第3章-2
翌朝、僕と輝耶が登校した時には、すでに事件は起こっていた。いや……事件というには大げさかもしれない。でも、それは、僕にとっては充分な事件だ。
僕の席の後ろ。七津守雷の席に、白い絵の具で書き殴りの文字。『死ね』『オカマ』『キモイ』。およそ考えうる限りの罵詈雑言が書かれていた。雷の席は、ちょうど教室の中心辺り。そのせいで、まるで取り囲む様にしてクラスメイト達は教室の周囲から見ていた。
自分の席の前でうなだれる雷の姿を。
いつか、こうなるんじゃないかと、どこかで心配していた。それを防ぐ様にした覚えはない。いつだって当たり前の様に雷は女らしくて、美人であって、可愛らしくて、自分が本当は男だって事を、隠さず、そして苦にせずに生きていた。だからこそ、僕は普通に彼女に接し、ときどき彼を冗談ぽく茶化し、ときどきお姫様扱いした。
それでも、やっぱり、こういう事が起こってしまった。
イジメだ。
どうする?
どうすればいい?
何と声をかければいい?
どうやって雷を助ければいい?
教室内はシンと静まり返り、まるで外の世界と隔離されたかの様に感じる。教室の外には平和があるのに、こちら側は不安でいっぱいの恐怖に支配されているかの様な錯覚。廊下を行く他のクラスの生徒には、この教室がまるで見えていないのか。誰も彼も腫れ物に触らない様にと静かになって立ち去っていった。新しく登校したクラスメイトも、教室に入った瞬間に察する様に口を閉じる。
みんな、いつか起こると分かっていたんだ。そうじゃなければ、誰かが動くだろう。誰かが誰かに聞くはずだ。『なにがあったんだ?』この一言すら発する事なく、みんな理解していく。
そして、誰も動けない。
僕も、動けなかった。
足が震える。声が出ない。手も痺れてくる。ここでの僕の行動次第で、全部決まってしまう。なにが? 色んな事が。その後まで響いてくる。ここで、僕がどうするかによって、雷の運命が決まる。同時に僕の運命も。下手をすれば、他にも人を巻き込む。
僕が一歩踏み出すだけで、色んな人間を巻き込んで人生を変えてしまう。その重みを想像して、僕の足は震え、声が出なかった。
何が品行方正だ。
父さんに言われた通りだ。
本質が品行方正から懸け離れた人間だからこそ、品行方正であろうと努力しろ。
自分が改めてクズの様な人間だったのを自覚し、呼吸に喘いでいる隣で……彼女は覚悟を決めた。
それは、やっぱりお姫様らしく、気高く……凜とした姿だった。僕の幼馴染で、僕が守らなければならない少女。
堕ちた皇族である輝耶は、威風堂々と雷の元に歩み寄った。まるで恐れもしない様に。それが当たり前かの様に。それが雷を救う行為である様に。それが唯一の答えである様に。
「あずま、大丈夫?」
教室に輝耶の声だけが響く。外から色々な喧騒が聞こえてくるけど、まるで遮断されている様に聞こえない。ただ、みんな輝耶の言葉だけが全てだった。
「…………」
雷は応えない。ただ顔を伏せ続けるだけで反応を示さない。僕は鞄を床に置いた。震える手で持っているのが限界だった。
「あずま、とりあえず座ろ――」
輝耶の言葉が止まる。椅子を見た瞬間に言葉に詰まったらしい。たぶん、椅子にも何かやられているんだろう。輝耶が拳を作ったのが見て取れた。
犯人。そう、犯人だ。誰だ、誰がやった?
確信を持って言えるのは男子の犯行ではない。男子の中で雷の人気が高いのは周知の事実だ。今更、反旗を翻すとは思えない。そりゃ、アンチ雷派も居たけれど、それは最早アイドル的な扱いだからだ。直接、雷に手を出すなんて思えない。
女子だ。女子の仕業だ。僕はそう決め付けた。じゃぁ、女子の誰だ? 雷に恨みがある様な奴なんか居たか? クラスメイトか? それとも別のクラスの奴か。分からない。分からない。誰だ、誰がやった?
自然と視線を教室の隅から雷達を見ているクラスメイト達に移した。男子は除外する。女子の表情を伺っていく。皆、一様に困惑した表情を浮かべていた。当たり前だ。僕だって、同じ表情だろう。
だからこそ、見逃さなかった。
たった一人、ほくそ笑む女子が一瞬だけ居た事を。
見つけた。犯人を見つけた! あいつだ、あいつが雷の机を、イジメの発端になる様な事件を起こした張本人を!
「おまえかー!」
その声は、僕じゃなかった。怒りに満ちた、そんな吼える様な声を張り上げたのは輝耶だった。僕と同じ答えに行き着き、僕と同じ様に人を観察し、そして僕より早く行動に移した。
猪突猛進?
