第18話・そして嵐はながれを運び・11


「おいでなすったかいッ」

 知られざる場をも揺るがした不吉な咆哮に、占い婆が飛び上がらんばかりに喜びました。

「のこのこと這い出てきたが運のつき、おとなしく帰ってもらうよ」

「笑ってる場合ですかっ」

 光る石を抱えて慌てふためく生真面目少年へ、そんなにうろたえることかいと婆は肩をすくめます。

「怪物相手に真っ向からやりあうんだ、砦ひとつで済めば安いもんじゃないか」

「巻き添えを食らうこっちはたまったもんじゃありませんよッ」

 生真面目君のもっともな憤慨をよそに、老いたる巫女は父祖が張りめぐらせた呪文を、石壁にへばりつきながら懸命にたどっているわがまま侯子を見やりました。

「片づいたよ、ひよこ頭」

 彼女に言わせるとじつにお粗末きわまりない、後世の人間たちによる修復呪文。そこから余分なものを抜き去り、綴り違いを正したことを告げてきた占い婆に、こっちはあと少しだとわがまま侯子が応じました。

 幾重にも重なった歌声のごとき<力あることば>、それを綴りに変え結界となす才は少年にはありません。けれどもこうして内なる血に導かれ、今はなき王が遺した<おもい>をたどり、流れを滞らせている部分を感じ取ることだけはできたのです。

「こんなもの、もっとわかりやすくしておけ」

 古語なんて居眠りの誘いじゃないかと、選りすぐりの家庭教師たちを落涙させた勉強ぶりを披露するわがまま侯子に、ばかお言いでないよと巫女は呆れてみせました。

「たやすく書き換えられたら、結界の意味を為さないだろう」

 たわごとをぬかす暇があったら、とっとと最後の呪文をお探しと占い婆はわがまま侯子を叱咤します。

「これがあいつを捕らえる網にして門。そして鍵はへぼ詩人、門の護り手たるランスの長だ」

 あとは門さえ開けばとにやりとした巫女に、いやそれはと生真面目君が困惑した表情を見せました。

「いくら九柱神ミューズも泣いて逃げ出すへぼ詩人でも、さすがに怪物相手は」

「できるさ。かぼちゃ頭同様、あれもまれに見るきわものの星回りときたもんだ。何といったってあやつは」

「――婆」

「なんだい、ひよこ頭」

 気持ちよくしゃべってるのに邪魔するんじゃないよと睨んだ占い婆の耳を、愕然とした少年のことばが打ちました。

「呪文が欠けてる」

「何だってッ」

 叫ぶなり、老いたる巫女はふたりを蹴散らさんばかりの勢いで壁面へ飛びつきました。ぐるりと頭をめぐらせ、人の世から喪われて久しいことばを見渡した占い婆の顔色がみるみるうちに変わってゆきました。

「エグ・モルトッ」

 呪わしい叫びは、なぜか大公家の旧い呼び名へと向けられたものでした。占い婆の前に広がる上古の文字、呪文の最後に綴られるべき<閉じることば>が、明らかにひとの手によって削り取られていたのです。

「これが答えか。アルトリウスが託せし<おもい>を、こともあろうに」

 灰色の双眸に白炎のごとき憤怒をみなぎらせ、身を震わせる老巫女に生真面目な少年が問いかけようとしたときです。


「――だめだ」

 身の裡をめぐる王の血が、鋼玉の双眸に何を見せたのか。

 弾かれるように面を上げたわがまま侯子が、虚空に向かって恐怖の叫びを上げました。

「抜くな、ダウフトッ」


 <ヒルデブランド>を。



               ◆ ◆ ◆



「おおおおおおおおおおおおおッ」

 満月輝く夜空に、雄叫びの弧を描いてつるし上げられたのはなんとへぼ詩人でした。

「市長さんッ」

 駆け出そうとした娘さんを、黒髪の騎士がすかさず押しとどめました。その足元では娘さんを狙って伸ばされたものの、立ちはだかった騎士によって一閃で斬り捨てられた怪物の触手が、すさまじい異臭を放ちながら溶け崩れていきます。

「ギルバート、あれは?」

「おそらく、長老がたが落とした卵だ」

 池の魚たちを食らって育ったかと、真実に近しいこたえを黒髪の騎士が口にするなか、ご自慢の帽子が転がり落ちたことにもかまわずに、へぼ詩人はうねる触手に捕らえられたうるわしき補佐官に向かって叫びました。

「クロエッ」

 懸命の叫びにもいらえはありません。おそらくは気を失っているのでしょう、しなやかな身体を力なく投げ出した淑女の銀髪だけが、夜風になびき輝いています。

「おのれ異形の輩め、性懲りもなく太古の闇からのそのそと這い出てこようとはッ」

 ユーラリアの名にかけて成敗してくれると、南国の鳥たちもやる気が失せる衣装をきらめかせた市長が、水底から不吉なまでの圧気をただよわせながら様子を窺っている赤い単眼に向かって叫びます。

