるはずだ」
「子は生まれていますか?」
「さあ……そこまでは分からんな。だが、二人ともまだ赤鷲族の集落に住んでいるだろう」
それ以上のことは分からない、と首を振って父は話を終わらせた。これ以上聞き出すのは無理だと悟ったウムトは、父に礼を言って天幕を後にする。その足で向かったのは、先ほど赤鷲に嫁いだと聞いた二つの家の天幕だった。
だがその先でも、ウムトが得たい情報を手に入れることはできなかった。聞けば、どちらの家の娘が産んだ子供も男の子だったという。これでますますユラの正体も目的もわからなくなった。彼女の母は、本当に灰狼から輿入れした娘だったのか。そして、彼女は本当に灰狼や雪豹に味方をするつもりなのか。彼女の身の上を打ち明けられたときは少なからずその境遇に同情をし、信じてみてもいいかとも思った。だがこうやってまた不明瞭な情報が出てきたことで、簡単に彼女を信じるわけにはいかなくなった。
「ユラ……お前はいったい誰なんだ?」
とうとう雪がちらつき始めた曇天を見上げて、ウムトがぽつりとつぶやく。ほんの少し青みがかった彼女の瞳は確かに灰狼の血が入っている証拠である。その部分は疑いようのない事実であるし、他部族から嫁いだ娘の子供が冷遇されるのも本当のことなのだろう。だが、それだけでユラが自部族を裏切り、灰狼や雪豹に手を貸すのはおかしい。何の確証もない考えでありただの勘ではあるが、どうしてもユラが手放しで味方であるとは信じられそうにもなかった。
――ピールルルルル、ピールルルルル
鋭い声にハッと顔を上げると、小型の鷹が空を旋回していた。嫌な動きをする鳥だ、と思う。ユラから赤鷲族のビナイが「鳥の目を使って偵察をすることができる」という風に聞いてから、ウムトは鳥の気配にことさら気を付けるようになっていた。
あのぽやぽやした狩人の少女はなんの警戒もなくユラを信じるそぶりを見せていたが、会合前に「ユラには注意しろ」と伝えてやるくらいはしたほうが良いのかもしれない。ピオは敵対する灰狼の自分より、自分を守ってくれたユラを信じるほうに回る可能性は十分あるが、もしも注意をしないまま何かに巻き込まれることになればそちらのほうが寝覚めが悪い。あまり乗り気ではないもののできることはやっておこうと決心をして、ウムトはもう一度愛馬にまたがった。
目指すは雪豹の里――あの少女に会いに行くために、ウムトは大急ぎで馬を駆ったのだった。
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