とんでもない。彼女こそ、正義の味方だ。
輝耶が走り、窓際に居た女子生徒に詰め寄る。たぶん一瞬の気の緩みで、笑みを浮かべてしまったんだろう。その女子生徒は驚いた様な表情の後、怒りの形相を見せた。
棚中真御子(たななかまおこ)。特にこれといって特徴の無い、クラスでも普通に友人と過ごしている女子だ。何度か話した事はあるが、性格に問題あり等の印象は持っていない。ただ、知っている。彼女の部活は、文芸部。あの扇形先輩と同じ部に所属していた。
つまり……そういう事か。
「なんでよ! 私、なんにもしてないわ!」
「じゃぁなんでさっき笑った!」
輝耶の言葉に、教室にどよめきが起こる。犯人を知っていた者も、知らなかった者も。
「証拠あるの? 私が笑ったって証拠!」
「そんなものいらん! 私が聞きたいのは何で雷にこんな事をしたかよ!」
「私じゃないって言ってるでしょ!」
「おまえ以外に誰が居るっていうんだ!」
輝耶がクラスメイト達を指差した。
「誰だ! じゃぁ誰が犯人か教えろ!」
有無を言わさない勢いに、棚中が押される。それは、やっぱり一般人ではない証明だ。まるで王者の様な風格に、目を奪われる。他者を糾弾するその姿に、僕はカタルシスを感じた。
いいぞ、輝耶。もっと攻めろ。そいつだ。間違いはない。そいつが犯人だ。僕達の友人を悲しませた張本人がそいつだ!
「し、知らないわよ!」
「嘘を言うな! おまえが犯人だろう! あやまれ! 今なら許す!」
「な、なによ! 何なのよあんた! 関係ないでしょ、なんであんたがシャシャり出てくるのよ!」
「関係なくあるか! この世の全ては私に関係している! あずまは私の友人だ! それを無関係と言えるほど、私は愚かに出来ていない!」
「うるさいわね! なにがお姫様よ! 調子に乗ってるんじゃないわよ!」
棚中が言ったお姫様は、果たして輝耶に向けたのか、それとも雷に向けたのか。意図は分からないけれど、棚中の暴言が続く。
「金持ちだからって、余裕で生きやがって! あんたなんかに他人の気持ちなんか分かる訳ないでしょ! 苗字も無いくせに偉そうに!」
「なに私の文句言ってんのよ……今は関係ないだろ! あずまに謝れって言ってるの!」
「うるさいって言ってんの! あんたは関係ないって言ってるでしょ!」
「あずまは私の友人と言っているのが分からんのか、この無能が!」
その一言に、棚中がキレた。右手が引かれ、手を開き、ビンタの形をとる。瞬間的な激昂が自動的に棚中を動かしたのだろう。それに対して、輝耶は冷静だった。いや、冷静すぎた。
右頬に向かってきた手を左腕で受け止めた。影守流の基本の受けであり、そこから攻撃へと転じる初手動作。次いで、右手の拳を作り、左脇へと力を溜める。そして、刀を振り抜くが如く、棚中のがら空きになった右脇腹に裏拳を叩き込んだ。
くの字に折れる棚中の後ろ襟を掴み、膝裏を蹴る。ガクリと倒れる棚中の襟を輝耶は手放した。そのまま床に受身も取らず、棚中はうつ伏せに倒れる。
「――!」
悲鳴をあげる暇もなかった。教室内で、誰も声をあげる事が出来なかった。
だけど、黙って見過ごす訳にはいかない。
僕は走り出した。近くに寄っていれば良かった。僕が出ていれば良かった。そんな思いが脳裏をよぎるが、一瞬にして空っぽにする。
何も考えない、何も感じない、何も意識しない世界で、僕は走る。
輝耶が足をあげる。踏み下ろすは棚中の延髄。そこを思い切り踏みおろせば、どうなるかは一目瞭然だ。なにより、この一連の動作はそういう技なのだから。
輝耶の膝が直角になったところでピタリと止まる。あとはそれを、下ろすだけ。だが、その前に――、僕の足が輝耶に届いた。
技もへったくれもない、ただただ全力ダッシュした後の蹴り。それでも、輝耶の身体は吹っ飛び、クラスメイトの机や椅子を巻き込んで倒れた。
静寂が満ちる。教室ないが重く深と静まり返り、そして悲鳴が響いた。女子の誰かがあげた声が引き金となって、皆の金縛りが解けた。
僕は……息が上手く出来なくなっていた。手が震える。呼吸が上手く出来ない。それなのに、ぜぇぜぇとまるでマラソンを走った後の様に乱れている。
輝耶は意識を失っていた。額から血が流れている。棚中は脇腹を抑えてうずくまっていた。まるで大惨事だ。教室内で女子二人が暴力によって立てなくなっている状況。その一旦を僕が担ってしまった。騒がしくなる教室内。もう、誰が何を言ってどうなって何をしているのかも分からない。ただ、グルグルと現実がまわってくる。
そして僕は、汗を滝の様に流し、
無様にも嘔吐してしまった。
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