第18話・そして嵐はながれを運び・9
むかしむかしのこと。ある殿さまが治めるちいさな町に、世にも怖ろしい怪物があらわれました。
畑や木々のゆたかな実りを枯らし、清らな泉や河を毒へと変じ、牛も馬も羊も人もおかまいなしに呑みこんでゆくむ怪物に人々はなすすべを知りません。
このままみな餌食になるよりはと、<かあさん>に救いを希った姫君が、父御や人々が振りしぼる嘆きを背にみずから怪物へ身を捧げようとしたときです。
いずこともなく現れた騎士の一団が、乙女を食らわんと迫る怪物めがけて馬を駆り、勇ましく戦いを挑んでいきました。
いかづちが轟き大地が揺らぎ、生きとし生けるものがおののき震え――昼と夜が七度入れ替わる戦いののちに、おぞましき怪物はついに討ち果たされ、ふしぎな卵へと封じこめられることとなりました。
大いなる喜びにわき返った殿さまや町の人々は、遍歴の騎士たちを友として迎え入れ、町を挙げて一月にもおよぶ祝宴をくり広げました。やがて殿さまの姫君が、騎士のひとりとめでたく結ばれともに町を治めることとなったとき、はなやかなお祝いはさらに三月も続いたのだとか。
この勇敢なもののふたちこそ誰あろう、まことの王たるアルトリウスと彼のもとに集うた騎士たち。
そうして情け深き姫君がいとしき背の君と手をたずさえ、人々と立て直した町こそがランスのおこり。
以来ランスでは、代々の市長が魔物を封じた卵の護り手として立つならわしとなったのですが――
「ランスのへぼ詩人、当代の市長がへまをやらかしたってわけさ」
盗人ごときに後れを取るとはねとぼやいた占い婆のそばで、石畳に並んで腰を下ろしパンを頬張っていたふたりの少年が面を上げました。やかましく空腹を主張しつづける仔狼どもに辟易した占い婆によって、どうにか食べものにありついたというわけです。
「ほれとほのほりへとはんのはんへいは」
「パンを食べてからしゃべれよ、レオ」
行儀が悪いなと顔をしかめた生真面目少年をよそに、大ありだよと占い婆が答えました。
「卵が持ち出されたのは、いくさのどさくさに紛れてのことだったからね」
澱みと諦めに倦んだ、ランスの人々が招き入れたのは新しい風。
若きベルナールにその地位から追い落とされた前市長が、ならば目にもの見せてくれようと昏きおもいを燃やしつつ、護り手しか知らぬ秘密のありかから卵を持ち出したことがすべての始まりでした。
「おおかた、外つ国の成金あたりにふっかけるつもりだったんだろうが、町の連中と<狼>に追いつめられて逆上したのかねえ。しなびた身を魔物どもに食らわせちまったときたもんだ」
どこで往くべき道を違えたかとつけ足した、老いたる巫女の双眸に浮かぶのは蔑みか、哀れみか。
力に取り憑かれ堕ちゆく前には、かの男が志たかき人としてランスじゅうの信望を集めていたことを、少年たちは砦のおとなたちからたびたび聞かされたものでした。
「お天気ベルナールとゆかいな一味が気づいたときにゃ、卵はとうに東の果て。この町までひそかに流れついていたというわけさ」
おかげで、あたしが行方をたどるのにどれだけ苦労したことかと、占い婆は鼻を鳴らします。
「で、それとこの砦と何の関係があるんだ」
パンを頬張っていたばかりにくぐもってしまった問いを再び発したわがまま侯子に、だから大ありだと言っただろうと老いたる巫女は顔をしかめました。
「げに怖ろしきはひとの欲、って言うじゃないか」
ひそかに託された品をエーグモルトへと運んでいるうちに、ちっぽけな悪党の裡に芽吹いた欲がどんどんふくれあがっていったのか。
こりゃ相当なお宝に違いないぜ。聞けばあのお偉いさんは魔物に食われちまったっていうし、何なら俺がひともうけさせてもらったってかまいやしないよなあと、前市長との契約をあっさり反古にした運び屋が意気揚々と向かったのが、何を隠そう東の砦だったのですが、
「ヴィダス、イドリス、ガスパール――いわくつきの代物を二束三文で買い叩いたのは、ここの長老どもだ」
まさに海に千年、山に千年。口八丁の手八丁。
老熟した悪賢さを思う存分発揮して、人でなしと泣きわめき声を限りに罵る小悪党から、ただ同然に卵をせしめたというわけです。
