第一章 紅風を呼び起こすもの 5

 里の外に出たピオは、わずかに地面に残された狼の足跡をたどって山の中を進んでいた。ところどころ足跡が途切れている部分もあったが、相棒のカルが臭いをたどってくれるおかげで何とか痕跡を見失わずに追跡ができている。ぱたぱたと散るように残された足跡は、灰狼族の者たちが冬営地につかう土地へと向かっていた。


「やはり、狼どもが関わっているのか……」


 秘宝が盗まれる数日前、灰狼族の者たちを冬営地で見かけたと里守たちが言っていた。そして赤鷲族が去ったのち、何者かが神殿に侵入して秘宝を盗んだ。その実行犯は灰狼の者たちであると言われたら、筋書きは綺麗につながる。だが、何かがどうしても引っかかる。うまく言語化できないもどかしさを抱えながら、ピオは丁寧に己の思考をたどって齟齬を見つけようとする。そんな時だった。

 ――がさり、とかすかな音を耳がとらえた。カルが唸り声をあげ、身を低くする。ピオも腰の短剣をさっと抜き、音のしたほうへ振り向いて構えた。なんのことはない、低木が生い茂る森の中。息をひそめて様子を伺うと、獣の息遣いが聞こえた。


「何者だ!」


 素早く弓矢をつがえ、先制攻撃を仕掛ける。ひょう、と矢が空気を切り裂く音ともに飛び出してきたのは、一匹の狼だった。少し青みがかった灰色の獣は、灰狼の者たちが飼い馴らす狼だ。ピオが射掛けた矢をひらりとかわし、威嚇するように牙をむく。


(……どこかに、飼い主がいるはずだ)


 狼はカルに任せて、あたりの気配を探る。灰狼の者たちは雪豹と違い、女が戦うことはまずない。屈強な男が身を潜めるならば木の影だろう。そう見当をつけて、狼が潜んでいた周辺の気に手当たり次第矢を射掛ける。反応があったのは、三本目の矢を放った時だった。

 ざっ、と剣を薙ぎ払う音がして、射掛けた矢が真っ二つになった。木の向こうから現れたのは、蒼い長髪を無造作に束ね、灰色の目を獣のように鋭く光らせる大柄な男だ。羊毛で編んだ生地に細かい刺繍が施された衣――それは灰狼の女たちが戦士の武勲と無事を祈って一針一針丁寧に刺すものであるということを、ピオはよく知っていた。


「冬でもないのに狼がこんなところで何をしている」

「そっちこそ、俺たちの土地をうろつくなんて何の真似だ」


 互いに武器を構えてにらみ合う。少しでも相手が動けば応戦できるように息を整え、じりじりと間合いをはかる。男は武人特有の気配をまとっており、かなりの手練れのようだった。向こうは長剣、対するピオは短剣である。明らかにピオのほうが不利だったが、運のよいことに男はむやみやたらに攻撃してくる気はないようだった。


「お前たちの土地をうろついていることなら詫びよう。ただし、お前たちが雪豹の神殿から奪い取ったものを返せば、な」

「我らがお前たちから奪い取っただと? はっ、笑わせる。奪い取ったのはお前たちのほうだろう。なぜ我らの秘宝を奪った!」


 怒気をはらんだ声で男が叫んだ。何のことだ、とピオは戸惑った顔で言葉を失う。秘宝を奪われたのは雪豹側である。それなのに、この男はさっき「我らの秘宝を奪った」と言ったのだ。何かが食い違っている――そう頭の隅で思いつつもうまく説明ができず、ピオは男の言葉を否定することしかできなかった。


