第三章 策略を張り巡らせるもの
第三章 策謀を張り巡らせるもの 1
鈍色の曇天から粉雪が舞い散っている。まだ夏に差し掛かろうかというときなのに、太陽の姿は分厚い雲に阻まれて全く見えない。白い息がほどけていくのをそっと眺めながら、雪塔のてっぺんでピオはぼんやり空を見上げていた。
ユラとあってからもうすぐ一週間たつ。明日はいよいよエヴィラの洞窟へ出向き、族長二人とユラが会合を行う日だった。
こうやって会合が間近に迫ってもなお、ピオはまだ秘宝を盗んだのがビナイであるという事実を受け入れられないでいた。今もなお深い失望と悲しみ、そして胸を焦がす喪失感が胸を満たしている。
薄々気づいてはいた。自分はビナイに恋をしていたのだ、と。雪豹の者たちが感じている「裏切られたことによる怒り」よりも、その恋を知った瞬間に失われたことへの「悲しみ」の方が、ピオの中では大きかった。
「──外にいたら冷えるわよ」
「……姉さん」
「ビナイさんのことは……残念だったわね」
ためらいがちにかけられた声に、はじかれるようにピオは顔を上げた。本当ならその言葉は、ピオがルイーシャにかけるべき言葉である。それなのに、どうして彼女はそんな風に言うのだろう。怪訝な表情で見上げると、ルイーシャは優しくピオの頭をなでて微笑んだ。
「ビナイさんのことが好きだったのでしょう?」
「どうしてそれを……」
「見ていればわかるわ。私にそっけない態度をとっていたのも嫉妬していたのよね」
頭をなでる姉の手を振り払い、そんなことないと言い返そうとしたピオの瞳をルイーシャがじっと見返す。何もかも見透かされそうな彼女の青い目が、ピオは昔から苦手だった。自分は全く彼女に胸の内を話したことはないのに、いつだってルイーシャはピオの考えていることをやすやすと言い当ててしまうのだ。
「どうして私がビナイさんに嫁ぐことになっていたのか、知ってる?」
「……知らない」
「アーティカさまはね、ビナイさんが何か雪豹族に対して仕掛けてくるのではないかと思って、私を間諜として赤鷲族に嫁がせるつもりだったの」
「間諜って……そんな」
「赤鷲の出迎えに私が必ず参加していたのは、そういう理由があったのよ。私はあなたみたいな優秀な狩人ではないけれど、代わりに頭と体を使って雪豹族の役に立つつもりだったわ」
ルイーシャが微笑みを絶やすことなく淡々と言葉を継いでいくのを、ピオは愕然とした表情で見つめていた。姉がそんな密命を帯びていたなんて全く知らなかった。
正直なところ、ピオは姉のことを「武器を手に取ることができない軟弱者」とどこか侮っていたし、自分のほうが雪豹族の役に立っているという自負もあった。だが、こうやって話を聞くと武器を手に取ることだけが雪豹族に利益をもたらすことではないし、別の形で自部族を支える者もいるのだということを初めて知った。きっと、ルイーシャだけではない。三年前に白鹿族に嫁いだアルマや、一年前に黄鳥族に嫁いだフィルもそうだったのだろう。ピオがただ知らなかっただけで、そうやって一族のために他部族に嫁いだもの達は案外多いのかもしれなかった。
「姉さんは、嫌じゃなかったのか?」
「あなたは狩人であることを嫌だと思う? 思わないでしょう? それと同じよ。私の役割は、他の部族の情報をアーティカさまに伝えることだから」
「でも、体を使ってって……」
「別に苦痛なことじゃないわ。痛いことをされるわけでもないし。戦うことよりよっぽど楽よ」
そういうルイーシャは無理をして言っている様子は全くなく、本当にそう思っているようだった。そっち方面には疎いピオには全く分からなかったが、彼女にとってそれは狩人が弓の腕を磨いて獲物をとってくるのとあまり変わらない感覚なのだろう。
「アーティカさまと私はもともと赤鷲を疑っていたから、あなたから秘宝を盗んだ真犯人の話を聞いても驚かなかったわ。私が渡した匂い袋、まだ持っている?」
「持ってるけど……それがどうしたんだ」
「それはね、赤鷲族だけが使える『麻安香』を無効化できるよう、私が配合したものなの。仲良くなった赤鷲の呪術師の子に、麻安香を作るのにどんな使っているかを聞きだして作ったのよ」
「そんなことができるのか」
「ええ。赤鷲の使う香は全部研究したわ。私に何かあった時のために、ちゃんと書きつけもアーティカさまへ渡しているのよ」
初めて知る姉の特技に、ピオはただただ驚くばかりだった。いったい、今まで自分は姉の何を見てきたのだろう。彼女と会話をするのを避け、勝手に嫉妬していた自分が恥ずかしい。もう少しきちんと姉と向き合っていればよかったと今更ながらに後悔するとともに、いったいどれだけ自分が子供っぽい態度をとってきたのかを思い知らされた。
「少しは私のこと見直した?」
「今まで誤解をしていてごめん。姉さんは姉さんのやり方で、雪豹のために戦っていたんだな」
「ふふ、ようやくちゃんと私のことを見てくれたのね、ピオ。恋をしていた男のことなんか、忘れてしまいなさい。今は私が傍にいてあげるから」
いい子ね、と頭をもう一度撫でられて、ピオはそっと目を細める。温かい手に優しく慰められるのはとても心地が良い。今度はその手を振り払うことなく、ピオは静かにほたほたと涙を落とした。胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛い。涙をこぼすたび、その痛みが少しずつ軽くなっていくような気がした。
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