「……またあのじいさんたちか」
「いいかげん、隠居ってことばを覚えりゃいいのに」
少年たちが、げんなりした顔を向け合ったのも無理はありませんでした。
騎士と王妃の悲恋のもとになった惚れ薬、火蜥蜴のしっぽにマンドラゴラ、額に<生命>と綴れば動き<死>と綴れば土塊に還る人形、あげくの果てには得体の知れぬ魔物の卵。
とかく騒々しいできごとにはこと欠かぬ砦ですが、旺盛なる好奇心と迷惑な探求心をもてあます、やたらと元気いっぱいなご老体がたによって引き起こされたものも数えあげればきりがありません。
「それでいま、卵とやらは砦のどこにあるんだ」
「さあねえ。あたしが来たときには、弟子どもをこき使って砦じゅうの堀や貯水池をさらわせていたけど」
おおかた浮かれるあまりに足でも滑らせて、水の中に落っことしたんじゃないのかいと無責任なこたえを返した占い婆に、
「どうするんだ、そんなものが甦ったら」
のんきにパンなんか食べている場合かと立ち上がったわがまま侯子に、そのときはそれまでさと老いたる巫女は答えました。
「冥府の海にたゆたい、とこしえの闇にひそみうつし世へと渡り来た<深淵に棲むもの>なぞ、あんたたちがどうにかできる相手だとでも思っているのかい。アルトリウスと騎士たち――あのしょうもない暴れん坊どもがどうにか勝てたのも、あれが単に幼生だっただけのこと」
それから数百年。ひとの世がうつろい戒めが忘れ去られ、封じられた魔物が我が身と、今はなき騎士たちとランス市へのうらみを育むには十分な刻だったことでしょう。
「封印なぞ、しょせんいつかは壊れる鍵のようなもの。前の市長がいらぬことをしてくれたおかげで、あれが甦る時期を早めちまったというわけさ」
「……いつなんだ、それって」
おそるおそる尋ねたわがまま侯子に返ってきたのは、たいへんあっけらかんとしたいらえでした。
「今晩。それかあしたの朝餉か、遅くとも夕餉どきぐらいじゃないかねえ」
そうなりゃ砦どころか、人も魔族も仲よくそろっておしまいさと老巫女が締めくくると同時に、そら見ろやっぱりろくなことがないじゃないかと、生真面目少年が叫ぶなり頭を掻きむしりました。
「俺はただギルバートさまにお仕えして、ダウフトさまにほめていただいて、りっぱな騎士になって、女の子たちにちょっとかっこいいところを見せたいだけなのに。なのになんでおまえが絡むといつもいつもこうなるんだよッ」
「俺に聞くなよ」
ふつうに生きたいだけなのにーッと、かなり取り乱している相棒へ冷静に応じつつ、俺のせいじゃないぞとわがまま侯子は内心でぼやきます。よい子のみんなにはちょっぴり刺激的な言い伝えに彩られていた隠し通路といい、卵の封印といい、やりたい放題のご先祖たちが勝手にやらかしたことまで子孫のせいにされてたまるかと口にしようとしたときです。
「生きるために」
わめく生真面目少年をなだめていたわがまま侯子の耳に、占い婆の声が届きました。
「それが、アルトリウスが剣を取った理由だった」
「婆」
「ここにも、同じように立ちあがったものがいたはずだね」
占い婆のことばに、わがまま侯子の脳裏にある姿が浮かび上がりました。まばゆき剣を手に、怖ろしい魔物から人々を守りたもうと讃えられるのんびりやの娘さんが。
「ダウフト」
「あのとぼけた娘っ子はそういう名前かい。かぼちゃ頭は違う呼びかたをしていたけれど」
道理でしっくりとこなかったはずだよとうなずく占い婆に、どうしてダウフトを知っていると、わがまま侯子は鋼玉のまなざしに警戒の色をにじませました。
「いちおう砦の聖女だぞ、そう簡単に近づけるはずが」
「簡単だよ。娘っ子のほうから占ってほしいと頼んできたんだから」
てんで疑うことを知らないねと揶揄する占い婆に、わがまま侯子は思わず眩暈を覚えました。
お忍びで砦を抜け出し、黒髪の騎士をおともに人々でごった返すふもとの町の通りをそぞろ歩いては、かわいらしい小間物やみずみずしい花を眺めたり、のっぽの学僧に頼まれた薬や奥方さまからの寄付を聖堂や施療院へと届けることが、砦にいるときの娘さんの日課であることを思い出したからです。
「とんだ台風娘だ。かぼちゃ頭がくるくると翻弄されるだけのことはある」
