第19話 わがまま侯子のいとも奇妙なる数日間・1

(第一日目・1)


 もう朝か。


 刻を告げる鶏の声に、もう少しだけ夢の世界に遊んでいたかったレオはもぞもぞと寝返りを打った。

 それでなくとも、きのうは散々だったのだ。

 修練場では老いぼれ狼にものの数秒で沈められ、次いでエクセターのかぼちゃ頭には体術で新たな黒星を飾った。今日こそ砂地に這いつくばらせてやるからなと挑みかかったものの、勢いを逆手に取られて投げ飛ばされ、初夏の青空を見上げることになった。

「話にならん」

 短く告げ背を向けた騎士へ、もう一度勝負しろとやかましく騒ぎたてる少年に、<運命フォルトゥナ>はとことん試練を科すつもりであったらしい。

「あーら、活きがいいこと」

 と、厨房の大掃除に要る人手を探しにやってきたレネに襟首をつかまれ、引きずられていくはめになったからだ。

 そんなものは召使いのする仕事だろうと抗議したところ、返ってきたのはしもじもの苦労も知ることねというにべもないことばと、皿磨き追加という血も涙もない制裁ときたものだ。

 かくして料理長の号令一下、人間も小鬼も容赦なくこき使われる厨房の片隅で、王の裔が皿磨きなんてと布きれを片手に悲哀を噛みしめるレオを、かのアルトリウスも幼きころは下働きに身をやつしておったそうじゃのと、芋の皮むきに参加させられたガスバール老がなだめるように笑っていたものだ。

 おまけにだ。

 さんざんこき使われたあげくにようやくレネから解放され、身を清めて一息つく間もなく今度は広間へと呼び出された。

「デュフレーヌ侯子、ベランジェール伯ならびにブルグンド伯、アベロン伯にあらせられるレオさまの御前へ参上つかまつりましてございます」

 東の砦では、公式行事のほかに聞くことすらない仰々しい口上を述べる貴族の使者たちに、続けよと命じてみれば何のことはない、

「我が姫君におかれましては、かねてよりレオさまにお目もじかなわぬものかと心よりお望みであらせられましたが、たっとき乙女の身でかようなことを口にするはおはしたなきことと思し召され」

 これまた長々しい口上とともに、綾や錦の包みを解いて現れたのは、それぞれに美々しい装いをこらした姫君たちの肖像だ。

 トランカヴェル侯家にフォワ伯家、はては大公家に近いはずのモンマス伯家まで、どの使者たちも口々に「我が姫君」の美しさやしとやかさや慎ましさを喧伝してくる。城主代行たる奥方がやんわりと制止してくれなかったら、彼らの勢いに押されて椅子ごと後ろにひっくり返っていたかもしれない。

 大公家と父祖を同じくする権門の跡取りともなれば、揺りかごに眠る赤子のころからそのようなはなしも次々と現れては消えるもの。とねりこ館で祖父母のもとにあったときですら、いずこの姫が、さる家のご姉妹がと、様々な噂とそれに絡む人々の思惑がレオの周囲にちらついていたものだ。

 だが、あといくばくもしないうちに成人を迎えるとはいえ、十五の歳で未来の花嫁など決められようはずもない。だいいち、お互いに顔どころか名前すら知らない姫君たちが、どうして向こうから会いたいなどと望んだりするものか!

 奥方の助け船によって、使者たちに言質を与えぬようどうにかその場は収めたものの、後に残ったのは釈然としないおもいとのしかかるような疲れだけ。

「若さま。今宵はお部屋にてごゆるりとお休みなされませ」

 ようやっと私室へ戻ってきた、あるじの苛立ちを察したトマス爺が、いたわるように告げてくる。

「菩提樹の茶を用意しろ、爺。ダウフトが作ってくれたやつだぞ」

 蜂蜜がひとさじ加えられたお気に入りの茶を堪能したあと、目覚めるまで誰ひとり部屋に通さぬようにと言いつけて、デュフレーヌのレオは一日の騒ぎを<母なる御方>へと大いにこぼし、厄除けのしるしを切って早々に布団へもぐりこんだというわけだ。