 そんな彼を、己が空腹を満たすにふさわしいかどうかためつすがめつ眺めていた怪物でしたが――やがて興味が失せたのか、ぺちりと市長を地面に放り棄てました。

「ひ、ひどい」

「あやつとて、食あたりを起こしたくなかろう」

 怪物の仕打ちに思わず抗議した娘さんに、好き嫌いも激しいようだなと黒髪の騎士がぼそりとつけ足しました。

「真っ先にクロエ殿をさらったかと思えば次はおぬし、へぼ詩人は放り棄てて俺は無視か」

 生意気なと怪物を睨みつけた騎士に、人参じゃないんですからと娘さんが力なく突っこみます。

 どうも怪物は、美しい獲物にいたく満足しているようです。彼女をあでやかに彩る銀の髪が、かつて己を暗き狭間へと追いやった人間たち、ことにある人物を思い出させたからかもしれません。

 そうして麗人を己が血肉として取りこむことで、いにしえの人間たちへの復讐とこの世のすべてを食らいつくすきっかけにしようとしているようでした。

「おい、なんだあれはッ」

「誰だ、あんなもんこっそり池で飼ってた奴は」

「そりゃあ、とねりこの坊主かじいさんたち――なんて言ってる場合かッ」

 月夜にまぎれて聖女さまをさらっていった、大胆不敵なへぼ詩人の捜索に当たっていたのでしょう。この手の騒動にはもはや慣れっこな砦の兵士たちでしたが、宵闇に轟いた異形の咆哮と、幾本もの触手に捕らわれた美女の姿にただごとではないと悟ったようでした。

「騎士団長と副団長に伝令ーッ」

「第一級戦闘態勢発令ッ」

 口々に叫んで駆け出してゆく彼らを、背後から素早く追いかけてゆくものがありました。

 ふと振り返り、その正体が何であるかに気づいた兵士たちが恐怖の叫びを上げたところへ、彼らを捕らえんとする怪物の触手が一斉に襲いかかります。

「危な――」

 叫ぼうとした娘さんの耳を、世にもすさまじいものが打ちのめしました。


 二日酔いで地獄を見ているところへ小鬼に両頬を往復で張り飛ばされ、よろめき倒れたところへちびたちに一斉に飛びかかられ、もみくちゃにされたあげくに棄てられたようだと砦いちのお調子者が評した詩。

 泣く子も黙る副団長でさえ、耳に真綿や練り粉を詰めて冷然と聞かなかったふりをするほどに、どこかで何かが激しく間違っているとしか言いようのない愛のしらべ。


 ふう、と気が遠のきかけた娘さんの視線の先で、怪物に立ち向かうかのように、へぼ詩人が己が魂を熱苦しく歌いあげておりました。しかも手には百篇の詩集――娘さんには愛を語らうため、黒髪の騎士には決闘の武器と為そうとした代物が堂々と広げられています。

 そこから放たれる、虚空のかなたで沸騰する狂気にも似た禍々しい圧気に打ちのめされたのでしょう。怪物の出現に恐怖し、中空を逃げまどっていた小鬼たちがぼたぼたと池へ落ちていきました。

「し、市長さん?」

 今まさに兵士たちを捕らえんとしていた触手が力を失い、くたくたと茶色くしなびていきます。難を免れたものの、魔物も斃れる恋歌を耳にした男たちが苦悶にのたうち回るなか、ただひとり平然とたたずんでいる黒髪の騎士がうかつな奴めと評しました。

「ユーラリアの裔が、いまひとりいたのを失念していたか」

「誰ですか、そのひと」

 緑の瞳を丸くする娘さんに、ランスの初代市長だと黒髪の騎士は答えます。

「流るる銀の髪もうるわしき、あでやかな花のごとき乙女であったと伝えられるが」

「クロエさんみたい」

「聖堂の鐘にひびが入り、鐘楼から転がり落ちるほどにすさまじき歌声の持ち主でもあったそうだ」

「…………それって」

 おののきながら応じた娘さんに、さもありなんと騎士は応じました。

「アルキュシア家とランス家は、母を同じくする姉妹から分かれた親族だ。つまりあのふたりは情けぶかきユーラリア、怪物に身を捧げんとした乙女の血を引くもの」

 なぜあの男として現れたかは知らんがと、うんざり顔ではなしを締めくくった騎士をよそに、今ふたたびユーラリアの呪歌――強大なる魔物封じのしらべを耳にした異形が、苦悶に猛りながら養魚池と水路を囲っている大きな石を次々と粉砕してゆきます。

「あ、アルトワさんの苦労が」

 先の世は蟹だったわけでもないのに、この惨状を目の当たりにして口から泡を吹き卒倒するであろう家令どのを、娘さんが少しばかり気の毒に思いかけたときでした。


 ごす、と何かがぶつかった重苦しい音とともに、歌がぴたりと止みました。


 ああっと声を上げた娘さんと、無愛想な表情を崩さぬ黒髪の騎士の前で、誰はばかることなしに歌いあげることのできる歓びに顔を輝かせたまま、へぼ詩人がばたりと倒れ伏しました。

 後を追うように傍らへと転がった大きな石は、筆舌に尽くしがたい歌に身をよじらせた怪物が苦しまぎれに投げつけたものであるようです。いかに常識外れとはいえ、こんなものをぶつけられてはひとたまりもないでしょう。