オードの娘っ子にゃ一騎討ちの覚悟で臨めっていうじゃないかと呆れる占い婆に、べつに覚悟しなくたっていいぞとわがまま侯子は不機嫌に呟きました。この世の羊という羊に蹴倒される、世にも情けない呪いを受け継いだ騎士にオードの花をゆだねるなどもってのほかだと少年が改めて確信したときです。
「ちっぽけでありふれた、かなうあてもないねがいを胸に己が道を往くか」
声音ににじんだ憐れみに、わがまま侯子とどうにか落ち着きを取り戻した生真面目少年とが、そろって老いたる巫女を見やりました。
「……どういうことですか」
呟くように問うた生真面目少年に、そのままの意味だよと灰色のまなざしが向けられました。
「恥ずかしいから聞かないでなんて、かぼちゃ頭を無理やり通りの向こうに追いやってね。失せもの探しか恋占いかと思いきや、娘っ子はあたしにたずねてきたよ。帰ることができるかと」
「どこへ」
だってダウフトさまの村はと、驚きのままに問いかけた生真面目少年を遮ると、わがまま侯子は黙ったまま占い婆へ続きを促しました。
たとえすべてを焼き払われ、灰と骨になり風に散らされたとて、願うところはただひとつ。
「せせらぎが地を潤し、みどりが木々を彩り、牛や羊がのどかに草をはみ畑仕事に精を出すものたちの笑い声があたりに満ちる。そんなくらしを取り戻すことができるかと」
冥府から渡り来たものどもが、アーケヴに息づくいのちすべてを根絶やしにせんと蠢くのも、ちっぽけ村のリリアーヌが、たったひとり生き残った孫娘をかぼちゃ頭に託し、炎に呑まれる村から逃がしたのもそのためさと占い婆は続けます。
「母さんやおばあちゃん、もっと前のおばあちゃんがそうであったように、わたしも村を育む<かあさん>になれるかと、あの娘は聞いてきたよ」
ひとりでも残れば、女はやがて生命をつむぐ。
乳と血のもとにつらねられようと、そうでなかろうと、みずからの
いくさの嵐が吹き荒れる世にあって、それはなんと頼りない、けれども静かなねがいであったことでしょう。
「かなうのか」
婆には見えたんだろう、と問うたわがまま侯子に返ってきたのは、
「かなうとでも思っているのかい」
静かな、けれどもけして容赦のない老巫女のいらえでした。
「あたしはそう聞いた。娘っ子は答えたよ。いいえ、と」
まるでたわいもない恋占いが外れたかのような面持ちで、のぞみから隔てられたことを突きつけられた聖女さまはもう一度だけ、いいえと答えたのだとか。
「娘っ子の傍らには<剣>があった。姿かたちこそひそめちゃいたが、あれが放つ騒々しい気だけはすぐにわかったよ。そんなものを身の裡に宿した娘を、おまえたち人間がたやすく手放そうはずもない」
灰色の双眸に厳しいひかりを浮かべた占い婆のことばに、かつて娘さんから聞かされたことばがわがまま侯子の裡によみがえりました。
わたしはダウフト。<ヒルデブランド>の器で、そして剣に捧げられた――生贄なのです。
「<深淵に棲むもの>が現れれば、<ヒルデブランド>はあれに応じみずから動く。なまくら剣の意志とは関係なしに娘っ子もそうするだろう。限りある人の子だということすら忘れてね」
だから<髪あかきダウフト>は聖女――ひとのさだめから外れたものなのさと占い婆は続けました。
「娘っ子が<深淵に棲むもの>を前に、たった一度でもなまくら剣を抜いてごらん。あれが見境なく放つ力の負荷と反動に耐えきれず、塵となって消え失せ」
「そんなことさせるか」
激しく遮ると、わがまま侯子は鋼玉のまなざしで老巫女を見すえました。
生きるために。さだめに抗いみずからの生を貫くために。
慈悲なきものが幾度も放った死の顎から逃れつづけた若者が、仲間たちと剣を取り立ち上がることを誓ったときと同じように。
「ダウフトひとりに、何もかも背負わせたりなんかするものか」
脳裏をよぎった、黒髪の騎士の横顔に心の奥底をちりと焦がしながらも。それを振り払うと、わがまま侯子はさあさっさとここから出せと占い婆に詰め寄りました。
「父祖の名にかけて、望み通り<深淵に棲むもの>と一騎討ちだってしてやる。ついでにこいつも一緒だッ」
「ええええええッ」