「お前たちの秘宝など、私たちは指一本触れてはいない! お前たちこそ、私たちの秘宝を奪っただろう。いったい、どういう真似だ!!」

「言うに事欠いてそんな嘘をつくのか。いつ何時なんどき我らがお前たちの秘宝に触れたと? 証拠はあるのか?!」

「ある! 私たちの神殿に狼の足跡が残っていた。狼を従わせられるのはお前たち灰狼族だけだろう!」

「そういうことならば、我らにも証拠はある。秘宝を祀る場所に、雪豹の臭いと足跡が残っていた! 雪豹を相棒とするお前たちが秘宝を奪い取った、決定的な証拠だ!!」


 両者とも譲らない言い争いは、もはや一触即発の状態だった。まさかこんな形で戦うことになると思っていなかったので、飛び道具以外の武器を持ってこなかったことを悔やむ。ピオは生粋の狩人であり、対人戦を得意としていない。なんとかこの戦いは回避したい。そんなピオの思いとは裏腹に、対峙する男はじりじりと間合いを詰めてきていた。


「奪った秘宝の場所をはけ。さもなくば――お前の首級で開戦の狼煙をあげてやる」

「ま……まて! 私たちはお前たちの秘宝など、本当に知らないんだ……!」

「嘘をつくな!! 証拠は揃っているんだっ、つべこべ言わずにさっさと在りかを吐け!!」


 一気に間合いを縮めた男はピオの鼻先で剣を薙ぐ。慌てて後ろにとんで攻撃を避けたが、これ以上の説得は無駄と悟った。なんとか状況を打破しなければと必死で考えるが、激昂した男の攻撃は避けるのがやっとで、到底何かできるような状況ではない。一歩間違えれば首を落とされかねないような攻撃を、紙一重の所でかわしていく。相棒のカルも狼の相手に手間取っており、救援を頼むのは難しそうだった。


「ちょこまかと逃げ回るなど小癪な……正々堂々勝負しろ!」

「馬鹿を言うなっ! まともに戦える武器を持っていない相手に長剣を振り回しておいて、何が正々堂々の勝負だ、卑怯だろ!」

「そうか、ならば準備不足の己を呪え! これで……終わりだっ!!」


 ほんの一瞬の隙を突かれ、退路を断たれる。木の傍まで追い詰められたピオは振りかぶられる剣を見つめて、ああここで死ぬのだと悟った。

 ――その時だった。

 ぎぃん、と鈍く剣を受け止める音が響く。来るべき衝撃が来ず、恐る恐る目を開けたピオの目に映ったのは、フードを目深にかぶった人物の後ろ姿だった。


「血気の多い狼さん。人の話を聞かず、剣を振り回してはいけないわよ」


 落ち着いた女性の声が響く。ピオとそう変わらない華奢な体つきなのに、槍の柄で男の剣を正面から受け止めた女に、男も驚いたようだった。何の真似だ赤鷲、と一歩引いた男が低く唸ったのを聞いて、ピオはようやく目の前の女が赤鷲族なのだということに気づいた。


「怪我はない? 雪豹のお嬢さん」

「あ、ああ……助けてくれて、ありがとう。赤鷲の呪術師」

「あら、私が呪術師だとよく分かったわね」

「君は、雪豹の里を訪ねた隊商にいただろう。隊列の、一番後ろ。今年初めて隊商に加わった新顔だ」


 差し出された手を借りて立ち上がったピオがそう言うと、女は少し目を丸くした。フードのまわりに縫いこまれた、無数の細い金の装飾がしゃらしゃらと揺れる。灰色とも金色ともつかぬ瞳がフードの奥でやわりと細められた。雪豹の族長候補は伊達じゃないわね、と女は目にかかる美しい赤い髪をかき上げながら微笑んだ。


「血気盛んな狼さんと、鼻の利く雪豹さん。二人とも、何か事情がありそうね。とりあえず――そうね、少し行った先に洞窟があるわ。そこで雨宿りをしがてら、お話をしない?」


 女の言葉に、男もピオもはじかれたように空を仰ぎ見る。いつの間にか蒼天は分厚い雲に覆われ、遠くから雷の音が響き始めていた。

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