「ま、魔物が」

「いかん、補佐官どのがッ」

 禍歌からようやく解放された兵士たちが、口々に叫びを上げました。

 ユーラリアの裔に恥じぬちからに縛められかけていた怪物が、力を得るためにひとの血肉を食らわんと、本体をひそめている水中へ麗人を沈めようとしています。そうして、じつにおめでたい顔のまま気を失っているへぼ詩人めがけて叩きつけるべく、別の触手が大きな石を持ち上げたのが見えました。


 このままじゃ、みんなが。


 無意識のうちに、腰へ佩いたものへと手が伸びます。

 <ヒルデブランド>、天なる<母>が遣わした聖なる剣が新たな奇跡を起こすべく、寄り代たる娘さんに自らを解き放つよう望みます。

 それはとりもなおさず<髪あかきダウフト>、聖女さま自身ののぞみであるはずなのですから――


 だめ。


 内なるこえが、柄に触れた手をとどめます。どこからか、誰かの魂をふりしぼるような叫びが聞こえたような気がしました。けれどもそれすらも、より強い<ヒルデブランド>のこえに押しのけられ、かき消されてゆこうとします。


 かなうとでも思っているのかい、娘っ子。


 おまえは知っているはずと問うてきたまなざしに、震えた唇がいいえ、とことばをつむごうとしたときでした。


 ふいに伸びてきた手が、聖なる剣を鞘ごと取り上げました。何をと問いかけようとした娘さんの瞳が驚きに見開かれました。

 邪魔をするなとうなりを上げる<ヒルデブランド>を一瞥し――そのままかれを石畳へぽいと放り出したのは、なんと黒髪の騎士ではありませんか!

「どうして」

 斧や松明代わりにされるのはとうにあきらめたとはいえ、そのへんの棒きれか何かのように扱われた聖剣が、あまりのことに愕然とするのを感じ取った娘さんに騎士が向きなおりました。

「あの婆が何を言ったかは知らん」

 騎士の口から出たことばに、今度は娘さんが驚く番でした。

 だって、彼は知らないはずです。

 恥ずかしいから聞かないでと、店から離れたところにいるようお願いしたのです。娘さんが囁いた願いごとも、老いたる巫女が示したゆくすえも何ひとつ知ることはなかったはずです。

 帰り道もふだんどおりにふるまったはずです。しょげているところなんて決して見せたりしなかったはずです。

 それなのに。

「ギル――」

 名を呼ぼうとした娘さんを遮るかのように、黒髪の騎士がそっと彼女の手を取りました。

 薔薇水やみつろうで丁寧に手入れされ、ももいろ水晶のような爪と瀟洒な指輪をきらめかせた姫君の手ではありません。野山の豊かな実りや紡ぎ糸を手にするほうが似つかわしい、働きものな村娘の手をしばし見つめると、騎士はそこへあるものを結わえはじめました。

 まるで、聖なる剣に連れて行かれようとする乙女を、己がもとへとつなぎとめようとするかのように。

「これ」

 雪の花を思わせる美しい結び目を作って留められたのはレースのリボン。何ものにも代えがたい宝物が手首で揺れていることに目を見張った娘さんに、

「俺は、くだらん占いなぞ信じない」

 毅然と放たれた、騎士のことばを耳にした娘さんの瞳がゆらぎました。


 あのときと同じでした。

 からからまわるさだめの車、つむげぬ糸玉に涙を押し隠したとき、開かれた扉から現れたのは黒髪の騎士でした。

 森で凍えた身体を温めるいとますら惜しみ、白き冬の使いをまとわせたまま戸口に立つ彼を見たとき、へだてられたのぞみを悲しむよりも確かにこころへと満ちていったあたたかなおもい。慈愛に満ちた聖女からはほど遠い、ちっぽけな村娘が抱えたかなしみを軽くし、よろこびをより豊かなものとしてくれる。

 だからこそ、彼は<騎士>なのです。誰ひとり代わることなどできないのです。

 たとえそよ風ほどもにこりともせず、ちょっといじわるでやかまし屋のくせに、ここぞというところで羊に蹴倒されるかぼちゃ頭であったとしても。


 ふたたび、怪物の咆哮があたりに轟きました。

「へぼ詩人め、詰めが甘いからこうなる」

 かくなる上はあれを解き放つしかと呟いた黒髪の騎士が、そこでげんなりとした顔つきになりました。

「まさか、剣で?」

 そんなのだめですと、娘さんは騎士の腕へしがみつきました。太古の異形に抗するすべなど、何一つ持ち合わせておらぬ彼が挑んだところで勝てようはずもありません。

 養魚池の片隅で、人間による理不尽な仕打ちをしくしくと嘆いている<ヒルデブランド>は応えません。だからといって、怪物のすぐそばで気を失っている市長ととらわれの麗人を見殺しにできません。いったいどうするのと、騎士を見やった娘さんは思わず目を丸くしました。

「……こんな時が来ようとは」

 二度と目にするまいと誓ったのにと、黒髪の騎士が懐から取り出したのは古びた紙でした。

 それを広げ、中身を確かめるなりうっとうめいて顔を背けた騎士でしたが、やがて覚悟を決めたらしく、悲壮な決意を浮かべて巨大な魔物を振り仰ぎました。

「耳を塞げ、ダウフト」

「ええっ」

 いったい何をと問いかけようとした娘さんをよそに、古びた紙をばさりと広げた黒髪の騎士が大きく息を吸いこむなり、最初のことばを解き放ちました。


 のち。

 砦やふもとの町の人々は、折に触れて語り合ったものでした。


 宵闇を切り裂くかのように、突如として砦の西側からほとばしったまばゆき光とすさまじい衝撃。

 すわ天変地異か、いや砦のじいさんたちがまた何か訳の分からないことをと、家から飛び出した人々が不安げに見上げるなか轟いたものを。

 この世のものならざる異形のおぞましい咆哮を封じるかのように響き渡った、耳にした者すべてを春の歓びから一気に冬の真っただなかへと逆戻りさせるかのような、じつに寒々しい愛の詩を――