偉大なる王のとんでもない裔により、魔物との腕力勝負の道連れにと指名された哀れな生真面目君が驚愕の叫びを上げるさまに、なにを寝ぼけたことを占い婆は呆れかえりました。
「ちゃちな魔族を相手取るのとはわけが違うと言っただろう。おまえたちなぞ、あれのおやつにもなるもんかい」
まともにかなわぬ相手なら、ちょっとばかり悪知恵を働かせるのが人間ってものだろうと続けると、占い婆は一面に複雑な紋様が描かれた広い石壁を見上げました。いつ、いかなる目的で表わされたとも知れぬそれをしばし見つめていたかと思うと、
「これで修復したつもりかい」
あちこちほころびだらけのつぎはぎだらけじゃないかと、鼻を鳴らした巫女は模様のひとつをたどってゆきます。
「何だ、これは」
「砦の礎さ。王となったアルトリウスが国じゅうに建造を命じ、みずから置いた結界そのもの」
「このあいだ、長老たちが修復したところか」
<蝙蝠>の襲撃があったときだなと口にしたわがまま侯子に、生真面目少年がぎょっとした顔を見せたとき、老いたる巫女は紋様を読み解くことをやめて、わがまま侯子のほうへと向きなおりました。
「少しくらいはたどれるようだね、ひよこ頭」
「だれがひよこだッ」
むきになるわがまま侯子に、口答えしている場合かいと返すと、老いたる巫女はさっさと続きをたどるようにと命じます。
「焦げた鍋が煤けたやかんを笑うって言っただろう。紋様結界で支えられたこの砦も、そこに通ずるこの通路も、なべてはアルトリウス――人騒がせなおまえの先祖が遺した、ありがた迷惑な代物さね」
後の連中がろくな仕事をしなかったおかげで、いまじゃ見る影もありゃしないがねと、正しき呪文の中に紛れていた雑文まがいのべつの呪文を引っ張り出すと、占い婆は無造作にそれを消し去りました。くどい文句なぞ並べたてたって意味がないんだよとぼやきながら。
「何をするつもりなんですか」
おそるおそる問うた生真面目少年に、迫りくる破滅を知らずに莫迦騒ぎをくり広げている、哀れな砦の連中へのありがたーいお慈悲さと老いたる巫女は不敵な笑みを浮かべました。
「おまえたちなぞ救ったところで、銅貨一枚の儲けにだってなりゃしない。けど、呼びもしないのにのこのこやってきたよそものに暴れられたあげく、娘っ子を塵にしちまったらあたしがリリアーヌに会わせる顔がない」
あたしは最期ののぞみを聞き届けたんだからねと呟き瞑目すると、占い婆はふたたび石壁に描かれた紋様結界を眺めます。
「招かれざる客にさっさとお引き取り願うために結界をちょいといじくって、あれがいた世界への門を開いてやろうってわけさ」
数百年ぶりにうちに帰してもらえるんだから、むしろ感謝してほしいぐらいだねと胸を張る占い婆に、わがまま侯子はまたも奇妙な感じを覚えました。なにやら自分には及びもつかぬ、微動だにせぬものの掌でころころと遊ばれているような気がしたからです。
「なにぼんやりしてるんだい、ひよこ頭」
「ひよこじゃないって言ってるだろうがッ」
「なら、さっさと頭と手を動かすんだよ。とんび頭はこっちにおいで」
呪文をたどることのできぬ生真面目少年に、そのあたりに転がっている光る石を掲げ持つように命じると、占い婆は嬉々として紋様がびっしりと並ぶ壁へと向きなおりました。
「やかましい仔狼どもに、情けぶかきユーラリアとランスの怪鳥。とどめはオードののんき娘とエクセターのかぼちゃ頭か」
なんとも頼りないことこのうえないが、背に腹は代えられまいと呟くと、老いたる巫女はわがまま侯子が裡に流るる血筋のままにたどってゆく呪文を追ってゆきます。
「わくわくするじゃないか。陸に這い上がってひとを食い荒らそうと血迷った、間抜けな
<深淵に棲むもの>と同じく、かつて人々に怖れられた伝承の怪物を挙げると、老いたる巫女はそらさっさと動くんだよと、わがまま侯子と生真面目少年を追い立ててゆきます。
「――そなたはどうする、エイリイが末子よ」
ひそめられた声に含まれたおかしげな響きと、灰色のまなざしに閃いた不思議な輝きに気づいたものは、誰もいませんでした。
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