 とはいえ、散々なことばかりだったわけでもない。

 厨房へ夕餉の手伝いに来ていたダウフトが、おつかれさまですと大鍋からよそってくれた鶏と野菜のスープは、口の中で具がほろほろととろけ、素朴なあたたかさが疲れた身体の隅々までしみわたるほどだった。たとえ大嫌いな人参が入っていようとおかまいなし、居並ぶ競走相手たちを押しのけて堂々と五杯もおかわりをしたほどだ。

「レオだったら、ひとりで鍋一杯はいけそうですね」

 少年の食欲に感心していたダウフトの笑顔と、そういえばまだスープが残っていたはずという事実を空腹とともに思いだし、わがまま侯子はようやく起きることを決意する。他の連中が寝ている間にこっそり厨房へ顔を出し、スープをひとりじめしようという算段だ。

 大きく伸びをしかけたとき、レオの指先に糸のようなものがからみついた。なんだこれはと目の前に持ってきてみれば、窓から差しこみはじめた朝日を浴びてきらめく自分の髪であることが知れた。


 変だな。


 おととい爺に切りそろえてもらったばかりなのにと、こがねに輝く巻き髪に疑問がよぎる。いやそれよりもスープが先だと思いかけたとき、そこでレオは普段とはまるで異なる我が身に気がつくことになった。

 なにやら妙に手足が長い。ゆったりとした仕立てと肌触りが心地よい亜麻の寝衣が、今はおそろしいほどに窮屈だ。

「何だ、こ――」

 口にのぼせた声の、思わぬ響きに愕然とする。声変わりのさなかにある自分のものではない、深く低い響きをたたえた男のそれだったから。


 おかしい。


 我が身へじわじわとしみ入ってくる違和感に寒気を覚え、羽布団をはねのけて寝台から飛び起きる。

 立ち上がった途端、普段よりも視線が高いことにも気がついた。つねづね愛すべき師匠に向かって、長ければいいってもんじゃないぞと激しく主張していた脚がやけにもつれて歩きにくい。ついでに腕を伸ばした拍子に、右肩のあたりからぶちりと弾けるような音がした。どうやら寝衣の縫い目が破けたらしい。

 胸騒ぎを懸命に鎮めながら、レオは寝台からやや離れた壁にかけられている、優美な装飾を施した大きな鏡の前にたどりつく。

 なんでもいにしえの世、戦乱に見舞われたくにとうら若き女王を救うべく、異界の勇者が渡り来たという由緒正しき品であるのだが、そんなものをふだん使いにしてしまう砦の人間のこだわりのなさにはほとほと呆れかえる。<灰色狼>たちが集う王の円卓もまた然りだ。

 そもそもこの鏡も円卓も、王家の裔たるデュフレーヌ家が所有してしかるべきものだぞとぼやきつつ、己が祖たる女王がことのほか愛したという鏡をおそるおそる覗きこみ――

 そこに映し出されたまごうかたなき現実に、とねりこ館の世継ぎの君は声にならない叫びを上げることになる。



             ◆ ◆ ◆



「何してるの、ヴァルター」

 いきなり背後からかけられた声に、両腕いっぱいに何やら抱えて、人目を避けるように回廊を進んでいたエクセターの生真面目少年は思わず飛び上がった。

「れれれれれれレネッ」

「そんなに驚かなくたっていいでしょう」

 取って食うわけじゃないんだからとふくれっ面をみせたレネに、ああごめんよとヴァルターは全力で謝罪する。

「可憐なきみを怖いだなんて、俺が思うはずないじゃないか」

「じゃあ、どうして朝っぱらからこそこそしてるのよ」

 そう問うたレネの視線が、ヴァルターが驚いた拍子に石畳へとばら撒いたものへと向けられる。

「まあ。衣装部屋から勝手にものを持ち出すなんて」

 ボーフォール卿夫人に怒られるわよと、たちまちレネは形の良い眉をつり上げる。ヴァルターが取り落としたのはたくさんの衣類、それも誰かに見つからぬよう慌てて掴みとってきたらしく、どれもこれもちぐはぐなものばかりだ。