               ◆ ◆ ◆



「おわった、の?」

 もうもうとたちこめていた土埃がようやく収まり、あたりに静けさが戻ったころ、地べたに伏せたままの格好で娘さんは呟きました。

 地から放たれた光の網にからめ取られた魔物が、いずことも知れぬ世界へ咆哮もろとも呑みこまれてゆくのを見たのもつかの間、ばらばらと降り注いできた石つぶてに思わず頭を抱えたことまでは覚えています。

 けれども、いつまでたっても石がぶつかる気配はありません。それどころか、なんだか大きくてあたたかいものに守られている気さえします。

 おそるおそる顔を上げ――そこで娘さんは、自分をかばうように覆い被さっている黒髪の騎士に気がつきました。

「ギルバート」

 ふたりのすぐ側には、壁石だったものがばらばらに砕け散っています。心の蔵を鷲掴みにされるような予感を覚え、思わず名を呼んだ娘さんに、

「……いいから、耳元で騒ぐな」

 うめくように応じた黒髪の騎士が、娘さんから身を離すなり石畳にへたりこみました。招かれざる客を異界へと叩き返したすさまじい光と衝撃に、しばし立ち直れぬ様子の騎士へ娘さんがすがりつきます。

「怪我は」

「大したことはない」

「そんなのだめです」

 抗議しかけた娘さんの瞳が、あるものを見とめるなり驚きいっぱいに見開かれました。

「ギルバート」

「構うな」

「だってこれ」

 そう言って、娘さんが指さしたものに目をやった騎士でしたが。彼の顔を、しまったという表情が彩るのにさして時はかかりませんでした。

 騎士の左手首で、やさしい輝きを放つのは一筋のリボン。やわらかな空色の亜麻地に、細くよりあわせた毛糸でタイムの刺繍をほどこした素朴な品はどうしたことでしょう、以前モンマスへ発つ彼の道中の安全を願った娘さんが贈ろうとしたものとそっくりです。

「いや、これは」

「変ですね。たしかいらないって言っていたのに」

「誰もそんなことは」

 うっかり口にしかけて、乙女の手の内にはまりかけていることに気づいたか、

「効き目もわからん、へたな御符よりはるかにましだろうと」

 臍曲がりの子供のような顔で続ける黒髪の騎士を、緑の瞳がいたずらっぽく見つめていたのですが、

「よかった」

 花のような笑みとともに、彼のいいわけを軽やかに封じこめたのは乙女のみずみずしい唇でした。

「…………ちょっとまて」

 おまえはおれになにをしているというかいまさわったやわらかいものはいったいなにと、あまい不意打ちに凍りついた騎士をよそに、聖女さまは空色のリボンをやさしく見つめます。

「母さんから教えてもらった、守りのしるしも刺繍しておいたんです」

 リボンにこめられたおもいがいつしか不可思議なちからへと変じ、娘さんをかばった騎士を守りぬいたのでしょう。役に立ってよかったと無邪気に喜ぶ娘さんの耳に、どさりという音が届きました。

「まあ、レオ。ヴァルターも」

 驚く娘さんの前には、人知れず砦の危機に奮闘したというのに、無情なる眼前の光景にへたりこむわがまま侯子と、少しばかり気の毒そうに彼を見やる生真面目少年の姿がありました。

「いったい、どこに行っていたんですか」

 あんなに大騒ぎだったのにと問う娘さんに、ええその話せばいろいろややこしいことにと生真面目君が応じたときでした。

「まったく、おまえたちには呆れたね」

 大儀な仕事を終えたと言わんばかりに、やれやれと肩を叩きながら現れた者に娘さんがさらに驚きます。

「あら、おばあさんは」

「異界の輩を退けたか、オードのダウフト」

 灰色のまなざしを細めた巫女に、いえわたしは何もと娘さんは首を横に振りました。

「<ヒルデブランド>を抜くなって、ギルバートに止められましたから」

「ふん。さしものかぼちゃ頭も察したかい」

 抜かずに済んだならよいとうなずくと、老いたる巫女はなぜだか分かるかいと娘さんに投げかけました。

「ごめんなさい。わたし、そういうのは全然だめで」

「だろうね」

 偶然と必然と悪運の為せるわざだからねと占い婆が取り出して見せたのは金のブローチ、とねりこの若枝をかたどった優雅な品でした。

「欠けた結界を補ったのはひよこ頭が落としたこいつ、門をこじ開けたのはへぼ詩人の呪言。けどあやつを完膚なきまでに叩きのめして異界へと蹴りこんだのは他でもない、なまくら剣とかぼちゃ頭だよ」

