第一章 紅風を呼び起こすもの 4
赤鷲の隊商が雪豹の里を去って三日後のこと。一人の神殿守がもたらした情報によって里は騒然となっていた。
「灰狼の奴らが雪豹の秘宝を持ち去っただと?!」
「――はい。灰狼の奴らは不思議な秘術を使い、我らを眠らせ秘宝を持ち去りました」
「なぜ灰狼の奴らだとわかる?」
「狼の足跡と人の足跡の両方が残っていました。灰狼族しかあり得ません」
神殿守から報告を受けたアーティカはひとつ大きくため息をついた。雪豹族の優れた戦士が雪豹を相棒とするのと同じように、灰狼族の戦士は狼を従えることができる。人と狼、二種類の足跡が残っていた、というのが何よりの証拠になる得るのだ。狼どもに制裁を、と色めき立つ戦士たちを一蹴して、アーティカは落ち着いた声で話し始めた。
「――雪豹の宝"
彼女が語る神話は、雪豹族であれば皆当然知っている話だった。雪をとかす力を秘めた雪華の加護を受け、雪豹の里は雪と氷に閉ざされた幽谷の間で生活することができている。今、季節が穏やかな夏の間はまだ良い。だがあと二ヶ月もすれば山脈には木枯らしが吹く。雪華がないまま冬を迎えれば、里もろとも雪に閉ざされてしまう。そうならないためにも、一刻も早く雪華を取り戻さなければならなかった。
「ルゥルゥは神殿の捜査を。ファティマは灰狼へ使者を立てなさい。ピオ――あなたは三人の中で一番目と鼻が良い。山中を捜索して、雪華の行方を追ってちょうだい」
御意、と指名された三人が即座に跪いて頭を垂れる。「雪豹の牙と爪に誓って必ず雪華を取り戻しましょう」――そう口を揃え、三人はそれぞれ矢継ぎ早に部屋を飛び出していった。
「カル、まずは神殿へ向かうぞ」
傍の相棒にそう声をかけると、カルは一声吠えて返事をした。ピオは手早く皮で出来た胸当てと小手をつけ、矢筒と弓を背負う。保存食と水をいれた背嚢をもち、短剣を腰にさせば身支度は完成だ。追跡は数日にわたる可能性もある。そうなったときに備えて入念に持ち物を確認してから、雪塔内で自室として与えられている部屋を出た。
「――待って、ピオ」
「ルイーシャ姉さん……」
部屋を出たピオを呼び止めたルイーシャは、小さな布袋を手渡した。受け取ってくんくんと匂いをかいだピオは、清涼な匂いを放つ袋に首をかしげる。いったいこんなものを渡してどうしようというのだろう。
「敵は不思議な術を使うのでしょう。もし、頭がぼうっとなるような甘い匂いがしてきたら、これを嗅ぐのよ。そうしたら、頭がスッキリするから」
「中身はなんだ」
「
「……必要になるかどうかはわからないけど、一応受け取っておく」
よく知る三つの薬草の名を挙げられて、突き返そうとしていた手を止める。その言葉を信じるならば、害になるものでは無さそうだった。そんなものいらないのに、という言葉をぐっと飲み込んで、ピオは布袋を懐にしまう。相手がどんなことを仕掛けてくるのかはわからない以上、手札は一枚でも多い方が良いだろうと判断したのだ。気をつけてね、と心配そうに見送る姉に別れを告げて、ピオはカルと共に神殿へと向かったのだった。
雪華をまつる神殿は、急峻な山あいにある雪豹の里からは少し離れた場所にある。雪華の力を発揮させるには太陽の光をたくさん必要とするらしく、日当たりの良い、ひらけた斜面の真ん中に神殿は作られていた。何よりその場所は、灰狼族の冬営地からそう遠くない場所に位置していた。
ルゥルゥと共に踏み込んだ神殿は沈鬱な空気で満たされていた。ここに詰めていた戦士たちはまだ年若いものや、一線を引いたものが多いが、それでも十分に戦う力を備えたものたちばかりである。それがどうしてあっさりと秘宝を奪われてしまうことになったのか、まずそれを知る必要があった。
「中を荒らされた形跡は無いな。残っているのは狼どもの足跡と……なんだ、この甘ったるい臭いは。鼻が曲がりそうだ」
「ピオ、それが奴らの秘術よ。この臭いで鼻を利かなくさせて、さらには体の自由も奪われたわ」
「相手に触れることなく意識を刈り取る術か……」
ピオは悲痛な表情を浮かべるフィフィの言葉を聞いて黙り込んだ。状況証拠としては、灰狼の者たちに秘宝を奪われたと考えるのが普通である。だが、どこか引っ掛かるところがあった。そもそも停戦中にあえて波風をたて、わざわざ危険を冒してまで秘宝を盗み出しにくるほどの理由は何なのか。それがさっぱりわからなかった。
そして何より、彼らは己の腕と武器で正々堂々と一騎討ちをすることを至上とする部族である。こんな騙し討ちのような卑怯な手を使うことは考えにくい。万が一実行犯が彼らだったとしても、どこかに秘術を授けた協力者がいるのではないか。そう推論を立てたピオは、ルゥルゥに神殿の操作を任せ、狼の痕跡をたどって里の外へと出ていったのだった。
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