第一章 紅風を呼び起こすもの
第一章 紅風を呼び起こすもの 1
夏は、一番緑が深くなる時期である。
森の中にホーウ、ホーウと獣を呼ばう声が響く。その声に引き寄せられるように大型の鳥が一羽、木々の間の地面に舞い降りた。
その獲物に狙いを定めるように、木の上に息をひそめて弓をつがえる少女がいた。ふわふわとした雪のように白い髪は狩りの邪魔にならないように肩の上で切りそろえられ、獣のなめし皮で作られた柔らかな衣からは鍛え抜かれた手足がすらりとのびている。まだ年若い狩人だった。
彼女が発する、獲物をおびき寄せる時に使われる獣声は
森に静寂が落ちる。鳥が何気なく顔を上げた瞬間、ひょうと空気を切り裂く音とともに矢は放たれた。寸分たがわず射貫かれた鳥が断末魔と共に地に倒れたのを確認してから、狩人の少女はふわりと地面に飛び降りた。
「カル! どうだ、なかなかいい獲物だっただろ」
ふふ、と嬉しそうに笑う少女の傍にさっと駆け寄ったのは一匹の雪豹だった。なめし皮の小手に鼻づらをすりよせた雪豹は、体長と同じくらいの尻尾をゆらゆらと振ってその言葉に応えた。
手早く血抜きをし、背嚢に鳥を入れた少女は短く警戒音を発した雪豹に気づいて顔を上げた。そのまま走り出した獣に負けない速さで山中を駆けていき、見晴らしの良い崖へと登る。はるか下に見える山道を歩いていく集団を見つけて、少女の表情が一気に明るくなった。
「
その中に美しい黒馬に乗った男を見つけて、少女の頬がほんのりと赤く染まる。ビナイさん、と弾む声で少女が名を呼んだのは赤鷲族の若き族長だった。その声は風に乗って下を歩く集団にも届いたらしく、呼ばれた男は崖を見上げて微笑む。ひらりと振られた手に、少女は頬を朱に染めて手を振り返した。
集団を見送ってからぱっと身をひるがえした少女は、谷間の集落を目指して走り出した。赤鷲族の隊商が到着することをはやく皆に知らせなければ。その使命を胸に抱いて、雪豹と共に少女は木々の間を駆けていったのだった。
急峻な山々が連なるフィヨロ山脈は、山越えの過酷さゆえに旅人すらほとんど寄り付かない場所である。山中に点在するいくつかの部族だけが凍てつく冬を乗り切る術を知っている。その中でも最大の部族が雪豹族であった。
切り立った崖と崖の間にできた谷間で息をひそめるように暮らす雪豹族の集落を見つけるのは容易なことではない。他部族と交流を嫌い、山に溶け込むようにして生活をする彼らは優秀な狩人であるが、その牙は時として人間にも向けられる。ひとたび縄張りを犯せば生きて帰れる者はいない、とまで言われるほどに好戦的な戦士たちが多かった。
雪豹を始祖として崇める彼らの最大の特徴は、女が狩りを行い男が家を守るという生活形態である。獣のごとくしなやかで強靭な肉体を持つ女たちは男たちに家を任せて山中を駆け、獲物を捕らえて持ち帰る。苛烈で好戦的な気質の女たちに比べて雪豹族の男たちは穏やかで争いを好まぬ者が多いが、それでもみな一通りの武芸は仕込まれたもの達ばかりだ。
昔、女たちの留守中を狙って雪豹族の里を攻めた部族がいたが、家を守る男たちにあっという間に返り討ちに遭ったという。そんな逸話があるくらいに、雪豹族は男女ともに武芸に秀でた戦士の部族だった。
谷間の入口に立つ門番へ赤鷲族の隊商のことを話してから、少女は集落の中へと入っていった。ピオさま、と親しげに呼び掛けてくる女たちへと挨拶を交わしながら、少女は集落の一番奥の岩山を掘った建物を目指して歩いていく。真っ白な岩山の色から雪塔と呼ばれるその建物は集落全体を見渡すことができ、雪豹族を束ねる女族長が住まう場所だった。
部屋の入り口の同胞に挨拶をしてから、部屋の中へと入る。武器の手入れをしていたらしいアーティカは、ピオが来るとすぐに顔を上げた。彼女は雪豹族一の狩人で、特に獲物を仕留める時の腕は歴代族長の中でも随一だと言われている。磨き抜かれた短槍を脇に置き、美しい白銀の瞳でひたとピオを見据えたアーティカは短く要件を問うた。
「いらっしゃい。何かあった?」
「赤鷲族の族長率いる隊商が間もなくこちらへ到着します。つい半刻ほど前、ルィードの関所を越えたところを見かけました」
ピオの言葉を聞いたアーティカは切れ長の瞳を細めて、今年は早かったわねと呟いた。他部族を寄せ付けない雪豹族が唯一里に足を踏み入れることを許す部族――それが赤鷲族である。彼らは遥か西と東の地よりフィヨロ山脈の部族たちに物資を運び、かわりに布や毛皮などを買い付ける役目を負っている。雪豹族も例に漏れず毛皮や鳥の羽毛、冬の間に作った革製品を彼らへ渡し、かわりに食料や調味料を得ていた。
「ピオ、あなたはルゥルゥとファティマを連れて、出迎えに行きなさい。ジィナは宴の準備を。アイシャは寝所の準備をお願いするわね」
傍に控える女たちがアーティカの采配を受けて部屋を出ていく。長を務めるアーティカの命は絶対である。ピオも彼女の言葉に一礼してその場を辞するために立ち上がったが、後ろから呼び止める声が聞こえた。何気なく振り返った先に立っていたのは、ピオの姉のルイーシャだった。
「アーティカさま、私にもビナイさまたちのお出迎えをさせていただけませんか」
「ルイーシャ……そうね、あなたはいずれビナイさまに嫁ぐ身だもの。ピオと一緒に行って、ビナイさまのお世話をしていらっしゃい」
「ありがとうございます……!」
アーティカに頭を下げてふわりと微笑んだルイーシャは、嬉しそうにピオの腕に手を絡ませた。長く伸ばした髪がさらりと腕をくすぐる。柔らかな二の腕の感触の感触にどぎまぎしながらピオはその手を振り解いた。ふわ、とただよう甘い香水が鼻をつく。この匂いが昔から大嫌いだった。
「一人で歩けるだろ」
「そんな無碍にしなくてもいいじゃない、ね?」
「ずっと里にいるルイーシャ姉さんと違って、私は忙しいんだ。馴れ合いは断る」
しつこく腕にまとわりつく姉を一刀両断し、鼻を鳴らして早歩きで歩く。生まれつき体が弱く戦士になれなかった姉は、何もかもが雪豹族の女らしくなかった。長い髪も、ふっくらとした体つきも、甘えるような仕草も、反吐が出るような甘い香りも――全部、戦士であるピオにはないものである。だが雪豹族以外の男は皆、そういう女を好むのだという。だからあの子を赤鷲族へ嫁がせるのよ、とアーティカは言っていた。
後ろを小走りでついてくる姉を無視して、ピオは雪塔の外へと向かった。途中で今日の獲物を厨房の男たちに渡してから、相棒の雪豹カルに呼びに行かせたルゥルゥとファティマと合流する。ピオに従順なこの獣は、里の中でも勇猛果敢で武芸に優れた戦士であると認められた女にのみ与えられる特別な相棒だ。三年前、史上最年少の十五歳で雪豹を賜り、次代の族長候補と目されるピオは里のなかでも一目置かれる戦士だった。
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