 ただ人から邪険にされた傷心を、おまえのせいだぞこのおたんこなすと怪物への八つ当たりと代えたのでしょう。

 寄り代たる娘さんを介さずに力をふるった聖剣がまたもいじけているさまに、あれを悪運と言わずして何て言うんだいと皮肉たっぷりに評すると、老巫女はふたたび娘さんへと向きなおりました。

「かなうとでも思っているのかい、娘っ子」

 放たれた問いは、のぞみにもたらされたこたえでした。明るくくるめく瞳に底知れぬ影をよぎらせたのもつかの間、

「――はい」

 騎士の胸にそっと頭を寄せ、頬を染めた娘さんから発せられた迷いのないいらえを耳にして、しょうのない子だねと占い婆は溜息をつきました。

「リリアーヌの若いころとそっくりだ」

「おばあちゃんを知っているんですか」

 驚く娘さんに、べつに大したことじゃないさと占い婆は肩をすくめました。

「木やけものが囁くできごとは、すべてあたしの耳に届くもの。だからリリアーヌの婿取り騒ぎも、おまえがあんよを始めた春のことも、おまえをそやつに託したリリアーヌの祈りも知っている」

 もちろん、この砦と町のやかましい騒ぎもすべてねと答えた占い婆が、二度にわたる娘さんの不意打ちに声も出せずにいる黒髪の騎士へと視線を転じました。

「どうだい、あたしの占いは」

 仔羊の接吻は格別だろうとからかう占い婆に戻ってきたのは、灰色狼の不機嫌なうなりでした。

「なにが占いだ。はじめからこうなると知っていたのだろう」

「ただ人の分際で、さだめに抗おうとするからさ」

 そう続けた巫女の、刻にも似た冷ややかな息吹に騎士は気づいたようでした。

「塵芥がいくらあがいたとて無駄なこと、いずれその娘は」

「さだめはみずから掴みとるもの」

 嘲るような響きを帯びた巫女のことばに、騎士のいらえが重なりました。

「それが、我が父祖へまことの王が賜りしことばだ」

 静かに、けれどもはっきりと告げた騎士の顔を、娘さんがあえかな微笑みを浮かべて見つめます。そんなふたりをしばし眺めていた占い婆でしたが、

「ふん、仔狼が偉そうな口を」

「おばあさん」

「あれもそうだった」

 呟いた老巫女が見やったのは、いまだに涙目でへたりこんだままのわがまま侯子でした。少年の顔立ちに残る遠き面影を、灰色のまなざしは探しているかのようでした。

「親のぬくもりを恋しがって泣いていた洟垂れのちびが、少し背が伸びて一丁前の口を利くようになったと思ったら」

 さだめから匿われたというのに、みずからさだめを掴みとるべく揺りかごから出て行ってしまったよと、かすかなほろ苦さを含ませて呟いた巫女の姿がかげろうのようにゆらぎました。

「円卓のアルトリウス。かつて在り、今いまし、のち来たりたもうまことの王――あの子はこのわたしが育てたのだから」

 呆然とする人々の前で、婆の姿はみるみるうちに小さくなり、次いですこし大きく伸びてゆらいだかと思うと、やがてある姿へと変じてゆきました。

「――<シルヴィア>」

 やんちゃな狼姫の母君、<還らずの森>の護り手たる女王が、燦然と輝く白銀の姿をみなの前に表しておりました。

 黄金をとろかしたような、謎めいたまなざしで人間たちを睥睨する彼女に、思わずお姑さんだと呟いた生真面目少年が、へたりこんだままのわがまま侯子に足をぎゅうとつねられます。

「おばあさんが、女王さまだったなんて」

 だからおばあちゃんのことも知っていたのねと、お祈りを捧げようとした娘さんに、

「リリアーヌの願いはおまえののぞみ」

 占い婆であったときよりもはるかに若々しい声で、樹海の王は娘さんへと告げました。

「かなうかどうかは、我には見えぬ」

 そのことばに、娘さんが驚きの表情を浮かべるのを確かめた白銀の狼は、つぎに黒髪の騎士へと頭を向けました。

「さだめを掴み取るか、エイリイの子」

「それがどうした」

 ひとの若者の不機嫌ないらえなど、幾星霜を生きてきた女王には赤子がむずかるようなものであったのでしょう。まなざしをおかしげに細めると、

「ならば臨め。母なるいのちが織りなすかぐわしき綴り名へと」

「なぜそれをッ」

 <かぼちゃの接吻>同様、オードの娘を手ごわいと言わしめる秘密へうかつに踏みこんだことを蒸し返され愕然とする若い騎士に、当然であろと白銀の狼は答えました。

「我が名は<森>ぞ」

 ほんに嵐の夜はやるせなきことと告げると、樹海の女王は身をひるがえし、騒ぎで崩れ落ちた壁の一画を軽やかに飛び越えると、そのまま森へと走り去っていきました。おそらくは信心深い木こりたちが明け方に見る夢へとおとない、森の恵みを持ち出すゆるしを与えるために。