「いやその、ギルバートさまの着替えをちょっと」

 ごまかそうとしたものの、じゃじゃ馬娘にはまるで通用しなかった。鳶色の瞳でじっと少年がかき集めている服を見るなり、

「嘘おっしゃい。どう見たってギルバートさまの趣味じゃないでしょう」

 ランスの市長じゃあるまいしと、南国鳥の派手やかな羽根飾りをあしらったマントを指し示すレネに、いやそのと生真面目な少年はしどろもどろになるばかり。

「それにヴァルター、あなたがひっくり返したのって祝祭用の衣装箱じゃないの」

「うわあああああッ」

 ほうらこんなのとかと、レネがぴらりと取り上げて見せたものに、少年はたちまち耳まで赤く染め上げる。いつぞや砦で催された仮装祭で、これを着てみたいとのんき娘がはりきって取り上げるなり、<狼>たちを震撼させたシェバの舞姫の装いだ。

 ええそりゃもう諸手を挙げて歓迎をとほざいた約一名を<熊>とともに速攻で沈め、当のダウフトに却下の宣告を下したのは、誰あろう少年のあるじだったのだけれども、

「そりゃあ、ギルバートさまだって殿方ですもの。素直になりたいときだってあるわよねえ」

 ほんとうはダウフトさまに着てほしかったのねと、実に悩ましい薄地の衣装を手にうなずくレネに、あるじの名誉にかけてヴァルターは懸命に否定してみせる。

「違うって、ギルバートさまにそんな度胸があるわけが」

「じゃあ誰よ。まさかヴァルター、あんたじゃ」

「だからレオがッ」

 うっかり滑らせた口を、はたと塞いだとてしょせんは後の祭り。冷汗をにじませ硬直するヴァルターに、やっぱりねえと言いたげにレネが目を眇めてみせた。

「どうせ、そんなことだろうって思ったわ」

 けどあいつにゃ十年早いのよと低く呟き、両手の指をぼきぼきと鳴らしはじめたレネに、待ってとヴァルターは力なく訴える。どうやら聖女づきの娘は、わがまま侯子がダウフトに舞姫の衣装を着せたがっていると盛大に誤解をしたらしい。

「さ、一緒に来てちょうだい」

 あいつを血祭りに上げるのはそれからよと促してきたレネに、いやそれはそのうとヴァルターは言葉を濁す。いくらわがままでやかましくて迷惑きわまりない相棒でも、無実の罪で危機に晒されるというのは己の良心が痛む。

「デュフレーヌの莫迦殿候補をかばってもろくなことにはならないわよ、ヴァルター」

「いや、全然かばっちゃいないけど」

 これにはわけがというヴァルターの訴えは、はっきりしなさいよというレネの鼻息にあえなく吹き飛ばされた。

「レオがいるのは私室でしょう。トマスさんにもこのことを伝えて、きっちり叱っていただかないと」

 睨んでくるレネに、ヴァルターは敗北感を覚えつつも従うしかなかった。これ以上の無駄な抵抗は、かえって自らの破滅を招きかねないと確信したからだ。

 官吏に連行される咎人のごとく、とぼとぼと回廊を進み、騎士たちの起居する私室が並ぶ棟へとたどりつく。

 棟の入り口を守る兵士たちが、ヴァルターの抱えたちぐはぐな荷物の数々を訝しんだものの、衣装替えですのと茶目っ気たっぷりに微笑んだレネに、またなにか騒動ですかと呆れ半分、笑い半分であっさり通行を許可した。

「おい坊主、エクセター卿に伝えてくれよ。若さまのやんちゃをどうにかしろって」

「そうそう。巻きこまれるこっちの身にもなってほしいもんだぜ」

 知らぬことは幸いかな。

 気さくに話しかけてくる兵士たちが、これから遭遇するであろう騒ぎを思うと、ヴァルターは力ない笑みで応じるしかない。俺だって巻きこまれてるんだようという心の叫びも虚しいばかりだ。