「……つまり俺たち、そろって女王に遊ばれてたってことか?」

「成りゆきからするとそうらしいな、レオ」

 森のかなたからこぼれてくる白銀の輝きを、呆然と見送る人々の間をさみしい風が吹き抜けていきます。

 人間には破滅の危機でも、樹海を統べる女王にはただの退屈しのぎときたものです。

 狼ゆえ、己が縄張りによそものが我が物顔に居すわることが我慢ならなかったのかもしれませんが、神にも近しい聖獣の心裡をひとの子が推し量れようはずもありません。

 もしかして奥方と気が合うんじゃと思いかけ、少年たちは慌てて首を横に振りました。

 <息子>たちに試練を科して遊ぶ砦の母君と、ひとも魔物も掌で転がし興がる樹海の女王がお茶を楽しむなどという、常識があっけなく崩れ落ちていくような事態はけっして想像したくなかったからです。

 いいんだとりあえず砦の危機は去ったしと、周囲が無理やり平静を取り戻そうとするなか、微動だにしない黒髪の騎士を娘さんがつつきました。

「ギルバート」

 問いかけたものの、騎士からはいらえがありません。さらにたずねようとした娘さんは、そこでたいそう驚くことになりました。

「まさか、その」

「ああ、気絶してますね」

 ほうら視線が合っていないと、虚ろな目で座りこむ幼馴染の前でひらひらと手を振ってみせたのは、いつのまにかふたりの側へとやってきた琥珀の騎士でした。

「へぼ詩人との泥仕合に加え、異界の珍客相手に大立ち回り、あげくの果てには樹海の女王にとどめを刺されたのですから当然でしょう」

 まさか嵐の晩のてんまつまで知られていようとはと、苦悩混じりに呟いた琥珀の騎士がそっと背を押すと、黒髪の騎士は娘さんのほうへとずるずると倒れこみました。

「ギルバートったら、気力を使い果たしちゃったんですね」

 騎士の頭をそっと抱きよせると、娘さんはここぞとばかりに、ふだん決して触らせてもらえない漆黒の髪に触れました。まあさらさらと嬉しそうに微笑む娘さんに、とりあえずそやつを頼みますと琥珀の騎士は乙女に希います。

「リシャールさまはどちらへ?」

「事後処理ですよ」

 まずは、無事に救い出されたアルキュシア家の令嬢を丁重に部屋までお連れ申し上げ、騒動の引き金となったへぼ詩人は怒り心頭のランス側に引き渡し、家令どのへのいいわけを考えてと並べ立てる琥珀の騎士に、じゃあわたしはどうしましょうと娘さんは困惑した顔になりました。

「ギルバートを、このままにしておくわけにもいきません」

「いえ。すべて貴女におまかせしますよ、ダウフト殿」

 煮るなり焼くなりお好きなようにと、とろけるような笑みを浮かべた悪魔のことばから数刻のち。

 砦じゅうを騒ぎの収拾に駆け回る人々の耳に、どこからともなく音階を外した男の悲鳴が聞こえてきたとか、聞こえなかったとか。



              ◆ ◆ ◆



 砦じゅうを揺るがした、驚天動地の一夜から半月ほど後のことです。


「ではおばさま、ほんとうにご迷惑をおかけしました」

「身体に気をつけるのですよ、クロエ」

 やわらかな青空が広がる城門の前。帰途に就くランスの人々を見送るべく集った砦の面々の前で、怖ろしいできごとからようやく立ち直ったアルキュシア家の令嬢を、奥方さまはいたわるように抱きしめました。


 太古の異形と非常識な人間どもによる破滅すれすれの死闘から一夜が明けたのち――東の砦とふもとの町とランス、それぞれの代表の間で早急に話し合いが持たれることになりました。

 一日も早い復興を願うランス側と、それに協力することでさらなる同盟の強化を目指したい砦や町の意向もあったのですけれども。これ以上へぼ詩人を滞在させては、双方の被害が拡大するばかりという危機感が根底に流れていたことは言うまでもありません。

 幸いにも、森への畏敬が強い木こりたちや自由開拓民の協力もすんなり取りつけることができました。何でも彼らによると、ある晩夢に白銀に輝く狼が現れ、湖の西にある森ならば少し切ってよいと告げたのだとか。

 あんまり調子こくと<森の奥方>に尻を噛まれるでなと告げた年かさの木こりに、広間で遊んでいた白銀の狼姫が、母君を誇るようにきゃんと一声上げたさまは、場に集った人々の笑みを誘ったものです。

 あれよあれよと物事が進むうちに、砦のご婦人がたによる手厚い看護を受けていたアルキュシア家の令嬢のかんばせにも美しい輝きが戻ってゆきました。

 いっぽう。

 砦を破滅から救った功を讃えられながら、いたいけな乙女をかどわかした罰は別物ですよと微笑んだ奥方さまの強権発動により、とても口では言えないおしおきの数々を堪能するはめになったへぼ詩人も、どうにか執務室で書類の海を泳ぐことができるまでには回復しました。

 そんなこんなであっという間に日は過ぎ、とうとうランス使節団が砦に別れを告げる日がやってきたのです。


「ベルナール殿ともども、また遊びにおいでなさい。たんと趣向を凝らして待っておりますからね」

 優雅に笑いながら告げた奥方さまに、はいと嬉しそうにうなずいた首席補佐官の隣から、こらクロエと情けない声が上がりました。

「わたしはいちおうランスの長なんだが」

「存じております、ベルナール」

「ならば何だね、この格好は」

 嘆く市長が全身にまとっているのは、りっぱに磨き上げられた鎧兜でした。歌舞音曲はともかく、武芸百般に関してはさっぱりな男でしたから、鋼の装いそのものが彼にとっては縛めにほかなりません。身動きを取ろうとするたびにがしょ、ぎしょとものものしい音を立てます。