 レネに促されて、棟の入り口を通り抜ける。<狼>たちの詰所や、騎士見習いたちが起居する大部屋がある棟のにぎやかさとは打って変わり、広くゆったりしたいくつもの部屋や回廊に漂うのは静けさだけだ。あるじたちは、わずかに許されたひとときの休息に身をゆだねているか、いつ起こるともしれぬ魔族の襲撃に備えてそれぞれの持ち場にあるのだろう。

 そうしたなかでも、レオの私室は南向きの一番大きなものだ。

 もとは砦に滞在する高貴な客人のために用意され、はじめ賓客として訪れたレオにあてがわれたのだが、騎士見習いとして砦に在る今となっては、時々そこを利用するにすぎない。レオが幼い頃より、彼を守り育ててきた爺やのトマスと数名の従者だけが、あるじが快く過ごすことができるよう、つねに細やかな気配りを欠かさずにいる。

「レオ、いるのか」

 こつこつと重厚な樫の扉を叩く。それに応じ、静かに内側から開けられた扉の向こうから、おそるおそる顔を覗かせた侯子づきの従者が、ヴァルターを見とめるなり安堵の表情を見せた。

「よかった、ヴァルター殿でしたか」

 ささ早くと少年を招き入れようとした従者だったが、傍らのレネを見るなり一気に青ざめる。

「れ、れ、レネ殿もごきげんうるわしゅう」

「すこし、お邪魔してもよろしいかしら」

 あでやかな笑みの向こうに垣間見える、ただならぬ圧気を感じ取ったのだろう。どうぞと裏返った声で告げるなり、従者は一目散に部屋の奥へと逃げ出していく。

「失礼ね。ひとを熊か猪みたいに」

「いやそれはたぶん君の鼻息が」

「何かおっしゃいまして、リンゼイのヴァルターさま」

「……いえ、なんにも」

 かくかくと笑う膝を叱咤しつつ、レネに促されるままに部屋の中へと入っていく。

「ヴァルターか?」

 朝日が射しこむ広い室内、中央にあつらえられた天蓋つきの大きな寝台から問いかける声がした。

「じゃじゃ馬が騒ぐ声も聞こえたけど、気のせいか」

「悪かったわねえ、じゃじゃ馬で」

 腕を組み言い放ったレネに、幾重にも重ねられた紗と豪華な錦の緞帳の向こうにいる誰かが慌てて後ずさる物音がした。

「な、な、なんでレネなんか連れてくるんだッ」

「そんなこと俺に言われたって」

「どうでもいいけど、その声は何なのよ。レオ」

 あんたが風邪をひくなんてありえないわと驚くレネに、いいからさっさと出て行けと部屋のあるじはつっけんどんに言い放つ。

「おまえが関わると、ろくなことになりゃしないんだから」

「何よ、その言いかた」

 どうやら彼のことばは、金髪娘をいたく憤慨させたらしい。

 つかつかと寝台に歩み寄り、うわよせやめろというあるじとヴァルターの制止も聞かずに、緞帳に手をかけ勢いよく開け放つ。

「こそこそしてないで出てらっしゃい、この」

 ぼんくらと続けようとしたレネのことばは、唖然呆然に取って代わられたようだ。しばし目の前の現実を見つめると、くるりとヴァルターへと向きなおった。

「だあれ、このでかぶつ」

 問いかけるレネに、誰がでかぶつだと目の前の人物が憤然と応じる。

「ひとが必死の思いで助けを求めたっていうのに」


 さだめし、若獅子がひとの姿を取ったならばこのようであっただろうか。

 年の頃は二十四か五、豪奢な金髪をたてがみのごとく背や肩に流し、華麗な容貌を鮮やかに彩る鋼玉の双眸は、南天にちりばめられた星々の烈しい輝きを放っている。亜麻の寝衣に窮屈そうに押しこめられたたくましくも均整の取れた体つきは、あでやかな装いに身を包んだならばさぞ映えることだろう。

 だがそれでも、この見知らぬ若者を妙に近しい存在にしているのは彼自身の魂のいろ――とねりこの坊主と皆から呼ばれ、行く先々でさまざまな騒動を巻き起こす偽りようのないやんちゃ小僧の面影だ。