「お似合いですこと、ベルナール殿」

「お言葉いたみいりますが奥方、ずいぶんと、重たき、代物で」

「武器庫から出てまいりましたの。何やら封印が施されておりましたけれども、冥府から渡り来た異形の卵よりはランスの宝にふさわしいとは思いませんこと」

 偶然か、必然か。

 まるで機を見はからっていたかのように砦を訪れたエーグモルトの使者が、ランスの至宝について意地悪そうにほのめかしたときでした。

 関わった者たちにはばかばかしいことこの上ない真実を、迫り来る怪物におののく砦を舞台にした、二組の恋人たちによる壮大な愛と勇気の物語へとしたてあげ、ついでにさあ何のことでしょうととぼけた調子も織り交ぜながら語ってみせたのは砦の母君だったのです。

 いやわたくし所用にてこれでと、引きつった笑顔で場を辞そうとする使者へ、あらそんなことをおっしゃらずにどうか続きをお聞きになってと熱心に引き留める奥方さまを、夫君たる騎士団長と長年ふたりにつきあわされてきた砦の鬼とが、悟りを開いたようなまなざしで見つめていたものでした。

 とはいえ、ちょっぴり迷惑な宝でも消えてしまったらそれはそれでさみしいもの。

 はて本市の長老たちに何と申し開きをと悩むランスの人々へ、ならばこちらはいかがと奥方さまが贈ったのが件の鎧兜だったのです。所々にぺたりと貼られた、いわくありげな御符がそこはかとなく危険な香りを漂わせていますが、当面は帰途におけるへぼ詩人の逃亡を防いでくれることでしょう。


「クロエさん、帰っちゃうんですね」

 しょんぼり顔で呟いた聖女さまが、これおみやげですと手にした小さな袋をうるわしき補佐官へと差し出しました。

「イワカボチャの種です。ランスでも<かぼちゃの接吻>が使えるようにと思って」

「まあ、ありがとう」

 とても嬉しいわと、心からの笑顔とともにアルキュシア家の令嬢は娘さんからの贈り物を受け取りました。

「ランスでも広めてみましょう。かよわき女性や子供たちの守りになるでしょうから」

「そうすると、先生はクロエさんですね。三連撃がとってもすてきですから」

「まあ」

 すっかりかぼちゃの絆で結ばれた麗人と娘さんが、仲のよい姉妹のように笑いあうさまに、居合わせた殿方たちが顔を引きつらせます。

 ただでさえ手ごわいご婦人がたを、これ以上たくましくする必要があるのかと主張したいところですが、あえて言にする勇気のあるものはいません。どこぞのかぼちゃ頭ではあるまいに、熱烈な橙色の令嬢による星が飛ぶような愛情などごめんこうむりたかったからです。

「ダウフト殿、せめてわたしにうるわしきその唇を」

「海辺の蛸と戯れてこい」

 この期に及んでまだこりないへぼ詩人の求愛に逃げだそうとする娘さんの襟首をつかみ、黒髪の騎士が凍てつくようことばを放ちます。

「ふん、エクセターの海ではあざらししか見ないそうだが」

「俺が生まれた日に、あざらしが父へ鮭と帆立をよこしたそうだ」

「ならばいっそ、あざらしともども海へ帰ったらどうだ」

「その前に、うるわしの蛸嬢をおぬしに送り届けるよう祈ってやる」

 心底おとなげない応酬をはじめたふたりを引き離すように、さあ出立をとアルキュシア家の令嬢が声を上げました。それを合図に幾人かの屈強な男たちが前へ進み出ると、鎧兜に身を固めた市長を担ぎあげるなり頑丈な馬車へと放りこみ、がっちりと周囲を鎖で縛りあげます。

「こらクロエ、わたしをいったい何だと」

「情けぶかきユーラリアが守りしランスの長ですわ。ベルナール」

 うたうように応じると、うるわしき補佐官は黒髪の騎士へと優雅に一礼してみせました。お互い苦労しますわねと言いたげなはしばみの瞳に戸惑ったような顔を見せた騎士でしたが、

「ソーヌの司教は、詩をこよなく愛されるそうだ」

「あら、初耳ですこと」

「友好のあかしに、毎日一篇の詩をしたためて贈ってはいかがか」

 淡々と告げた騎士に、しばしぽかんとした顔を見せた麗人でしたが、

「ほんとうに、あなたっていじわるギルバートね」

 ダウフト殿がおっしゃるとおりだわと、うるわしき補佐官はくすくすと笑みをこぼします。

「万が一にも、ご機嫌をそこねたらどうしましょうか。エクセター卿」

「機嫌を損ねる暇もなかろう」

 このくらい意趣返しをしたところでばちは当たるまいと呟いた騎士に、それもそうですわねとうなずくと。では参りましょうと、うるわしき補佐官は周囲のものたちを促したのですが、

「さだめはみずから掴みとるもの」

 今はなき王のことばに、娘さんと黒髪の騎士が思わず補佐官を見やりました。

「クロエ殿」

「皆そうですね。あなたもダウフト殿も、そしてベルナールとわたくしも」

 快活に告げると、ランスが誇る麗人はもういちどふたりに向かって一礼をすると、ごとごとと動き出した馬車を追って去っていきました。

「ダウフト殿ーッ、貴女に捧げしこの愛は我が胸に熱く燃えたぎっ」

 護送されてゆく市長の叫びがすさまじい物音とともにぷつりと切れたのは、馬車に積んであった他の荷物が彼めがけてどっと降り注いだためであるようです。


「行っちゃいましたね」

 遠ざかってゆく使節団を見送って、こんどはいつお会いできるかしらと娘さんが呟きます。

「へぼ詩人にか」

「クロエさんにです」

 市長さんはそのう、気が向いたら遊びに来ていただければと応じた娘さんが、そこで黒髪の騎士を見上げました。

「ギルバート」

「何だ」

「わたし、前から聞きたかったんですけれど」

 緑の瞳で真剣に見つめてくる娘さんに、黒髪の騎士はいやな予感を覚えたようでした。あっいま聞かなくちゃ逃げられると気づき、娘さんはすかさず問いを放ちました。

「どうしていつも、市長さんの詩を聞いてもだいじょうぶなんですか」

 しばしの沈黙の後、返ってきたのは騎士のすわったまなざしでした。もしかしてまた何かの古傷をとちょっぴり後ずさった娘さんに、

「…………兄上だ」

 やっとのことでふりしぼられた騎士のいらえに、娘さんが顎を落としました。

「おにい……さま?」

「兄上はじつに趣味多彩だった」

 乗馬や剣術、狩りといった騎士のたしなみから、釣りや園芸、読書に語学に歌舞音曲に。あらゆるものごとをそつなくこなしてゆく年の離れた兄へ、幼い弟はあこがれのまなざしを向けていたものですが、

「唯一にして最大の欠点こそが詩作だった」

 今度こそいけると思うんだと、自信満々に兄が読み上げた詩を聞かされた幼子が恐怖のあまり泣き出すさまに、危険な遊びはやめなさいとおとうさんが慌てて止めることもあったのだとか。

「兄上の詩に、腹を抱えて笑い転げる豪胆は姉上だけが持っておられたが。子供だった俺がひきつけをおこさずに済んだのは、ひとえに運が良かっただけだッ」

 それでもこりない兄によって、幾度となく壊滅的な詩を聞かされ続けた哀れな幼子にいつしか耐性がついたのか。兄の詩に比べれば、市長の詩なぞすずめのさえずりだと堅物騎士は苦悩混じりに告白します。

「俺がしたためた詩を、兄上がこっそり自分のものとすりかえて送ったがために、アビーとブリジットとキャロルからまとめてふられたこともある」

 少しでも、幼い弟のかわいい恋の助けになればと思ったのであろう兄の愛。けれども下手の横好きをはるかに通り越した文字の災厄は、結果として弟を永久凍土のまっただなかへと叩き落とすはめになったようです。

 なんだかギルバートが、エイレネさまの詩を好む理由も分かるような気がするわと思いつつ、娘さんはもうひとつ気になっていたことをたずねました。

「そ、それと養魚池で聞いた、ものすごく恥ずかしい詩なんですけれど」

「…………」

「あれ、誰が書いたんですか」


 黙って見つめ合う、ふたりの間にひょうと風が吹きました。


「戻るぞ」

 一言告げるなり背を向けて、すたすたと歩いてゆく黒髪の騎士。そのすぐあとを、待ってくださいと娘さんが慌てて追いかけます。

「こたえを聞いてません、ギルバート」

「知らなくていい」

「少しぐらい教えてくれたっていいでしょう」

「知らずにいたほうがいいこともある」

 触れてはならぬ何かに触れたのか。さらに歩みを早めた騎士を、ねえまさか違いますよねと娘さんが必死の形相で追いかけます。

「あれを書いたのはギルバートじゃないって、お願いですから言ってくださいッ」

「聞くな、俺に聞くなッ」

 ついに駆け足で逃げだした騎士のあとを、いやーおねがい教えてーと半べそをかきながら追いかける娘さん。いつもと違う珍妙な光景に人々が唖然とするなか、焦らず慌てずと琥珀の騎士が悠然と呟きました。

「貴女なら、真実を知ることができるのだから」

 ただしその後で、盛大にふてくされるであろうあやつの世話が大変でしょうがと、この場にあってただひとり真相を知るらしい琥珀の騎士の呟きに応じるかのように、春風が薄紅色の花びらたちをやさしく舞わせるのでした。


 いっぽう、修練場の片隅で。

 無愛想な目鼻を書き足した橙色のかぼちゃをくっつけた修練用の人形めがけ、幾度も剣戟を見舞うわがまま侯子の鬼気迫る姿を、練習に訪れた騎士見習いたちは見ることとなりました。

 何があったんだよとたずねられ、ほんとうのことを口にしようかどうかと迷ったものの。

 いろいろ難しい年頃だからと仲間たちに応じた生真面目君の苦悩をよそに、かぼちゃなんかパイにしてやるぅうううううううぅというわがまま侯子の叫びが修練場に轟きわたるのでありました。


 北東より襲い来たるは春の嵐。

 新たなるながれを皆へともたらし、ふたたび北東へと去りゆけど。


 今日もまた、砦も町もじつにぎやかなことになりそうです。


(Fin)

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