「……まさか、レオ?」

「気づくのが遅いッ」

 憮然とするレオだったが、こんな事態にも関わらず金髪娘の舌鋒はじつに容赦がなかった。

「今度は何のいたずらなのよ。一晩でこんなに大きくなるなんて」

「知るか。俺が知りたいぐらいなんだから」

「前から非常識な奴だとは思ってたけど、ここまでとは思わなかったわ。どこかに抜け殻でも転がってるんじゃない?」

「ひとを蝉か蝶みたいに言うなッ」

 思わず立ち上がったレオだったが、背のほうからびり、という音がするなり慌てて羽布団を身体に巻きつける。どうやら、あるじの急激な成長について行けなかった寝衣が徐々に破れつつあるらしい。

「ふうん、それで服が入り用だったわけ」

「どうしてきみは冷静なんだよ、レネ」

 俺なんか最初に見たときは腰を抜かしたよとぼやくヴァルターに、慣れよとレネは平然と応じる。能天気な砦の非常識な一同のふるまい程度でたまげていては、到底ここでは暮らしていけぬものであるらしい。

「そういえば、トマスさんはどうしたの」

 あのかたがあんたの変わりように気づかないはずがないでしょうと、あたりを見まわす金髪娘に、たちまち沈痛な面持ちになったレオが部屋の奥を指ししめす。

 そちらを見やったレネとヴァルターが、心底気の毒そうにそろって<母>への慈悲を希うしるしを切る。窓辺にある長椅子にぐったりと身を横たえ、慌てた年若い従者たちに介抱されている哀れな老人の姿を見とめたからだ。

「……まあ、当然と言えば当然よね。まさか大事な若さまが、一晩でこれだなんて思いもしないもの」

「いや、こいつなら何が起きたっておかしくないよ。レネ」

「ひとを何だと思っているッ」

 いいからさっさと服をよこせと、デュフレーヌのレオはふたりに向かって懸命に手を伸ばす。

「こんなことが皆に知れてみろ、それこそ寄ってたかっておもちゃにされ」

「おや。己がゆくすえを冷静に判断するようになったとは、少しは成長したじゃないか」

 聞き覚えのある、じつに楽しそうな声に三人そろって振り返る。

「まあ、リシャールさま」

 こんな時でも、乙女の恋心は満開そのもの。たちまち瞳を輝かせるレネに、きょうも元気にあふれておいでですねと、乙女たちの心を掴んで放さぬ琥珀の騎士が優雅に笑いかける。

「こんな早くから、何をしておいででしたの」

「散策ですよ」

 心地よい庭を楽しんでいたら、朝露にふるえる可憐な花を見つけましたとのたまうリシャールから、しゃれた私服の胸元に挿していた一輪を捧げられ、砦いちのじゃじゃ馬はすっかり夢見心地だ。ゆうべは当直じゃなかったはずだぞとひそひそと問うてくるレオに、朝帰りだよと、レネに聞こえぬようにヴァルターは声を低める。

「それで、何の遊びなのですかこれは」

「ええ、何だかレオが急に脱皮したくなったらしくて」

 リシャールが促すまま、にこにこと事実を明かすレネに、わがまま侯子と生真面目少年はそろってくずれ折れる。

「ほう、脱皮とはまた変わった趣向を」

「困ったものですわ。勝手にあんなに大きくなったものですから、わたくしもうどうしたらいいのかと」

 嗚呼、ひとの口には戸は立てられぬ。

 ヴァルターとトマス爺や、幾人かの従者だけに秘密を留めおき、しばらくは病気と称して私室にこもっていようという算段だったのに。このままではレネからリシャールへ、洗濯場から<狼>の詰所、ことによると町の人々にまで<とねりこ館のわがまま侯子>の新たな騒動が噂となって広まっていくことだろう。

 こんな前代未聞の珍事を、たいそう物見高い砦の連中がおいそれと見逃すはずがあるものか!

「どいつもこいつも、ひとごとだと思ってーッ」

 悲痛な叫びがまどろみにあった砦の皆を叩き起こし、何だ敵襲か、いやとねりこの坊主らしき声がとさらに衆目を集める元凶となったことを、わがまま侯子はのちに心底悔やむことになる。

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